星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

GW中間報告?

2018-04-30 | MUSICにまつわるあれこれ
GW前半、、 いかがお過ごしですか…

今日までとても良いお天気がつづいています。。 だからとっても忙しいです… 急に暑くなったから、 いっせいにいろいろなもの取り替えなくてはいけないし、、 先日まであまり体調が良くなかったから 出来なかったこといろいろで…

…でも 昨日は美術館に出掛けました。(その話はまた…)





 ***

25日に届いた A Perfect Circle の新譜「Eat the Elephant」、、 まだ2回しか聴けていません。。 

でも… 泣いた。。 ほんとに美しくて。。 

、、 ビリーさんが ASHES dIVIDE のアルバムを創ろうとしていて、、 もう4年前? 確か アルバムが完成したらツアーして… ってインタビューにも答えていたのが 全部やり直し、、 みたいな発言になって、、 どうして頓挫してしまったのかな… と思っていたら APCの方が急に動き出して、、 ツアーが始まって、、

あのころ、、 4年前のASHES dIVIDEのアルバムを待っていた頃、、 今度のビリーさんのアルバムは、 「今度はきっと シルヴィアン&フリップみたいなサウンドになっていくのかな」 と此処にも書いた事があって、、 その予感は少し当たっていた気がする。。 深いピアノの響きが多用されていたり、、

これは明らかにビリーさんがずっと創ろうとしていた音… というのが聴いていてすごく伝わって来たし、、 ビリーさんがずっと創ろうとしていた音を、 それはそのままAPCの音でもあったんだな、、 きっと何か足りない、と思っていた部分をメイナードとの作業の中で突破できたんだろう、と。。

その中で、 今 左サイドバーにも載せている "So Long, And Thanks for All the Fish." を聴いた時には、、 (最初に聴いたのがこのイルカの映像のヴィデオを見た時) APCにしては明るい曲調なのと メイナードの歌い方もクリアな高めの声で、 APCらしい曲ではなかったけれど、 でも ASHES dIVIDE を聴いていた時に感じたものと同じこれはビリーさんの曲! とすぐ思ったし、 イルカがひたすら泳いでいく映像を見てて Bowie の Heroes の事も頭をよぎったのね。。 それはあながち間違いではなかったみたい。。

この Revolverマガジン の長い長いインタビュー、、 まだ読めていないんだ。。 
https://www.revolvermag.com/music/maynard-james-keenan-billy-howerdel-perfect-circles-return-doomed-world

CDには 歌詞が日本盤にも載っていなくて 理解するにはこういうインタビューに頼るしかないので 時間が出来たら一生懸命リスニングしながら 記事も一生懸命読みます。。 

それから、 TV出演のライヴ映像もこちらに
https://www.revolvermag.com/music/see-perfect-circle-play-intense-talktalk-thanks-all-fish-kimmel

メイナード、 ちゃんとメイクしていて綺麗!!
前に視聴者撮影のコーチェラのを見た時は、 サウンドも鮮明ではないし、 メイナードのヴォーカルが全然出てなくて心配したけど、、 TVライヴのは(もしかしたら別音声使っているのかもしれないけど) ちゃんとしてて、 バンドの演奏もすごくカッコ良くて、、 特に前面にいる マットとビリーさんは二人ともなんていい男なんだ、、と。。 これが見られて感謝、 感謝… なのです。

、、 でも何しろまだ2回しかアルバム聴いてないんだから、、 なんにもまともな感想が言えない、、 でも待っていた甲斐があったし、 期待は全く裏切られなかったと思うし、、

またゆっくり聴いてから 書こう。。

 ***

GW後半も 忙しいんです。。

ラ・フォル・ジュルネTOKYOへ行ってチェロを聴くのと、、 また美術館へ行くのと。。


、、 日頃 時間的な余裕がなかなか無いから、 こういう機会だけはちゃんと逃さず出掛けたいし。。

… とはいえ、、 ゆっくりとリビングでJAZZのレコードでも聴きながら、 ずーっと一冊の本を長い時間かけて読んだりするお休みもいいんだけどな。。 出掛けた後は疲れ切って子供のように 電池が切れて寝てしまう私。。。 (ほんとは今も超眠い…)

