星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

乾杯~のあと。。

2013-02-24 | …まつわる日もいろいろ
おととい、、 ニッキー・ホプキンスさんの夢を見ました。

ニッキーが直接でてくる、、ってわけではなくて、 ニッキーがクイックシルヴァーにいた頃の 69年くらいの8ミリ映像を なぜか私は見ていて、、

フラワームーヴメントの 華やかだったいでたちのニッキーや、 その頃のメンバーたちが、 ピクニックをしている映像で、 8ミリのカタカタいってる音の無いモノクロ映像の中でニッキーは笑っていて、 それでパントマイムみたいな仕草で カメラにこういう「フリ」をするの、、

 「キミは・・・ ぼくを・・・ 突き刺すみたいに・・・ じ~っと見つめているね」

 「笑って・・ 笑って・・・ あ~はっはっは!!!」


そこしか覚えていないんだけど、、 まるで天国のニッキーから話しかけてもらったみたいな気がした。。


、、というわけで きょうはニッキーのお誕生日です。

ニッキーおめでとう。 ジョージもおめでとう。 カートもおめでとう。 


 ***



きのう バースデーランチをいただきました、、 私の。

とっても美味しくて お腹いっぱ~いでしたが、、 その後 平日の疲れか 単にワインの効き過ぎか ダウンしまして、、 12時間寝てしまいました。。。

もうしばらく頑張れ自分。 


きょうはニッキーのこの曲
Waiting For The Band - Nicky Hopkins

エル・グレコとイコン

2013-02-11 | アートにまつわるあれこれ
東京都美術館の 『エル・グレコ展』いってきました。

素晴らしかった。。 美しかった。。 そんな言葉しか出てこない…(笑)


エル・グレコの絵がなぜ好きかというと、それが『絵』だから。。 絵、としてこれでいい、と描かれて、 絵として惹きつけられるから。 、、なんて言うのかな、、 細密に本物みたいに描かれているのでもないし、 ダ・ヴィンチなどのようにどうやったらこんな風に描けるのだろう、、と驚嘆するものでもないし、、

でもその絵の前に立ったときに言葉をのんでしまう。

とは言うものの、 エル・グレコをこれだけまとめて見たのは初めてでした。 年代順の展示というわけではなくて、 最初のセクションに 晩年にトレドで描いた肖像画が展示されていたのですが、、

その絵の中の人物の まなざしがおだやかなこと 温かいこと つややかなこと 優しいこと。。

それは 次の聖人像のセクションにうつっても同じなのでした。 マグダラのマリアのみずみずしい瞳、、 「聖家族」で母子を見守る父ヨセフの嬉しそうな眼、、

「エル・グレコ展」公式HP>>

大作 「無原罪のお宿り」は天井の近くまで 壁いっぱいの高さまであり、 多くの人が聖堂の祭壇画の雰囲気を感じとろうとして、 絵の前にしゃがみ込んで 下から見上げて鑑賞していました。 もちろん私も、、

サイトや画集で見るのとはやはり全然 光の美しさ、 色や絵具のタッチの美しさが違いましたね。。 画像でみるとなかなか見えない、 背景の空の微妙な色合いや、 三日月や 太陽や、 足下の薔薇や百合、 そして蛇。


「無原罪のお宿り」のパッケージのチョコレートを記念に。 楕円の箱は小物入れか 小さなレリーフにしてもいいな。

 ***

エル・グレコの クレタ島からフィレンツェ、そしてトレド という足跡を辿って知ったこと。。 エル・グレコは最初は ポスト・ビザンチン様式のイコン画家として修業をしていたということ。

そしてイタリア絵画に出会い、 西洋式絵画の人物表現や背景の風景描写など自分のものにしていったということだけれど、、

やはり祭壇画を描くときの、 人物の長く引き伸ばされたS字の造形や、 リアリズムより栄光・法悦の印象を与えるようなイエス像とか、、 正教のイコンとつながるものがあるような気がする。 私の大好きなアンドレイ・ルブリョフや ノヴゴロドのイコンみたいな。。

