星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

夏至の日に

2016-06-21 | …まつわる日もいろいろ
きょうは夏至。。

例年と比べて、、なのか 私だけなのか、、 太陽が最も高い日、、 夏に至る日、、 という感覚が今年は少し薄い気がします。。 このところの大雨の被害や、、 少し前の地震の被害や、、 欧州の洪水や、、 そんなニュースと共に 心塞がれるような事件やいろんな混乱がつぎつぎに届けられるからでしょうか。。。

、、先週あたりから 少し体調不良で、 せっかくの長い一日をあまり活動的に過ごせてないからかもしれません。。。

、、もうすぐ、 スケジュールいっぱいの月末~7月になるというのに。。

前回の日記で、 「プロコフィエフさんのような多元的な頭脳は持ち合わせていない私・・・」 というようなことを書いたのに、、 (その通りなのに)、、 このところの私の脳内は、、 MLBと、 北欧小説と、 クラシック音楽と、 灯台と(意味不明だけど意味あり…)、、TYMと、 片付けなければならない家の雑事とが ひしめき合って覇権争いをしております。 なのに体調がすぐれないので 何一つ満足に進んでいかない。。。

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夏至の日に、、 厳寒の北欧小説をひとつ読み終えました。

雪と氷と吹雪に閉ざされた 12月のバルト海の島。 思うように動いてくれない身体の今の状態には ちょうど良い物語だったような気がします。

、、日本では夏(7月か8月)のお盆に 先祖の御霊をお迎えするのですが、、 欧州ではもともとクリスマスとは、 亡くなった人が帰ってくる時なのだそうです。 クリスマスプレゼントとは、 贈り物を介した死者との交流の意味なんだそうです。
、、 ハロウィンがそうなのかと思っていましたが、、 クリスマスにはそんな意味もあったのですね、、、

、、一方で 夏至は生きているもの同士の出会いの日。 愛が生まれる日、なんだそうです。

、、 長い小説を読みながら、、 いくつかのCDをBGMにしていたのですが、、 さまざまなことが明らかになる結末付近では、 Bowie の 「★」にしました。 これ以上のBGMは無いと気づいたから。。

星になる決意と別れと そして永遠と 後に残る者への贈り物と、、 それらが込められたアルバム。。 古き時代のクリスマスのプレゼントの意味と同様に、、 私たちはこのアルバムを通して 今は亡き人と想いを交わします。。

、、 そして ふたたび太陽が復活し、、 命の季節がまためぐり、、 生ける者たちの新たな出会いのときが訪れて…   そうやって歴史と記憶が地層のようにこの地上に積もっていくのですね。。 この地を去った者も、 目に見えない者も、、、 みんな 此処にいる。。。

、、 別にスピリチュアルな思いに浸っているわけでないんです、、、 そういう物語を読んで 「★」を聴いていたということ・・・

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なかなか書けない他の話題については、、 またの機会に。。

早く 元気にならないと。。


プロコフィエフ短編集

2016-06-12 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
2週間前、 サントリーホールでの演奏会を聴きにいくにあたり、 プロコフィエフのことを少し書きましたが(>>

そのとき、 プロコフィエフの経歴や、 ディアギレフとの関連や、 亡命時に日本にしばし滞在していたことなどを知り、、 あらためて1920年代ごろからのプロコフィエフの作品について聴きたいな、などと思っていました。 それで、 検索などしているうちに、、 なぜか 『プロコフィエフ短編集』なるものに繋がって…

検索してみるものですね、、


『プロコフィエフ短編集』 セルゲイ・プロコフィエフ著 
  サブリナ・エレオノーラ・豊田菜穂子 訳/群像社ライブラリー 2009年

写真の上にあるCDは、 イーゴリ・マルケヴィチ指揮の 古典交響曲第1番(作品25)。 この初演が1918年4月21日だそうで (>>Wiki)、、 その直後の 5月、 プロコフィエフは シベリア鉄道で 極東ウラジオストクを経由して、 日本へ渡り、 8月2日まで日本に滞在して、 アメリカへと向かうのです。

プロコフィエフが小説を書いていた! なんていうことも とっても面白いと思ったし、 この短編集には 祖国を出て日本に渡り、 離日するまでの日記も共に収載されていて、 それを読むと、 プロコフィエフが小説に手を染めたのは、 この亡命の旅の間のほんの短い期間のことだったのがわかります。 列車の旅、 船の長旅、 ホテルでの暮らし、 その間 楽器に触ることもできない代わりに、 小説の構想を練ったり執筆したりしていたのですね。。 このとき プロコフィエフ27歳。 音楽の才能が認められるのも早かった 天才的な人ですが、 才気溢れる若きエネルギーは音楽だけにとどまらなかったのですね。

