星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

めぐりあわない、The Hours...

2005-01-31 | 映画にまつわるあれこれ
しばらく前に、ようやくのことで観た『めぐりあう時間たち』のことを。。
ポケットに石を詰め込んで入水自殺するヴァージニア・ウルフの場面から始まる。
愛されて生きることと愛すること、自身の真実の声から耳をそらさず生きること、それをあらわすこと、そして暮らすこと、その相克。このことが登場する3人の女性と、一人の男性詩人それぞれの問題として描かれる。
エイズで病み衰えたリチャードが語った言葉が響く。

 「何もかも書きたかった、一瞬におこるすべてを、、、
  このタオルの匂い、織られた糸の感触、、、
  (彼女を愛した)あのときの感情、、、
  この世界のすべて、、、」

おそらく全ての表現者が望む、ただ一つの事。。この世界のすべてを作品に表す。表し得ると信じ、伝え得ると信じる。。。この映画の意味も同じ。たった一日の出来事の中に、登場人物の全人生を表す。

・・・昨日、『ライヴエイド』のDVDでTom Pettyを観ていると書きました。いま私が、楽しみながらライブエイドを観ていられるのは、このDVDにはあのときの<時間>が流れていないから。。DVDの冒頭にはアフリカの飢餓を伝えるNEWS映像があって、このLIVEの意味を裏付けてはいるけれど。。
前年の英国で「Do They Know~」が話題を起こしたら、負けじと米国大物スターが「USA for Africa」を作り、援助ブームの中、半年後のライヴエイドは、、「ビッグイベントだしとりあえず賛同!」的な大騒ぎ。そこに集まるミュージシャンのある意味「胡散臭さ」。
1985年の日本で生きていた私たちの<時間>はさらに無い。金満と飽食とおニャン子の日本、この前月には豊田事件、そして翌月には日航機墜落、それに挟まれた<狂った夏の時間>、翌年にはそんな日本を象徴する、内田裕也さんの『コミック雑誌なんかいらない』が封切られて、、そういう時間の流れはDVDには無い。
だからといってこのDVDを非難するのじゃない。顔を背けつつ眺めていたのも自分。今ニコニコ笑って観ているのもまた自分だから。

事実をありのまま記したものが事実をまるごと伝えるかというとそんなことはまるでない。だから、過去の人間のカリスマ化なんて簡単なこと。「死ねば終り」じゃない。死んで、終って、<時間>が骨抜きにされて、そこから美化が始まる。

だからリチャードは言う、、「何も書けなかった」と。そして「エイズになったから賞をくれるんだ」と。賞という形は、リチャードを愛した元妻クラリッサにのみ形を持つ。自分にとっての美しかった時間を、証として残すこと(まだ自分が生きるために)。時間を死なせないために。
病み疲れて死んでいくリチャードには賞なんてどれほどの意味も無い。自分が「書けたか、書けなかったか」その認識だけ。勝手に変容していく時間など要らない。

つまりこの映画は、『めぐりあう時間たち』ではなく、愛する者と愛される者、互いを思いつつ暮らす者、そして表現者と受け手の間の、決して<めぐりあわない>時間というジレンマを描いたのだろう。どんなに相手を思いやっても、あなたと私の中に流れる<時間>は違うのだ。だからこそ、<実際にあった>時間などに頼ることなく、いかに時間をめぐりあわせたら伝える事が出来得るのかを表現者は苦悩するのだ。すべての人間は<美しかった時間>にあまりにも寄り掛かり過ぎる。

メリル・ストリープが解説でエド・ハリスについて、、「burning blue stare」(燃えるような青い眼差し)と語っていたけれど、滅んでいこうとする肉体の中、その眼だけで全人生を語っているようだった。表現者、というのは無能ではない、、やはり凄い。賞を獲らなかった彼と、そしてジュリアン・ムーアの演技に拍手。

The Hours 「めぐりあう時間たち」の情報(imdb)

声で聞く詩人たち

2005-01-25 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
試験は終わったのに、少々調べものがあってバタバタ動き回っています。
それで図書館へ行ったついでに、朗読のCDを聞いてみようと思って、『萩原朔太郎』を選んでみた。他にもたくさんあるのです。『夏目漱石』は、佐藤慶さんの朗読。・・・確か、新潮社のものでは、『三四郎』を風間杜夫さんが朗読しているということで、あ、これは似合いかも、と思いましたが。。

