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星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

夏の燈台。。。

2006-07-26 | …まつわる日もいろいろ
青空を、、と書いたら、きょうはきらきらと晴れました。

ここ数日、体調すぐれずクスリに頼りつつひきずるように身体を動かしていたけれど、
なんとか回復しつつあるのも嬉しい。
根っからの高気圧GIRLだから、太陽が嬉しい。

、、、昨年、実家を整理していた母がどこから見つけたのか、手には古い写真、、
「まあお前こんな笑顔、誰に向けてたの?」と笑われました。

そこには、真っ青なそらと海、、白い燈台の横、、という風景の中、
見事に日焼けした娘が笑っていて、、、それはもう見事なトースト色。
週末のたびに海へ、山へ、走り回っていた頃。。
体力的にも、年齢的にも、もう二度とあの頃の体験は出来ないけれど、
青空に夏雲が浮んでいるとそれだけで嬉しいのは昔から変わらない。

白い燈台の出てくる映画がありましたっけ、、。今度、あれを観てみようかな。
、、などとふと思い返しつつ、、夏野菜のサラダとスープで元気になりましょう。

雨の中の蝉

2006-07-25 | …まつわる日もいろいろ


先日、とある必要で病院に電話をした。「先生に聞いて来ますね、、」といって保留になった電話の音楽が「レット・イット・ビー」だった。困難に陥った時マリア様があらわれて、なすがままに、、と告げた、、? とそんな歌がリフレインするのをずうっと聴いていた。。

そして、薬局でおくすりを待つ間、流れていたのは、、「アイ・シャル・ビー・リリースト」、、、。いつかきっと、いつかきっと、、解き放たれるさ、、?

タイムリーといえばタイムリーなんだけれど、、なかなかビビッドに反応してしまうので困りましたの。。

雨模様は変わらないのに、
数日前から庭で蝉が鳴き始めました。
どこか遠慮がちに鳴いている蝉。早く青空を見せてあげたいね。

            

くもりぞら、、ときどき雨

2006-07-24 | 映画にまつわるあれこれ
心に残っている映画を、、

Jの悲劇(原題:enduring love)
新ジェームズ・ボンドをやることになったダニエル・クレイグの主演。彼は好きです。シルヴィアで、詩人シルヴィア・プラスの夫、テッド・ヒューズを演じていた。詩人とか今回の大学教授とかが似合いだけれど、感情が暴走する演技が好き。この映画、観るまで原作がイアン・マキューアン(『愛の続き』)だと気づかなかった。イアン・マキューアンの小説が、たくさん映画化されていることを初めて知る、、「セメント・ガーデン」の映画版は今度ぜひ観よう(今は「贖罪」が撮影中とか)。今作もそうだけれど、映画の邦題が全く違うのが余りにもヒドイと思う。今作では、イアン・マキューアンらしい日常が崩壊していく感覚、物語の導入部と物語がすっかり変わっていく感覚が良かった。ダニエル・クレイグには最も英国人らしいジェームズ・ボンドになって欲しいもの、、。

WAR REQUIEM
デレク・ジャーマン監督作品ではまだ見ていないものがいくつかある。映画の中に科白はなく、戦争詩人ウィルフレッド・オーエンの詩がナレーションとして語られ、老兵士ローレンス・オリヴィエ(これが遺作となった)や、従軍看護婦ティルダ・スウィントンや、独兵士ショーン・ビーンなどの言葉の無い演技が、第1次大戦から現在の紛争までのレクイエムとなって淡々と綴られる。ティルダ・スウィントンは今は「ナルニア国」でも有名だけれど、この映画ではどんな場面でもストップすればそのままレンブラントの絵になりそうなほど美しく、そして、デレク・ジャーマンの映像は美しいが故に痛ましい。

9SONGS
これについては以前ちらと書いた。black rebel motorcycle club のライブシーンが冒頭にある映画。彼らのLIVEで出会った男女。映画のテーマは彼ら二人のLOVEなのだけれど、監督がコメントしていた通り、映画のもうひとつのテーマはLIVE。LOVEとLIVE。だからタイトルにもある通り9つのLIVEシーンが流れる。それがダンディウォーホールズ、プライマルスクリーム、フランツフェルディナンド等、自分的に非常に解るアーティストたちで、LIVEを背景として撮影するのではなく、LIVEの歌(とその歌詞)とその場にいる二人(そしてその場のオーディエンス)の雰囲気が映画のストーリィをかたちづくっていることが、自分にとって良く解る映画になっていた。20代そこそこのある一時期でしか有り得ない熱情なのだけど、black rebel~に始まり、black rebel~で終りを告げるLOVE(その中でマイケル・ナイマンの公演が大切な記念日になっている)、、、この感覚にシンパシィを抱く人にはとてもキュートな映画だろうと思う(そうでない人にとっては唯のエロティックな映画だ)。