… 欲しいのは 時間より 体力… (笑)


 お元気で、、 ね。



「三月の雨」:『文学の贈物 東中欧文学アンソロジー』より

2018-04-24 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
以前、 ルーマニアの作家 ドゥミトル・ラドゥ・ポペスクという人の 『砂漠の下の海』という短編小説について書きました(>>)。 ドイツ軍に占領された戦時下での 少年と少女のひとときの物語、、 一度読んだら 生涯忘れられない印象を残す作品でした。

きょうの作品もそれに似た 胸にずっと残る作品、、 とても短い作品ですが…

『文学の贈物 東中欧文学アンソロジー』(未知谷 2000年)の中の、 エヴァ・シェルブルク=ザレンビーナ「三月の雨」(田村和子訳)という作品です、、 1963年に出版されたものですが 内容は第二次大戦下の ポーランド、 戦時下のワルシャワの物語。



第二次大戦下のワルシャワというと、思い出すのは 「戦場のピアニスト」の映画。。 あの破壊され尽くした瓦礫ばかりの街で、 建物の屋根裏のような隠れ場所で生き延びていたピアニストの姿が浮かびます、、 物語の細部をもう一度思い出すために 戦場のピアニストのWiki を見てみました(>>

 ***

「三月の雨」より 短編の2ページ目からの引用です

 「突然わたしたちの住む通りに銃声が広がった。…
  最初の砲弾がわたしたちのアパートと交差する建物に当たった時、聖ポポラ礼拝堂は既に粉々に砕け散り、イエズス会神父の家は燃え、中庭は降りそそぐ火の粉と煤でおおわれていた。

  …砲弾は、まさにドイツ人からその通りに住むポーランド人に死を運び、わたしたちの屋根の真上をヒューヒューと鳴りながら通過して行った。 壁にぶつかる空気の衝撃波がびっしりと壁に巻きついた緑色の野ブドウを引きはがし、もぎ取った。 野ブドウの中にはたくさんの鳥の巣がある。 スズメにとっては八月最後の孵化の時期で、 どの巣もいまだ羽毛の生えそろわない雛でいっぱいだった。…」


、、作品を読んでいくうちに、 この引用の中の 「八月最後の」という時期が、 「戦場のピアニスト」のWiki などと照らし合わせると、 1944年8月の「ワルシャワ蜂起」の月だろうということが分かってきます。 (ワルシャワ蜂起 Wiki>>) 

物語には 戦況の全体像を説明するような記述はなにも無く、 この「わたしたちが住む」アパートから見る周囲と、「わたしたち」住人のことだけが語られていくのですが、 ポーランドの人々にとっては、 それがどんな「八月」だったのかということは おそらく説明しなくても心に刻まれていることなのでしょう。。 


ふたたび引用します。

 「様々な殺人兵器がヒューとうなる音、爆発音、そして鈍重な響き、 それらがしばらく静かになった時、少し開けた窓のそばに立つわたしの耳に三つの異なった、 しかしどこか似通った音が繰り返し届いてきた」


、、 その「三つの音」…  少し長いので要約してしまいますが…

ひとつめの音は、、 くずれた巣の中で雛が「ピーピー鳴いていた」音でした。

ふたつめの音は、、 治療室として使われていた地階から 「負傷者が諦め切ってそっとうめいている声だった。」

三番目の音は、、  「庭のさらに向こうの畑の中からかすかに…」 「もしかして、助けを求める声?」  

しかし、、 三番目の声を確かめるには 「畑を這って偵察と救助に行く姿が闇に紛れる時まで待たなければならなかった。」


… これが現実の、 一市民にとっての戦場なのでしょう。。 その「わたしたちが住む」アパートの小さな窓越しに見えるものが全て、、 そこから聞こえる「音」だけが戦況の現在。。