朔太郎の朗読はとても難しい、と思いました。

   女よ、
   このうす青い草のいんきで、
   まんべんなくお前の顔をいろどつて、
   おまへの情欲をたかぶらしめ、
   しげる草むらでこつそりあそぼう、

      (「愛憐」より)  *いんき=インキ

などという官能的な詩を語るのは難しいです。(朗読は岸田今日子さんでした)・・・どんなに巧みな方であれ(巧みな方だからこそ?)、、、もともと朗詠用につくられてはいない口語体は、語尾が下降してしまうし、詩であっても散文のようにどうしても聞こえてしまう、と思うのですが、どうでしょう、、、? 語る、語りかける、というのは、こういう詩の場合難しい、、、。
・・・それでも朔太郎の詩、声で聞いてみたいな、と思って、、、それでふと理由も無く思ったのが、ともさかりえさん、、、なんてどうかしら、ね。

と、そんなこんなで、以前英国BBCのサイトで、イェイツの声が聞けたな、と思い出して、探してみました。イェイツは、いつも詩作する時に、声に出して歌うようにつくっていたそうですが、『W・B・イェイツを歌う』というCDの中でも、イェイツ先生は歌うように朗読をしているのが聞けて嬉しいです。BBCのは、インタビューということなのに、やっぱりゆっくりと歌うように語っていらっしゃいます。さすがアイリッシュポエット。

ところでこのサイト、イェイツの他にもたくさんの詩人、作家などの声が載っています。
どうも終戦時の玉音放送の印象があるものだから、39年に亡くなったイェイツの声が綺麗に聞えるのが驚き。そして、ヴァージニア・ウルフの声があるのにもびっくり。張りのある知的な声でした。余りちゃんと聞いてないので、何を話しているかは皆目わからず(ちゃんと聞いてもたぶん解らないかも…)

・・・朔太郎の声も、聞いてみたいな。・・・芥川は、、、昭和2年に亡くなっていては残っていないでしょうね。

BBCのサイト、詩人のリストです。(右のメニューで他にも作家なども選べます)
萩原朔太郎詩集(現在でもたくさんあるのですね、良かった)>>

震災と龍之介

2005-01-20 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
昨日、大学から戻って家に入った時、眼の前に(まったく眼の前に)巨大な飛行船が飛んでいた。いまだかつて見たことのない大きさの飛行船がふわ~~~っと、ゆっくり南の方へ漂っていくのを、なんだか不思議な気持ちで見送っていた。飛行船、、っていいなあ。きっと、速度も、燃費も、効率も、輸送力も、ただムダに在るとしか思えない物体ではあるけれど、日常の時間の流れとはべつのところを旅しているんだね、あの飛行船は。。乗ってみたい。

翌朝、新聞みたらツェッペリン号(!)でした。
 
***

芥川龍之介夫人、芥川文さんへの聞き書き『追想 芥川龍之介』という本が、高校生ごろからの愛読書のひとつでもあるのだけど、その中に、大正12年、関東大震災の日のことが書かれている。
昼食時、揺れが襲ってきた時、夫人が子供らを連れ出して庭へ逃げる一方で、龍之介は「早く外へ出るように」とだけ言ってひとり先に逃げていた。夫人がそれをなじると、龍之介はひっそりとこう答えた。

   「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」

このときの龍之介を不人情と思う人もいるだろう。。でも、きっと、、、夫人の非難が、自我と世界の軋みに耐えている龍之介には、痛烈に心にひびいたのではないかしら、、、。俺とは、そういう者なのだと、、かなしく思ったのではないかしら、、、。
そうでなければ、龍之介は命を絶ったりしなかった、、でしょう。

漱石全集、、だったかな・・・漱石の葬儀の日の様子が書かれているものの中に、龍之介のその日の様子があった。。。斎場をそっと離れて、、先生が死んだ、というやり場のない怒りを一瞬、露わにする様子が書かれていたように記憶している。龍之介は、情愛の無い男では無かった、、と思う。ただ、その苦しみは日常と摩擦しながら、日常とは少しべつのところを旅していた、、、と思う。

このことは、この前、高村薫さんのときに書いた疑問と、すこしつながる。。

ツェッペリン号のNEWS>>
『追想 芥川龍之介』 (絶版らしい)