事物の魂

2006-07-22 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)

   小説の唯一のモラルは認識であり、実存のそれまで未知だったどんな小片をも
   発見しない小説はインモラルなのだと。だから「事物の魂に向かう」ことと
   善き模範をあたえることとは、二つの異なった、和解しがたい意図なのである。

   「事物の魂」のほとんど聴き取れない、秘かな声が聞こえるようにするために、
   小説家は詩人や音楽家とは逆に、自分自身の魂の叫び声を黙らせる術を知らな
   ければならない。
                (『カーテン 7部構成の小説論』/ミラン・クンデラ 集英社

この、クンデラの文学論というか小説論と一緒に、かつて読んだ『日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか』(松岡正剛 朝日新聞社)を時々ひらく。日本の職人の「仕事」「仕組」には「分」とともに「当」がある、「当」を求めて「分」が動いて居るところがある、と正剛さんは言う。この「当」とは、西洋的合理的な「目標」「目的」とは異なり、そのため、職人がその「当」に近づいてくると、「ちっとも説明してくれないということになる」と書いている。

、、、なんだか、両者の語っていることは近いのじゃないかと思う。小説が与えてくれる素晴らしい歓びがあるとしたら、「当」に触れた、垣間見た、と思わせてくれるところかもしれない、と思う。「事物の魂」の秘かな声を求めていく時、小説家は(小説は、ではなく)、ますます寡黙になる。

、、昔の人はよく「分」ということを言った。私の母もよく言った。。母が教えてくれたことで一番確かだったと感じることは、人と人は「違う」ということだ。そう言い切られたら、自分の中の「分」を見極めようとせざるをえない。「分」が見えて、初めて「当」に触れることの歓びに近づけるのかな、、、と年を重ねて思う。
「分」を超えることばかり考えている「無分別」なやつが「若い」ということ、、なんだね。「無分別」はキライじゃないけど。

あなたは虜囚であり、そして自由である。

2006-07-18 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
雨、、やみませんね。
昼間、家にいられる日の雨は、そう悪くない。。 今年のGWに、喧騒の日々から一瞬逃れて、アルプスの麓のレストランで小雨降る木立を眺めていました。殆ど人のいない昼間のホテル。広いガラス張りのテラスに聞こえて来るのは、新緑をふるわす雨音だけ。。
、、災害の雨は困りますけれど、、。

 ***

大地に根を張る木々は、大地を掴んでいるのか、それとも、大地に囚われれているのか。
木々とは、自由なのか、それとも不自由なのか。

先日買った『ヴァレリー詩集』(鈴木信太郎訳/岩波文庫)にあった「篠懸の樹に」という詩で、ヴァレリーは、すずかけの大樹の足は大地の捕虜だといいます。私は、『星の王子さま』を思い出しました。バオバブの木は、「その根で、星を突き通します」と書かれている、、星が小さすぎると、バオバブのために「星が破裂してしまいます」と。。

大地の虜囚であるのも切ない。棲家である大地を破裂させてしまうのはもっと悲しい。
でも、ヴァレリーは終わりの連でこう書いています。

   おお、森の妖精たちと 愛情のこまやかさを競ふ 唯
         ひとりの詩人は、空翔ける
   天馬の脾(もも)を叩いて慰めるやうに、滑らかな樹の幹を
         撫でてお前を喜ばせ得られたなら……

   ――否(いな)、と樹は言ふ。その崇高な頂を
         燦々と耀かして、否 と言ふ、
   その頂を 大風は、一様に草を薙ぎ伏すごとく、
         ただ、 遍(あまね)く 薙ぎ倒すのみ。

「否」、、という強い拒絶の意思。詩人の慰めへの「否」。
たとえ空翔けることが出来ずとも、篠懸は、嵐になぶられる葉があり、陽光を刻み翻す葉がある。

Series of Dreams

2006-07-09 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
先日、萩原朔太郎の詩で、ポーのULALUMEからとられた「ULA」と題にある詩のことを書きましたが(>>)、それが下に挙げた「沼澤地方」という詩です。他に、「猫の死骸」という詩にも「浦(ULA)」という名の女が詠まれています。
朔太郎は死後50年過ぎて、著作権が切れていますから、詩の全文を載せても良いでしょう。(他は青空文庫で>>