 ***

ここで、 作品の冒頭にそれぞれの作家の紹介文が載せられているので、 この「三月の雨」を書いた、 エヴァ・シェルブルク=ザレンビーナについての紹介文を載せておきます。 (紹介文なら掲載しても良いでしょう)

 

ここにあるように、 ザレンビーナという人は教師でもあり、 ドイツ軍に占拠されたワルシャワで地下活動に従事していた女性でした。 だからおそらく 「わたしたちが住む」アパートでは、 地階に負傷者を収容する「治療室」があり、 夜は「当直」と作中では書かれていますが、 交代で見張りや偵察をし、 占領された街で(教育も禁止されていましたから) ひそかに子供たちへの教育もつづけていたそのような女性だったのでしょう。。

物語のつづきです… 夜が訪れ…

 「静かな足取りでわたしはがらんとした中庭を巡回した。 今のところは平静だった。 住まいの階段に通じる玄関口の石の敷居に腰を下ろした。 その時、石の上に落ちるさび色の明かりの中に何かが見えた。 黒っぽい物。小さな影。 わたしはさっと片手でそれを覆った。 温かい! 生きている!…

 昼間に飛んできた銃弾がスズメの巣を打ち落とし、そこから雛が落ちたのだ。 生きている。 これから先も生きなければならない。 …

 当直を終えてわが家に戻る時、わたしは雛を携えた。」


 ***

作者が暗がりの中で雛を見つけたときの、 「生きている。 これから先も生きなければならない。」 と言い切る文章に涙がこみあげました。。 正直、、 自分たちの命さえも危うい時に、 砲撃の中で撃ち落とされた鳥の巣に関心を寄せることが出来るものなのか、、 それとも、 そんな死と隣り合わせの日々だからこそ、 か弱い命の運命をまるで自分たちの運命のように感じて、 決して失わせてはならないと強く感じたのか、、 
自分がそのような状況に置かれた時、 どんな行動をとるのか想像もつきません。。


拾われたちいさなスズメの雛の命、、 さきほどの「三番目の音」… それが発している命の音、、 奪われた、 またこれからも奪われつつある命のゆくえ、、 すべての状況が現実的にはひどく恐ろしく絶望的なものであるにもかかわらず、 このザレンビーナの短編には その絶望を上まわる 「屈しない意志」と「希望」がなぜか死の悲惨の向こうから 立ち上がってくるのです。。

、、 以前に読んだ 「砂漠の下の海」とどこか似た、、 そう、、 砂漠の下にある海を信じ切る 「信念」と同様のもの…


、、 たった12頁の短い小説は、 翌年三月、、 すなわち1945年3月の場面で終わります。。 終わりの場面でも、 戦況の詳しい説明はされていませんが、 「三月の雨が顔にかかったのよ」、、 と言う美しい場面が、 読み終える時のこちらの心までも洗ってくれるような気がしました。

 ***

この『文学の贈物 東中欧文学アンソロジー』では、 「三月の雨」の前に 同じくポーランドの女性作家 マリア・ドンブロフスカによる「ワルシャワ巡礼記」という短編が置かれています。 こちらの物語の冒頭は、、 「一九四五年二月三日…」 と始まります。 ふたりの女性作家の作品を合わせて読むと、、 ザレンビーナが 「わたしたちのアパート」と「スズメの雛」を通して描いたこの時期のワルシャワの状況や、ワルシャワを生き延びた人々の思いが、、 補完し合うように描かれて伝わってくると思います。

アンソロジーの収載作品は 出版者の方へリンクしておきます。(未知谷⤵) 
http://www.michitani.com/books/ISBN4-89642-008-X.html