短編集の内容については 出版社の紹介文を (群像社>>
↑ こちらの紹介でわかるように、 発想もユニーク、 描かれる世界もパリやアメリカやどこかよくわからない場所さまざま、、。 なにか特徴的なことを挙げよ、、と思って考えてみるに、、 ロシア的なものを全く感じない、、 ということでしょうか。。。 あと、 自国で起きている革命とか、 これから亡命しようとしてる自分の身、 という背景も全く影響していない感じ。 もっとも、 職業作家ではないし、 これらの作品も世間に発表するかどうかなど考えずに (でも何度も構想を考え直したり、ボツにしたり、といろいろ練って書いていた様子で)、、 構想や 創作の過程を 自由に楽しんでいた感じが伝わってきます。 明らかにモダンな、、 そしてコスモポリタンな作品。

この自由さは、 革命期のロシアを背景にして生まれたものというより、 音楽家としてすでに自分のフィールドが世界の中どこにでも存在する、という心情にすでになっているからだと思えますし、、 23,4歳ごろには パリでバレエ・リュスの興行師 ディアギレフなどと仕事をしたり、 他の世界的な音楽家らとも交流していた 音楽家・演奏家ゆえの経験が関係しているのかもしれませんね。

パリのエッフェル塔がとつぜん歩き出す、、 なんていう作品などはなんだかちょっと、 以前紹介した シュペルヴィエルの小説 『火山を運ぶ男』(>>)みたいだし、、。 シュペルヴィエルとわりと年が近いんですよね、、。 先のプロコフィエフの日記によれば、 当初の予定では日本から南米へ渡る計画だったのですが、 南米行きの船に間に合わずに、 結局 北米へ行くのです、、 それでスペイン語の勉強を最初していたりして、、、

もし南米に渡っていたら、、 (南米とパリを行き来しつつ詩や小説を書いていた)シュペルヴィエルや、 堀口大學などとも、 とても仲良くなっていたんじゃないか、、とか、、 短編を読んでいてとてもそんな気がしました。 

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プロコフィエフの日本滞在中の日記に、 開業3年目の 東京ステーションホテルや、、 今はその名が見つからないけど 横浜グランドホテルや、 大田区大森山王にあった 望翠楼ホテル、などの名前が出てきます。 

そして、 北米への渡航費用の足しにするために、 横浜と、 東京の帝国劇場とで、 プロコフィエフはピアノリサイタルを開いたそうですが、 それらの日記も(短いおぼえがきのようなものですが) とても興味深く読めます。 98年前の日本、、。 今はプロコフィエフは クラシック音楽、とされますけれど、、 当時の この27歳の青年の奏でる音楽は まさに最新の 現代音楽だったわけですものね。。

プロコフィエフの日記にも出てくる、 当時の日本での音楽評論家 大田黒元雄 という方が書いた、 プロコフフィエフに関する文章が 近代デジタルライブラリで公開されていました。

続バッハよりシェーンベルヒ 大田黒元雄 著 (音楽と文学社, 1918) >>

デビュッシイ以後 : 音楽論集 大田黒元雄 著 (音楽と文学社, 1920) >>

、、これらもとても興味深いですし、、 先にあげた 今は無き 望翠楼ホテル、、 馬込文化圏の文人らに愛された場所だそうですが、、 それについては 国立国会図書館のレファ協に 質問事例が載っていました。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000149910

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プロコフィエフの日本滞在は ほんの2ヶ月ほどでしたが、、 その前後に書かれた これらの短編小説や日記を通して、 好奇心の豊かさとか、 発想の柔軟さ、、 同時進行で小説も何篇も構想したり、 かたわらで作曲もしたり、、 スペイン語は あっという間に覚えていったようですし、、 ものすごく頭の中が多元的な人だったのだろうなあ、、と 驚かされました。 そうだからこそ、 交響曲なんて書けるのでしょうね、、 作曲家って、、 みなさん そういう頭をもっていらっしゃるのかしら、、、 とふと思いました。

、、そして、、 ふたたび頭に浮かんできた 同時代文学者の シュペルヴィエルや堀口大學さん、、 まだちゃんと読んだことのない ディアギレフやバレエリュスに関する本、、

だんだんと 興味はひろがります。。

、、 けど、、 急がず ゆっくり、、 楽しんでいきましょう。

、、 わたしは プロコフィエフさんのような 多元的な頭脳はなさそうだから… 笑