   沼澤地方
    ――ula と呼べる女に――

   蛙どものむらがつてゐる
   さびしい沼澤地方をめぐりあるいた。
   日は空に寒く
   どこでもぬかるみがじめじめした道につづいた。
   わたしは獸(けだもの)のやうに靴をひきずり
   あるひは悲しげなるをたづねて
   だらしもなく 懶惰(らんだ)のおそろしい夢におぼれた。
   ああ 浦!
   もうぼくたちの別れをつげよう
   あひびきの日の木小屋のほとりで
   おまへは恐れにちぢまり 猫の子のやうにふるゑてゐた。
   あの灰色の空の下で
   いつでも時計のやうに鳴つてゐる
   浦!
   ふしぎなさびしい心臟よ。
   浦(ULA)! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。


この詩からもわかる通り、「ULA」とはもう逢えない女性のこと、なのでしょう、、。ポーの「ULALUME」については、興味がおありの方はどうぞ左のブックマークにある「Project Gutenberg」で、原文を読んでみてはいかが。ポーが言ったというように、声に出して読むといいかもしれません。
ところで、朔太郎自身が、この詩を自分で朗読しているものがCDで聴かれるのです。「よみがえる自作朗読の世界」というCD。このCDについては発売前から新聞等で見て興味を持っていたのですが、ようやく聴くことが出来ました。変わったところでは、坪内逍遥がシェイクスピア劇『ハムレット』の、あの有名な場面を、自らの翻訳で語り演じているもの。「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ・・・」から始まり、オフィーリアへ尼寺へ行けという科白、、、(尼寺、、という訳、、私は子供時分から、何か引っ掛かったままなんですけど、、)これをどんな翻訳でどんな風に語っているか、、いろいろ感じる所がありました、、それはまたいずれ。。

朔太郎の朗読は、とてもとても期待して、でも期待はずれが怖くて、聴くまでに2日余り躊躇してました(笑)。いざ!、、とPlayしてみると、、声にびっくり、、ではなくて、こういう風にこの詩を朗読することにちょっとびっくり。。詩の朗読って難しい、、何が正しいなんて無いと思うし、子供の読み聞かせとは違うのだから、感情を込めれば良い訳でもない。書いた本人がどう語るか、、。そこにとても興味がありましたが、、ただ、、ULALUMEを想像していた私には、予想外のものだったかな。

声が残る、、って不思議ですね。。
録音時期のリストが載ってなくて何歳頃の声とかわからないのだけれど、坪内逍遥など、江戸時代の生れの文学者の声が残っている。「本」の中の活字の存在だと思っている人が、声を聴くと、生身の肉体を持って立ち上がってくるように感じるから不思議。現代以降の文人なら、誰でも大概、声は残るのだろうけど、1300年も昔から、、万葉の東人などもちゃんと声を持って、歌を詠んでいたんだなあ、と思うと、、少し不思議。

 ***

詩人たちの声と言葉、、で想い出しているのですが、
お友だちが送って下さったボブ・ディランの映像の中で、Series of Dreams (こちらに歌詞が>>>)という私は聴いたことの無かった曲があって、それがまるでU2を思わせるような曲調で、、そこも格好良いと思ったのだけど、PVも素敵で、コラージュ映像のように、たくさんの詩人・作家の姿が、ディランの過去と現在の画像と一緒に次々現れる。ギンズバーグ、ケルアック、ランボーの姿まではちゃんと判るのだけど、他にも、ゲンズブール? ジャック・ブレル? スタインベック? A・ジャリ? う~むよく判らない。でもすごく素敵なPVで何度も見てしまう。文学とフォーク、そしてロックを強く結びつけたディランの人生を感じて、、。

詩人たちの夢のシリーズ、、。
このごろは、、夢見る詩人がいくぶんか少なくなったような気がします。

夢は、、解釈するものではなくて、見るものだから。。


星は巡って、、。

2006-07-07 | …まつわる日もいろいろ
あれから1年経ちました。
あれから、2年が経ちました。

あれから、、5年、経ったんだな。。

旧BBSの記事で残しておきたいものを、少しずつブログへ移して行こうかと思って、まずは2001年9月~10月の中から載せました。懐かしく思う方も、、どこかにいるかもしれませんし、、やはりその時、その時代の中で、考えたことをふと、思い返したくなるときもあるから。5年前、、世界がひっくり返ったような年でした。あの瞬間から、確実に私の世界観は変わってしまったと思う。個人のレベルの問題ではないけれど、、後戻りできない位相へ、、。