 ***

東欧の戦時下の文学として、 冒頭に挙げたポペスクほか、 ハインリヒ・ベル短篇集についても以前に書きました(>>) ハインリヒ・ベルはドイツの作家です。

ベルと共に、 ドイツの作家で忘れられないのが アンナ・ゼーガースです。 ゼーガースもまたナチスに抵抗して亡命し、 戦時下の文学をのこしました。 かつて 「死んだ少女たちの遠足」を読みましたが手元にはコピーしか無く、 ゼーガースの本は今はほぼ絶版です。

今度、岩波文庫でゼーガースの『第七の十字架』という作品が復刊されると知りましたので 付け加えて書いておきます。 この作品は私は読んだことがありません。 かつて映画にもなった物語だそうです。 

また、ゼーガースの『第七の十字架』という小説が元になって、 作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェは 「交響曲第9番」を書いたのだそうです。 東京フィルハーモニー交響楽団のサイトに詳しいことが載っていました。
http://www.tpo.or.jp/information/detail-henze01.php

この交響曲も聴いたことがありませんので(たぶん無いと思います)、、 ゼーガースの『第七の十字架』が出版されたら、 交響曲も一緒に聴いてみたいと思っています。




朝日の昇る時間がとても早くなりました。 そして昨日の朝は まだ明けきらぬ窓の外で チチチ… チチチ… と小鳥がさかんに囀っている声が聞こえました。 暗がりの中で不思議なほど間近で…

まるで 「三月の雨」の 雀の雛かと錯覚してしまうような…  、、ここのところ 体調が思わしくない日々が続いていましたが、 その声に少し勇気づけられて今日のブログを書きました。 


 「生きている。 これから先も生きなければならない」

東響@サントリーホールのこととか…

2018-04-18 | LIVEにまつわるあれこれ
ここ一週間ほどのことをあれこれ。。 
(LIVEカテゴリの日記にはならないのだけど、、何処へ行ったかの覚え書きに…)

土曜日、 サントリーホールで東京交響楽団定期演奏会 ジョナサン・ノット指揮
マーラーの10番、 ブルックナーの9番、、 というふたつの遺作を聴きました。 



「遺作はあの世の気配が感じられるから好きなのです」 と、上のチラシにノットさんの言葉がありますが、、 「好きなのです」、、と言えるノットさんの精神力の強靭さ、、(私にはとても、好きなのです…などという感想は出て来ないです、、難しいし、、) そこに向かい合う追及心というか、 積極性(なんてヤワな言葉じゃないですね…) 闘争心、果敢さ、、何と言えばいいんだろ… 気迫、、 ものすごいものを見させていただきました。。

ノットさん、、と書きましたが それを音にした東響さん、、 ほんと渾身の演奏でした。 がんばった… (なんて失礼なのは承知で) 頑張ったね~~、、 と一緒に聴いていた友と終演後うなずき合いました。。

土曜日のサントリーホールの演奏は、 いずれEテレで放送されるそうです。 そして、 日曜日にはミューザ川崎で同じプログラムで演奏されたのですが、、 ミューザの方がさらに凄かったらしい。。 twitter 絶賛の嵐でした、、 両日、録音が入っていたそうなので 何かの形で音源化されるのでしょう。。 本当に絶賛の嵐だったので、 ミューザの方も聴いてみたいな。。

 ***

私は 耳に(も)障害があるので、 クラシックコンサートは普通の人のようには楽しめないだろうと… 高いお金を出して聴きに行っても十分に聴き取れないだろう…と 思って、 TVとか CDで満足だと思っていたのだけど、、 一昨年の ウルバンスキ指揮、 ロマノフスキーさん(p)の 東響さんの定期演奏会での、 あのピアノの煌めき、、 東響さんの演奏力の高さ、、 自分でもこんなわくわくして聴けるんだな、、と。。

