星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

セーヌ左岸の恋

2003-02-22 | アートにまつわるあれこれ
 恵比寿でエルスケンを見た。仕事があったので、1時間しかいられなかったけれど、あさってで終わってしまうのでやっぱり見ておきたかった。展示されていた写真は、10年前の回顧展のカタログに載っているものも多くあって、サン=ジェルマン=デ=プレの愛すべき酔っ払いの姿は「やあ、また会ったね」と声を掛けたくなる懐かしさがあった。

 あの写真集のアンに、エルスケンが15年後に再会した時のフィルムが上映されていて、今回はそれを見たくて行った。70年代初め。アンは40代に入った頃か・・? そのころ画家になっていたアンも、サイケデリックとドラッグの時代に浸かっているようだった。見ていてこちらの胸が痛むのは、私の一方的なヤワさだろうけど・・。

 アンは、、、この2月12日に亡くなったそうです。たしか72歳位と書かれていました。

今夜、タイムズスクエアで。。

2003-02-14 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
   生活の内側はすべて、終りもなく始まりもなくむなしかった。
   無知の悲しい表われだった。
   「さよなら、さよなら」ディーンは長い夕焼けの中を歩いて行った。
   機関車が、彼の頭上を煙を吐きながら動いて行った。
   彼の影は彼の後を追った。影は、彼の歩みを、彼の考えを、
   彼の存在そのものを真似ていた。彼はふりむいて、恥ずかしそうに、
   照れくさそうに手を振った・・・
         『路上』(ジャック・ケルアック 福田実 訳)

 アメリカという国の距離感、地理感をかんじるのに、『路上』にまさる小説はない。それにしたって、、、男同士の別れがどうしてこんなにセンチメンタルなんだ。。男の子たちときたら、いつまでたっても中学生と変わらなくって、男がいちばん愛しているのはやっぱり男なんだ。『路上』の女はいつだってホテルやボロ家に置き去りにされるだけで、、、

 十年前くらいの雑誌に、ディーンを演じるなら絶対マット・ディロンだろう、と書いてあったけど、もう今では遅いかな。今なら誰かいるんだろうか・・一刻でも彼を止めたら死んでしまうんじゃないかって、めちゃくちゃなヤツ。

 ***

 Lou Reedのサイトで深い意味もなくアドレスを残してきたら、メールが来るようになった(笑)それも差出人がfan clubとかofficeとかじゃなくてLOU REEDで来るので、なんだか嬉しい。「NYのタイムズスクエアで今日、インストアLIVEをやるから来い」(行けないよ)とか、「今夜は起きててTVを観ろ」とか結構マメ。地球は狭くなったなあ、と思いつつ、でもやっぱ地球は広いよなあ、と。。

Why don't you come to your senses...なんてもう言わないよ。

2003-02-08 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
 ケルアック、ギンズバーグ、バロウズの3人で誰が一番好きかといったら、やっぱりケルアックになってしまうだろうな。ケルアックはさんざん仲間と馬鹿をやってクレイジーな日々を過ごした後で、かならずマサチューセッツの家へ帰る。そして独りでその膨大な記憶をロマンティックな物語に編集する。すごく淋しがり屋で、たった独りで机に向かいながら人恋しくてたまらなくなっているケルアックの姿が見える。路上の日々の喧騒とノスタルジックな想いのごちゃごちゃが、永遠に胸をうつんだけど・・ね。

 ケルアックはアーティストにはなれなかった。変貌していく世界とどんどん向き合っていったギンズバーグとも、本物の強靭な狂人だったバロウズともちがった。昔むかしのことだけど、放浪者に恋をして「あなたは通り過ぎてきた街で出会った人のことを、懐かしく思い出すことなんてないのでしょ」となじったことがあった・・かな?私も・・(笑)