、、と同時に、個人のレベルで、この5年間、かけがえのない旅をしてきた、と思う。
何ひとつ変わっていない自分だと思うけれども、すっかり変わってしまった自分、、だとも思う。・・・おそらく、経験した人だけが感じることだろうけれど、本当に、ほんっとうに、つらかったし、そして楽しかった。。実際には、まだ結果は出たわけじゃないから、続きはあるのですけれど。
でも、これからもしも同じ道を進まれる方がいるとしたら、本当に、気が遠くなりそうに長い道程でも、とにかく歩き続けて、、。私がかつて言われた言葉です、、「世の中は裏切るかもしれないけれど、この努力は決して裏切りませんからね」、、。裏切る、、というと厳しいニュアンスになってしまうけれど、そうではなくて、横並び一線、すべての人に平等なスタートであることは確かだから。

先日、お友だちと話した時、「中田さん(選手)の生き方も素晴らしいと思うし、、カズさんの生き方も素晴らしい、よね」と頷き合った。歩む速度と、歩める距離は、人それぞれでおそらく違う。生れた環境も、降りかかる困難の時期も、それぞれ違う。でも、よく言われるように、降りかかる困難の総量は、きっと皆同量なのだと、、きっとそうなのです。

 ***

少しずつ、、すこしずつ、、動いていきたい。
先ず最初にしなければならないことは、、、本の山を整理すること、、お洋服を整理すること、、それから、お医者さんへ行くこと。。ふうっ、、これが一番、先延ばしにしてたこと。だいじなこと。。

なんとなく、、テンプレート変えてみました。
自分の言葉がおさまってくれる背景が無くて困ってしまいましたが、、。
昔のBBSで、とある方に、「夜明け前の空気」のような場所、と言って頂いたので、出来たら自分もそうでありたいし、、誰にとも無く、、でありながら、、誰かの窓辺の向うへ、、のつもりで、、ね。


Again...

2006-07-02 | 映画にまつわるあれこれ
しずかな朝。
窓から入る風は、湿度をいっぱいに含んでいて、今日も蒸し暑い日になりそうだけれど、珈琲を飲みながらこれを書いている時間が嬉しい。

 ***

アヌーク・エーメな感じ、、を確認すべく、
60年代の映画『男と女』の、20年後を撮った『男と女Ⅱ』という映画を観ました。
甘酸っぱい再会のお話かと思いきや、互いの仕事の背景が絡みつつ、いろんな人物も錯綜し、かなり凝った物語になっていて楽しかったな。
ところで、、、50代になったJean-Louis Trintignant、渋い風貌なのに笑顔とか若々しく素敵。一方、Anouk Aimee、、ビジネスウーマンとしてすっと背筋の伸びた感じがクールで、、あ、、ムリ無理、、このようなシャンとした女性にはなれません。彼女のようなきりっとしたお化粧も出来ないし。。せめて、彼女の、成長した娘さん(母と瓜二つのような役柄でとても素敵な女優さんでした)な感じに多少とも近づければいいな、、、もう遅いかしらね。

この映画で、自分の恋心の強さゆえに、身勝手な行動に走る若い女性が出てくるのだけれど、その心を感じることは出来るものの、同情も共感もしない自分がいて、、それはやはり自分も年を重ねたという事。。

 ***

再会、、、の映画でこれまでに心に残っているものがいくつかある。
別に今、誰かと再会を願っている気持ちではないけれど、、何年後かに、友人やかつての恋人に逢っても、懐かしく優しい会話が出来るようでいたい、とはいつも思ってる。「50代になっても逢って話が出来るようでありたい」と、20代の頃に言われたことがあるから、それを忘れないでいるのかもしれない。

ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 と ビフォア・サンセット
ジュリー・デルピーは昔から好き。女性の変貌ではなく、イーサン・ホーク演じる男性が大人になったことに結構感動。。ふたりが心の底の底を次第に投げ出すように重ねる、長い長い会話が胸に痛い。20代~30代なのかな? パリの街が美しい、9年後の再会です。

男と女 と 男と女Ⅱ、、は、20年後の再会。

もういちど、、は、最初の出会いの映画はないけれど、70代の再会(だから40年後かな?)。
Amazonのレビューにある「老婆」はひどいわ。素晴らしく美しい女優さんです。40年ぶり位の再会でも「変わらないね」だったか「昔のままだね」だったか、そんな言葉を掛けられるほど、ほとんど初々しいばかりの笑顔を見せられる女性が余りに素敵で。しばらく前に観たDVDなので、もういちど、観たいと思ってる。

、、、あ、そうそう。
ドイツの俳優さんでお気に入りのアウグスト・ディール君が、アヌーク・エーメと共演した映画があるのだけれど、日本では観られない。。 とっても残念。
アヌーク・エーメさんは、前に書いた、GO GO LAでは、デップと共によくわかんないカメオ出演をしていましたっけ。俳優さんたち憧れの女優さんなのかな?