しばらく前に、ようやくのことで観た『めぐりあう時間たち』のことを。。
ポケットに石を詰め込んで入水自殺するヴァージニア・ウルフの場面から始まる。
愛されて生きることと愛すること、自身の真実の声から耳をそらさず生きること、それをあらわすこと、そして暮らすこと、その相克。このことが登場する3人の女性と、一人の男性詩人それぞれの問題として描かれる。
エイズで病み衰えたリチャードが語った言葉が響く。
「何もかも書きたかった、一瞬におこるすべてを、、、
このタオルの匂い、織られた糸の感触、、、
(彼女を愛した)あのときの感情、、、
この世界のすべて、、、」
おそらく全ての表現者が望む、ただ一つの事。。この世界のすべてを作品に表す。表し得ると信じ、伝え得ると信じる。。。この映画の意味も同じ。たった一日の出来事の中に、登場人物の全人生を表す。
・・・昨日、『ライヴエイド』のDVDでTom Pettyを観ていると書きました。いま私が、楽しみながらライブエイドを観ていられるのは、このDVDにはあのときの<時間>が流れていないから。。DVDの冒頭にはアフリカの飢餓を伝えるNEWS映像があって、このLIVEの意味を裏付けてはいるけれど。。
前年の英国で「Do They Know~」が話題を起こしたら、負けじと米国大物スターが「USA for Africa」を作り、援助ブームの中、半年後のライヴエイドは、、「ビッグイベントだしとりあえず賛同!」的な大騒ぎ。そこに集まるミュージシャンのある意味「胡散臭さ」。
1985年の日本で生きていた私たちの<時間>はさらに無い。金満と飽食とおニャン子の日本、この前月には豊田事件、そして翌月には日航機墜落、それに挟まれた<狂った夏の時間>、翌年にはそんな日本を象徴する、内田裕也さんの『コミック雑誌なんかいらない』が封切られて、、そういう時間の流れはDVDには無い。
だからといってこのDVDを非難するのじゃない。顔を背けつつ眺めていたのも自分。今ニコニコ笑って観ているのもまた自分だから。
事実をありのまま記したものが事実をまるごと伝えるかというとそんなことはまるでない。だから、過去の人間のカリスマ化なんて簡単なこと。「死ねば終り」じゃない。死んで、終って、<時間>が骨抜きにされて、そこから美化が始まる。
だからリチャードは言う、、「何も書けなかった」と。そして「エイズになったから賞をくれるんだ」と。賞という形は、リチャードを愛した元妻クラリッサにのみ形を持つ。自分にとっての美しかった時間を、証として残すこと(まだ自分が生きるために)。時間を死なせないために。
病み疲れて死んでいくリチャードには賞なんてどれほどの意味も無い。自分が「書けたか、書けなかったか」その認識だけ。勝手に変容していく時間など要らない。
つまりこの映画は、『めぐりあう時間たち』ではなく、愛する者と愛される者、互いを思いつつ暮らす者、そして表現者と受け手の間の、決して<めぐりあわない>時間というジレンマを描いたのだろう。どんなに相手を思いやっても、あなたと私の中に流れる<時間>は違うのだ。だからこそ、<実際にあった>時間などに頼ることなく、いかに時間をめぐりあわせたら伝える事が出来得るのかを表現者は苦悩するのだ。すべての人間は<美しかった時間>にあまりにも寄り掛かり過ぎる。
メリル・ストリープが解説でエド・ハリスについて、、「burning blue stare」(燃えるような青い眼差し)と語っていたけれど、滅んでいこうとする肉体の中、その眼だけで全人生を語っているようだった。表現者、というのは無能ではない、、やはり凄い。賞を獲らなかった彼と、そしてジュリアン・ムーアの演技に拍手。
The Hours 「めぐりあう時間たち」の情報(imdb)
ポケットに石を詰め込んで入水自殺するヴァージニア・ウルフの場面から始まる。
愛されて生きることと愛すること、自身の真実の声から耳をそらさず生きること、それをあらわすこと、そして暮らすこと、その相克。このことが登場する3人の女性と、一人の男性詩人それぞれの問題として描かれる。
エイズで病み衰えたリチャードが語った言葉が響く。
「何もかも書きたかった、一瞬におこるすべてを、、、
このタオルの匂い、織られた糸の感触、、、
(彼女を愛した)あのときの感情、、、
この世界のすべて、、、」
おそらく全ての表現者が望む、ただ一つの事。。この世界のすべてを作品に表す。表し得ると信じ、伝え得ると信じる。。。この映画の意味も同じ。たった一日の出来事の中に、登場人物の全人生を表す。
・・・昨日、『ライヴエイド』のDVDでTom Pettyを観ていると書きました。いま私が、楽しみながらライブエイドを観ていられるのは、このDVDにはあのときの<時間>が流れていないから。。DVDの冒頭にはアフリカの飢餓を伝えるNEWS映像があって、このLIVEの意味を裏付けてはいるけれど。。
前年の英国で「Do They Know~」が話題を起こしたら、負けじと米国大物スターが「USA for Africa」を作り、援助ブームの中、半年後のライヴエイドは、、「ビッグイベントだしとりあえず賛同!」的な大騒ぎ。そこに集まるミュージシャンのある意味「胡散臭さ」。
1985年の日本で生きていた私たちの<時間>はさらに無い。金満と飽食とおニャン子の日本、この前月には豊田事件、そして翌月には日航機墜落、それに挟まれた<狂った夏の時間>、翌年にはそんな日本を象徴する、内田裕也さんの『コミック雑誌なんかいらない』が封切られて、、そういう時間の流れはDVDには無い。
だからといってこのDVDを非難するのじゃない。顔を背けつつ眺めていたのも自分。今ニコニコ笑って観ているのもまた自分だから。
事実をありのまま記したものが事実をまるごと伝えるかというとそんなことはまるでない。だから、過去の人間のカリスマ化なんて簡単なこと。「死ねば終り」じゃない。死んで、終って、<時間>が骨抜きにされて、そこから美化が始まる。
だからリチャードは言う、、「何も書けなかった」と。そして「エイズになったから賞をくれるんだ」と。賞という形は、リチャードを愛した元妻クラリッサにのみ形を持つ。自分にとっての美しかった時間を、証として残すこと(まだ自分が生きるために)。時間を死なせないために。
病み疲れて死んでいくリチャードには賞なんてどれほどの意味も無い。自分が「書けたか、書けなかったか」その認識だけ。勝手に変容していく時間など要らない。
つまりこの映画は、『めぐりあう時間たち』ではなく、愛する者と愛される者、互いを思いつつ暮らす者、そして表現者と受け手の間の、決して<めぐりあわない>時間というジレンマを描いたのだろう。どんなに相手を思いやっても、あなたと私の中に流れる<時間>は違うのだ。だからこそ、<実際にあった>時間などに頼ることなく、いかに時間をめぐりあわせたら伝える事が出来得るのかを表現者は苦悩するのだ。すべての人間は<美しかった時間>にあまりにも寄り掛かり過ぎる。
メリル・ストリープが解説でエド・ハリスについて、、「burning blue stare」(燃えるような青い眼差し)と語っていたけれど、滅んでいこうとする肉体の中、その眼だけで全人生を語っているようだった。表現者、というのは無能ではない、、やはり凄い。賞を獲らなかった彼と、そしてジュリアン・ムーアの演技に拍手。
The Hours 「めぐりあう時間たち」の情報(imdb)