 ルーリードも、ずっとワイルドサイドを歩き続けてきた詩人だと思うけど、先へ先へ、と進んでいけるタフネスがある。最近の日本のインタビューで、インタビュアーのキミが言いくるめられてどーすんのよ、と笑っちゃうようなのがあって、、、。でも、ルーの作品にも、本当はケルアックと同じ人恋しさも優しさもあるところが私は好きなんだけど、それでいてアーティストは笑みを浮かべながら残酷な変身をするものですよね。それでいいんだと思う。

ビートニク

2003-02-02 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
 今月は、アラン・ポーに始まり、ビートニクの時代からロックの時代を経て、再び今、どうしてビートやポーやディランなのか、、、アメリカ20世紀後半史をずずっと自分で辿ってみようと思っています。『ビートニク』(99年)という映画を最初に見た時、コロンビア大学や、ニューヨーク大の文学の講義でギンズバーグ、ケルアック、バロウズらを、「アメリカ文学史の偉大な作家達」「ビートの伝統は今も生きている」と妙に崇めているのが可笑しくて不思議でならなかった。たかが50年前の、しかも社会のはみ出し者で、麻薬中毒で、映画でも言ってたように「ジャック以外みんなホモで」・・・それを「この町の誇りです」とか言って年寄りになったギンズバーグを表彰したり、「アメリカ最大の知性!」とバロウズを紹介したり、、、(ロックの殿堂入りと一緒だな)と。。
放送禁止で、演奏場所もなかった音楽が、25年経つと「ロックレジェンド!」と言って表彰される。もちろん、私はとっても愛情を込めてこういうことを考えているのです。ばらばらと飴玉みたいに砲撃や枯葉剤を降らせるくらいなら、『裸のランチ』の幻覚の方が私は好きですから。

 下で、ディランのローリングサンダー・・の事を書きましたが、このツアーの大きな目的が、殺人罪で収監され、無実を主張しつづけていた黒人ボクサー、ルービン・カーター救済のためのLIVE。逮捕の状況など少し知ってみると、60年代、70年代でさえ人種への偏見は19世紀からさほど変っていないように思えてくる。南部作家のフォークナーの視点もポーからの流れの中に考えてみようか、と思っています。私はフォークナーは全然わかっていないので。。ポーの時代の南部での人種意識、白人の進化論的優位観、それと『モルグ街の殺人』との(オランウータンが犯人だったという)関わり・・・同じような「悪の枢軸」を今のアメリカは別のところに求めているようです。

 ***

 さて、ここからはロックの話。今度のディランのCDを聴いて発見したこと。発見・・と言ってもたいしたことではないんですけど、1曲目の『今宵はきみと』・・すごいロック感溢れてて、耳にしていきなり飛びましたね♪ あの転調した後のまるでボレロのように豪華なギター・・。クレジットに誰々とは載ってないけど、やっぱりミック・ロンソンがいたツアーだなあ、と心底思いました。私はこの曲のディランのオリジナル聴いてないので聴いてみたい。(サイトの視聴では全然ちがうアレンジですものね)

で、発見というのは、どこかで聞き覚えのあるこのタイトル『今宵はきみと』。そうですよ、第2期Jeff Beck Groupでやっているではありませんか。早速チェックすると確かにディランのカヴァーです。Voの感じが全然ちがうので気づきませんでした。この中でベックはものすご~~く官能的なギターを弾いてます。ブルージィなベックと、まさに雷鳴のような76年バージョンと。本当に全然ちがうんだけど、ミックはベックのものを聴いたかなあ、たぶん聴いていただろうなあ、などと両方を交互に聞き比べてにやにやしたりしているのです。

 ボウイと離れたあとのミック・ロンソンがソロをつくって、そうした後でディランとツアーして、、、アメリカにも家を持って「インディアン・サマー」なんかを創っていた、という流れがやっとやっとなんとなくわかってきた。。。伝え聞くミックの人柄にはアメリカは馴染んだのかもしれませんね。アメリカにはそんな懐の広さも確かにあるのに。。