それに、、 クラシックコンサートはチケットを買う時に席が選べるのが一番いいな。。 だって、 ロックコンサートって大概席は抽選なんだもの。。(公演間近になって 一般発売の空席を探して買うのも賭けみたいなものだし) 

コンサート会場で貰った沢山のチラシを見て、 また行きたいものが出来てしまった。。
けど、、 ウィーンフィルは流石に高~~い(^^♪ メストさん指揮だけどムリ~~~(^^;
ウィーンフィルはTVのニューイヤーコンサートで我慢しよう。。

 ***

先週は、 お友だちを誘って 銀座のシャネルネクサスホールへ 「D’un jour à l’autre
巡りゆく日々 サラ ムーン写真展」も見に行きました。

今、オフィシャルページを見たら、 会場の映像とサラ・ムーンのインタビューが載っていました。
http://chanelnexushall.jp/program/2018/dun-jour-a-lautre/#REPORT

サラ・ムーンの映画『ミミシッピー・ワン』については以前にここに書きましたね(>>

サラ・ムーンが撮ったものをちゃんと見るのは あのとき以来だけれども、 でも一目で彼女の作品と感じる独特の空気、、 世界、、 それはしっかりと変わらずにありました。 



シャネルのホールへも初めて行って… (シャネルというブランドは殆んど無縁の世界ですから・笑)、、 パンフレットを見て初めて知ったのですが、 ホールでは演奏会も開かれるのですね。。 抽選で選ばれれば無料で。。 それもなんて贅沢なイベントでしょう、、 ピアニストのお友だちと応募してみようか…と。




平日の昼間、 お友だちに会える楽しみは、、 こうして一緒にゆっくりランチができること。。 屋上ガーデンのある素敵なビルも増えました。

 ***

3月おわりの日記に、 「4月はちょっと頑張ります」なんて書いて、、 もう4月の3分の2が経とうとしてるのに あんまり頑張れてないかも…? (体力的にはがんばってると思う…)

、、 う~~ん、、 少しは頑張ってるほうかな…? 自分が納得していないだけなのかな… どうなんだろ、、 

、、 ときどきね… 
すごく気持ちが不安定になる。。 こんなんじゃいけない、 もっと自分に厳しく、 そして誰かの為になること、何か出来ている?、、 って思いつつ、、 だけど自分の人生は すこしは楽しんでもいいんだよ、、 そろそろそういう気持ちになっても良い年齢なんだよ、、 とか。。 それが甘えにも思えるし…

ぐずぐずしているばかりで何も進んでいない日は、、 それこそ自分が本当にお馬鹿さんに思えて… (苦笑)

 ***

さっき、、 ついでにちょっと左サイドバーの音楽替えました。 アルバムが届くまで新曲聴くのどうしようかと思ったけど、、APCのコーチェラの映像も見ちゃいました(リンクはしませんが)

BRMCの新しいVideo、 めっちゃ綺麗めの男の人ですね、、 以前にも素敵なMVありましたが、 この人 モデルさんのようです。 ちょっと痩せすぎかな? だけどなんてまぁ綺麗なんでしょ。。

ジョニー・マーさんのVideoはカッコいい! このままガイ・リッチー監督かなにかのロンドン映画になりそうな雰囲気。。 サウンドもまさにこの映像のまんま。。

フランソワーズ・アルディさん、、 美しい。。 そして英語の歌詞だったので嬉しかった。 やっぱりシャンソンは言葉ですから、、。
、、今の気持ちにダブって、、 思わず涙が…


雨はあがったみたい。。


海のうえに 青空が…  みえてる


ずっと…

2018-04-09 | アートにまつわるあれこれ
日曜日、、 六本木のミッドタウンへ行く用事があったので、 ちょうど今 FUJIFILM SQUARE で開催されている 「昭和が生んだ写真・怪物 時代を語る林忠彦の仕事」写真展を見ました。



