先日、萩原朔太郎の詩で、ポーのULALUMEからとられた「ULA」と題にある詩のことを書きましたが(
>>)、それが下に挙げた「沼澤地方」という詩です。他に、「猫の死骸」という詩にも「浦(ULA)」という名の女が詠まれています。
朔太郎は死後50年過ぎて、著作権が切れていますから、詩の全文を載せても良いでしょう。(他は青空文庫で
>>)
沼澤地方
――ula と呼べる女に――
蛙どものむらがつてゐる
さびしい沼澤地方をめぐりあるいた。
日は空に寒く
どこでもぬかるみがじめじめした道につづいた。
わたしは獸(けだもの)のやうに靴をひきずり
あるひは悲しげなるをたづねて
だらしもなく 懶惰(らんだ)のおそろしい夢におぼれた。
ああ 浦!
もうぼくたちの別れをつげよう
あひびきの日の木小屋のほとりで
おまへは恐れにちぢまり 猫の子のやうにふるゑてゐた。
あの灰色の空の下で
いつでも時計のやうに鳴つてゐる
浦!
ふしぎなさびしい心臟よ。
浦(ULA)! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。
この詩からもわかる通り、「ULA」とはもう逢えない女性のこと、なのでしょう、、。ポーの「ULALUME」については、興味がおありの方はどうぞ左のブックマークにある「Project Gutenberg」で、原文を読んでみてはいかが。ポーが言ったというように、声に出して読むといいかもしれません。
ところで、朔太郎自身が、この詩を自分で朗読しているものがCDで聴かれるのです。「
よみがえる自作朗読の世界」というCD。このCDについては発売前から新聞等で見て興味を持っていたのですが、ようやく聴くことが出来ました。変わったところでは、坪内逍遥がシェイクスピア劇『ハムレット』の、あの有名な場面を、自らの翻訳で語り演じているもの。「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ・・・」から始まり、オフィーリアへ尼寺へ行けという科白、、、(尼寺、、という訳、、私は子供時分から、何か引っ掛かったままなんですけど、、)これをどんな翻訳でどんな風に語っているか、、いろいろ感じる所がありました、、それはまたいずれ。。
朔太郎の朗読は、とてもとても期待して、でも期待はずれが怖くて、聴くまでに2日余り躊躇してました(笑)。いざ!、、とPlayしてみると、、声にびっくり、、ではなくて、こういう風にこの詩を朗読することにちょっとびっくり。。詩の朗読って難しい、、何が正しいなんて無いと思うし、子供の読み聞かせとは違うのだから、感情を込めれば良い訳でもない。書いた本人がどう語るか、、。そこにとても興味がありましたが、、ただ、、ULALUMEを想像していた私には、予想外のものだったかな。
声が残る、、って不思議ですね。。
録音時期のリストが載ってなくて何歳頃の声とかわからないのだけれど、坪内逍遥など、江戸時代の生れの文学者の声が残っている。「本」の中の活字の存在だと思っている人が、声を聴くと、生身の肉体を持って立ち上がってくるように感じるから不思議。現代以降の文人なら、誰でも大概、声は残るのだろうけど、1300年も昔から、、万葉の東人などもちゃんと声を持って、歌を詠んでいたんだなあ、と思うと、、少し不思議。
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詩人たちの声と言葉、、で想い出しているのですが、
お友だちが送って下さったボブ・ディランの映像の中で、Series of Dreams (こちらに歌詞が
>>>)という私は聴いたことの無かった曲があって、それがまるでU2を思わせるような曲調で、、そこも格好良いと思ったのだけど、PVも素敵で、コラージュ映像のように、たくさんの詩人・作家の姿が、ディランの過去と現在の画像と一緒に次々現れる。ギンズバーグ、ケルアック、ランボーの姿まではちゃんと判るのだけど、他にも、ゲンズブール? ジャック・ブレル? スタインベック? A・ジャリ? う~むよく判らない。でもすごく素敵なPVで何度も見てしまう。文学とフォーク、そしてロックを強く結びつけたディランの人生を感じて、、。
詩人たちの夢のシリーズ、、。
このごろは、、夢見る詩人がいくぶんか少なくなったような気がします。
夢は、、解釈するものではなくて、見るものだから。。