犠牲の影で・・・

2005-01-15 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
写真は、「コンサート・フォー・ジョージ」のDVD。

今夜は、仕事と学業の調べもののために、ずっとPC検索をしながらTVをつけていた。
「MUSIC AWARD」をやっていて、(She loves you, yeah yeah yeah♪)と聞えて来たので見たら、モノクロの若きLennonやGeorgeが歌ってた。そのジョージのお顔が、ウチにあるDVDの中で映っていたジョージの息子さん、ダーニそのままで、DVDの時にも本当にそっくりだと思ったけれど、若きジョージがギターを高い位置で抱えて、ニッコリ笑うように前歯を見せて歌う表情や、つんのめるように前のめりに首を振る所や、もう<生き写し>で、、、再び感極まってしまった。父から息子に遺したもの、、、最近本当に涙腺よわいな、、、。

音楽の話ではなくて・・・その後、TVは「ETV特集」へ。
高村薫さんが阪神大震災について語っていた。<死>の体験が作家の方向を大きく変えることはある。<死>に報いるような作品を書きたい、と思う気持ちもわかる。
ならば、何が<報いるテーマ>であるか、何が<復興>につながるテーマであるか、、、、その問いは自分の心の中に置くとして、、、

阪神大震災では決して起きなかった事が、今度の津波災害では起きている。。大災害のさ中、孤児を人身売買する・・・そんな事が起こる国の背景にあるもの、、、。本当にいたたまれない。文学がますます遠のいていく、、、。

だからこそ、MONTBLANCのような活動が必要なのだともわかる、、、それにしても、余りにも悲しい事実。。

ジョニー・デップ@MONTBLANC

2005-01-14 | 映画にまつわるあれこれ
朝、家事をしていたら「ジョニー・デップ…」という声がTVから聞えてきて、廊下を走って画面の前へ(耳、悪いけどこういう所だけ聞き逃さない、、)
<とくダネ!>という番組の中でデップ特集をしていました。

昨年から、本屋さんの映画雑誌の表紙には、ジョニー、じょにー、Johnny Deppの姿がずらり、と並ぶ事が多くて、、。以前、「好きな俳優は?」と聞かれては、「デップ…?誰それ」と言われ、「ほら、シザーハンズの、白い顔の…」と説明してやっと「ああ…」と曖昧に頷かれていたのが懐かしいくらい。。

たまに雑誌の『Esquire』誌を見るのですが、昨年ふと図書館で、彼が表紙の米国版『Esqure』を見つけ、少々びっくり?、、というか、時の人なんだなあ、、という感慨が。表紙はかなりお洒落に撮ってありましたが、確か、、中はいつものボロ服のデップでした(それこそが格好良いんですけどね)。

昨日、本屋さんで遭遇した彼は、『Esquire日本版』の2月号。ただし、記事ではなくて(万年筆で有名な)MONTBLANCの広告。。MONTBLANCっていうのが意外ですか? いえいえ、彼と作家、あるいは本、というのはかなり関係が深いのですね。映画『ビートニク』の中では、バロウズと共に、'50年代の作家ジャック・ケルアックを演じていてそれがとても似合っていました。ケルアックの繊細さと破天荒さの両面は、デップと通じるのではないかしら。それから、稀こう書のバイヤー役や、ミステリー作家役や、現在のものも作家役ですしね。そして、キューバからの亡命詩人を描いた『夜になるまえに』でも、彼はほんの端役で<異様な>役を演じていました。生涯自由を求め、詩という(美という)芸術を貫いた精神へのリスペクトでしょうか。そのような芸術家(映画人を含め)へのリスペクトを出演の基盤にしているジョニーの姿勢がとても好きです。・・(『夜になるまえに』をおしえてくれた友、有難う)・・

ところで、MONTBLANCの広告。。はずしかけた腕時計を片手に握って、万年筆でなにやら書こうとしている姿、、、見たら、時計もMONTBLANCでした。とても素敵な写真だったので、よかったら本屋さんで。。。と、書いてから、ふと検索してみたら、MONTBLANCのサイトに詳しく載っていました。そこの広告の意図を読んで、納得。。。多くの子供たちが、芸術に触れ、喜び、癒され、糧になることを、、、私も切に願います。

米国版Esqure誌、ジョニー・デップが表紙の時のものです>>
Esquire誌 日本盤>>
映画『ビートニク』
MONTBLANCのサイトです>>