、、私は文学部大学だったにもかかわらず 文壇の人物関係など全く疎いのですが、 この太宰治先生のフォトは有名ですね。 銀座の文壇バー「ルパン」でくつろぐ姿。 チラシでは分かりにくいですが、 瞳がきらきらしてて本当に楽し気に見えます。 太宰は《文壇》を愛した人だったのでしょうね。。

この写真は縦長にトリミングされていて、 元はこの右側の人物と語らっていたのですね、 そのオリジナル写真がありました。 その作家さんの姿も…

他に、 終戦後の昭和21年~25年くらいの東京を写した写真が何点もあって、 とても有名な写真ばかりですから 見覚えのあるものも沢山… 

前に書いた、 椿實作品の中の 終戦直後の都会…、 椿も、 中井英夫も、 三島も、 安部公房も、 吉行淳之介も、、 皆ほとんど同年代で、、 終戦時にはたちそこそこ… という若き日をこの街で送っていたのだな、、 とあらためてそんな眼で写真を見ていました。

 「戦争の記録というものが、そうした指導者たちの回顧やざんげ、もしくは反対に虐げられた兵士や難民の抵抗といった図式ばかりで積みあげられてゆくのも奇妙な話で、大部分の市民たちは、それらの戦史にもかかわりのない地点でただ濁流に押し流され、あらがっていた筈である。戦史には記されない戦争、いわばもうひとつの、まったく別な戦争を生きた人々がほとんどではないのか」

 「…たとえば昭和十九年の八月には、銀座を桃色のワンピースに下駄ばきという女性が平気で闊歩していたし…」

 (いずれも中井英夫「見知らぬ旗」より)

、、という文章を先日読んでいたばかりだったので(前回の日記)、、 林忠彦の写した戦後の街に、 少しそのような 「市民たち」の姿を思いました。 かといって、 その市民たちが「平気」に見えた生命力の逞しさの一方で、、 中井も、 椿も、 生涯「終戦時」の記憶が 筆を執る人生の核(マグマ)みたいなものであり続けたのでしょうから、、 大きな傷痕ではあった筈です。

ボリス・ヴィアンも戦争について語っていました。 1920年生まれのヴィアンは 1940年にはたち、 終戦時に25歳、、 「そのことの意味」についてインタビューで語っていたのを前に読んだ覚えがあります。 だから自分は「笑う(嗤う)」のだと、、 戦争が始まる前に笑っておかなければ、 戦争が起こってからでは笑えませんから… というような。。(今、本を参照してないので間違っていたらすみません)

 ***

フジフィルムスクエアが ミッドタウン六本木にあるので、 写真展のあと 緑あふれるガーデンの方を歩きました。 桜の花はすっかり若葉に変わりましたが、、 色とりどりに花が植えられた花壇、、 遊歩道のまわりの新緑、 高層ビルと青空と白い雲、、 みんなきらきらしていました。





ガーデンの中ほどに、 オープンカフェがあって、、 大きな桜色の風船がいっぱいいっぱい浮んでいて 「何だろう…」と思ったら、 リッツカールトンと「モエ・エ・シャンドン」とのコラボレーションカフェだそうで、、 桜をイメージした素敵なスイーツや モエのロゼや 桜色のカクテルや、、

あまりにも綺麗なのでメニューボードに見とれていたら、、 ウェイターさんが丁寧に説明してくださるので つい誘われて、、 陽射しはありましたが少し風が冷たくて、、 歩いていたらちょっと体も冷えたので 「ホット桜カクテル」を頂きました。 シュークリームには中に大粒のチェリーが入っていてとても美味しかったです。 今度の日曜日までなのですって…



、、 都会の中にも こんな緑の木々がいっぱいのオアシスがたくさんあります。。 それは人工楽園なのかもしれないけれど、、 ビルがひしめく 人々もひしめく都会で 心地良く散歩したり 子供たちが遊んだりできる場所、、 昔より確実に増えて来たと思って…

上野公園も 私が上京した頃には博物館へ行くのも独りでは怖いような場所でしたし、 西新宿もしかり… 、、 でも上野も噴水のまわりで いつも子供連れの家族がお昼を食べている風景に変わって、、 

、、 私は東京が好きです。。 故郷の山々の美しさはずっと記憶にあるけれども、 たぶん生涯都会で暮らしていくと思う、、 私のようなひ弱な人間に生きられる場所は ここ都会なんです。。 人工楽園の中で、 半分 人造人間みたいなあっちこっち手を加えられた自分は 生きていけるんです…(笑




、、 昭和十九年の八月に 桃色のワンピースで銀座を闊歩していた…
たぶん そのひとも都会を愛していたのでしょうね。。 そしてどんなときでも お洒落して今のその季節を生きていたいと…



ずっと ずっと これからも 此処で。。

追想という美しい嘘…:中井英夫「燕の記憶」

2018-04-05 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
先の日曜日に読んだ本のはなし…




『幻戯』 中井英夫(出版芸術社 2008年)の中の 「燕の記憶」という話。

ここに「A」という 「ほっそりと病み勝ちな、それでいて鋭く鬼気を孕んだ」 「晩年には病み疲れて自殺でもしそうな」… 人物が描かれています。 この冒頭のあたりを読んだだけでも、 もうどの人物のことを語っているのか 容易に想像できますね。。

「わたし」の生家は、 その「A」の住む「田端」の家といくらも離れていず、 Aの次男の「Tさん」と「わたし」は同じ幼稚園に通っていた… と思い出が語られていきます。

「A」… 誰もが想像するその《作家》が田端に住んでいた事も私の記憶にありましたし、 中井英夫の生家はどこだったか はっきりと覚えてはいませんでしたが 確かウィキか何かで 誰かのご子息と同年であったとかいうような記述を読んだ覚えもうっすらあり、 だからこれは中井英夫の幼少期の話なんだ、、と思って読んでいきました。

「わたし」が「A」さんの家で 次男の「Tさん」と、 たくさんの本を積み重ねてトンネルのようなものをつくって遊んでいた その日… 

 「うしろのふすまがすうと開いた。 ふりかえると、鴨居につかえる程背の高い…」


、、その「お父さん」が

 「―――そこに小学生全集の、世界童話集はないか。 赤いやつで、『幸福の王子』の入っているのは。」

、、 と尋ねたのです。 それが「わたし」とそのお父さん「A」との初めての対面でした。 

 「幸福の王子! わたしの体は瞬間かあっと熱くなり、頭は恥ずかしさで一杯になった。 わたしは『幸福の王子』をつい最近読んで、 その話はよく知っていたのだ。 知っている、ということがこの場合何かひどく悪いことでもしているようで、 かといって初めての人の前でそれ知ってる、と云える程わたしは大胆でも素直でもなかった」

、、 つい長い引用をしてしまいましたが、 この部分の感情が、 あまりにも中井英夫らしい繊細さと、 多感な子供特有の自意識の複雑さと、「A」という人への瞬間的な憧れのような、のぼせのような緊張とが すごい密度で凝縮されていて、、 やっぱり中井英夫という人は凄いな… と思いつつ、 そして、 「A」さんが 子供部屋に『幸福の王子』の本を探しに来た…! という状況に、 読んでいる私自身もすっかりのぼせ上がってしまったのです。。

 ***

偶然にも、 その前日、 『ガルシン短篇集』の中の 童話的なお話 「がま蛙とばらの花」を読んで、 なんだか オスカー・ワイルドの童話みたいだな… と思って、、 ワイルドの童話集のことも想い出していたのです。。

ガルシンは、、 (上のフォトの)本の帯にも書かれていますが、 精神を病んだ悲劇の作家と言われ、 残っている作品は20作ほどしかないそうです、、 「がま蛙とばらの花」は 7篇の短編集の中の唯一のメルヘンで、、  
病弱な男の子が自分のもののように愛していた花壇、 そこに咲くばらの花、、 だけど その春、男の子はベッドから起きる事も出来ず ばらの花を見ることも出来ないほど 弱ってしまっていて…

、、 中井英夫の話から逸れてしまうので あとは省きますが、、 なんだかオスカー・ワイルドの 「ナイチンゲールとばら」のようなせつなさをちょっと感じるメルヘン… という印象でした。 ストーリーが似ている訳ではないけれど、、 ガルシンが精神の病のなかで絞り出すように書いたメルヘンには、 どうしても何かを犠牲にしなければならない哀しい《美しさ》があって、、 そこに ワイルドの童話の哀切さと似たものを感じていたのです。。

 ***

話をもとに戻して…  中井英夫の 「燕の記憶」、、 それは 言うまでもなくワイルドの童話『幸福の王子』に出てくる「燕」のことですね、、、 再び引用します。 ふすまを開けた「お父さん」は、、

 「―――世界童話集の上巻だったかな。 イギリスのお話で『幸福の王子』だ。 燕に宝石の眼玉をくりぬかせて、貧乏な人にくれてやるお話だ。
 お父さんはたたみかけてそう云った。…」

、、 先ほど 「かあっと熱く」なったと、 「わたし」の気持ちを抜き書きしましたが、、 その「わたし」は「お父さん」の求めに応じるべく 部屋に散らばった本を 無茶苦茶に引っ掻きまわして 『幸福の王子』を探します。。

、、 この後はもう止しましょう。。 


こんな逸話があったなんて…。。  私もぼうっと放心したように読み終えました。。 読み終えた、といってもほんの数ページの短い文章です。 ですが、、 最晩年の「A」というお父さんが ワイルドの『幸福の王子』を探しに子供部屋へ来た… ということに ひどく ひどく 胸を打たれていました。

、、 ちなみに、、 芥川龍之介の最後の作品 「西方の人」の中の 「18 クリスト教」という部分に、 以下のような記述があります、、

 「クリスト教はクリスト自身も実行することの出来なかつた、逆説の多い詩的宗教である。彼は彼の天才の為に人生さへ笑つて投げ棄ててしまつた。ワイルドの彼にロマン主義者の第一人を発見したのは当り前である…」
 (全文は青空文庫で読めます>>

 
 ***

、、 最後に 種を明かさなければなりませんが、、

中井英夫の幼少期の思い出として私が読んだ 「燕の記憶」、、 芥川龍之介の次男「多加志さん」と同年で 「よく遊びに行った」のは事実だそうです。。 だけれども、 「燕の記憶」の真実は、、 最初に挙げた本『幻戯』の 「禿鷹」という文章の中で明かされます。。 中井英夫は 多加志さんの「お父さん」に会った記憶は、 無い、のだそうです。。  「燕の記憶」は その「無念」の産物だったのです。。

「燕の記憶」・・・ 「記憶」には memory という言葉が普通使われます。 でも、 この「燕の記憶」は、 メモリーではないのです。

《remembrance =リメンブランス》という 「記憶」を意味する語があります。 誰かの思い出=誰かを偲んで… という意味で使われる場合は remembrance という語を使います。

「燕の記憶」は芥川へのリメンブランスなのだな、、と思いました。 中井英夫の脳裡のメモリーには存在しない 「A」というお父さん… でも、、 リメンブランスとして幼い日に多加志さんと遊んだ子供部屋には 『幸福の王子』があって、病み疲れたお父さんは最後にふとその本を求めて子供部屋へ探しに来たのです。。 「西方の人」のクリストとワイルドの記述のことも、 きっと中井英夫は知っていたのでしょう。。


小説という許された虚構、、 リメンブランスという美しい嘘…


エイプリルフールの日に私が出会った、、 あまりにも 「美しい嘘」なのでした。。