だから好きなのかも、、 って気づいた。


エル・グレコの宗教画がたくさん見れたことも良かったのだけれど、 何と言っても 同時代人を描いた肖像画の その親密なまなざしが深く心にのこって、 全部見終わった後、 もう一度最初に戻って見直してきました。

だから、、 宗教画であると同時に トレドの町の人々の肖像でもあるという 「オルガス伯爵の埋葬」が観られたら どんなにすばらしいだろうと思います。 それも サント・トメー聖堂の中の その場所の光の中で見られたら、、 ほんとうに。。

 ***

これから開催される美術展のチラシ、、


漱石、、 ターナー、、 キャパ、、 円空。

東京藝術大学美術館で5月から開催の 『夏目漱石の美術世界展』、、 漱石が文学作品中で言及した絵とか、 漱石が描いた絵とか、 装丁とか、、

http://www.tokyo-np.co.jp/event/soseki/index.html

ラファエル前派などは以前にも見たものが多いけれど、 いちおう見に行ってみようかな、、と思ってる。 面白そうなのは、、

『三四郎』のラストに出てくる 作中で画家の原口さんが描く<美彌子>の絵、というのを再現したらしい…(笑) 誰が描いたんだろう、、 藝大の先生かな。 東大の三四郎池のほとりで出会った時の、 夏の着物の美彌子、、でしたよね。 、、たのしみ。

季節もいいし、、、 その前に 三四郎池に行ってみなくちゃ。 

ジュール・シュペルヴィエルの小説 3 『日曜日の青年』

2013-02-08 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
『日曜日の青年』思潮社 1980年 嶋岡晨訳
1952年 68歳のとき刊行。

正確には この作品は3部から成っていて、 最初 『日曜日の青年』が発表され、 のちに『後日の青年』と、 『最後の変身』が書かれて 1955年に長編小説として刊行された。 そのとき71歳。

晩年の作品だけれども、 主人公は18歳の青年で今回は生粋のフランス人。 文学をやりはじめたばかりの主人公フィリップ・シャルル・アベステーグは、 南米からパリに来て住んでいる既婚女性オブリガチオンにスペイン語を習っている。 そして彼女に恋をしている。 その恋心の遍歴の物語。

ストーリーを語ってしまうのは この作品にはよくないと思うのでごく簡単に言うと、、 ある時オブリガチオンを怒らせてしまい 「出てってちょうだい」と彼女に言われる。 部屋を追いだされたアベステーグは、、「この部屋を去りたくない」という願いと、 「姿をあらわすまいと気をつかい」、、 その葛藤によって 「一匹の蠅」に変身してしまう。

「蠅」となり、 つぎには「猫」になり、、 あげくは、、 「オブリガチオン=彼女自身」になってしまう話が 『日曜日の青年』

『後日の青年』では、 小人の医学博士に変身、、

『最後の変身』では、、 とうとうアペステーグ=青年自身として彼女の愛を掴むが・・・ 「最後の変身」が・・・

 ***

恋する青年版のグレゴール・ザムザ? さまざまに姿を変える「吾輩は猫」? (漱石だって「猫」を描写したかったんではなく漱石自身が「猫」だったんだし、、)

「解説」で訳者は、 シュペルヴィエルの「身体」という詩を引用して、 「日曜日の青年のテーマの一つは、あきらかに、右の詩がかたる、肉体という精神の器、あるいは住居と、そこによんどころなくおさまっている精神との、相克にある」 と書いている。

でも、 私が思い出したのは 「心臓」という詩。 この詩は「ピラールに」と「妻」になる女性に捧げられている恋の詩。 はじまりは・・・


僕が家主のこの心臓 / 彼は僕の名さえ知らない / 彼は僕について何も知らない / 僕の未開な部分以外。

、、とはじまる。 、、この詩の第二連↓


女人の美しい顔よ / 空間に囲まれた物体よ / あなたにどうして / お出来になったか / 悠々と歩いて / この僕にも入り得ない / そして一日は一日と聾(つんぼ)になり / 頑(かたくな)になって行く / この僕の心臓の島へ / お入りになることが。 / 自分の家に入るように / 平気でそこへ入ることが / 時刻に応じ、場合に応じ / 手を延ばし / 書物を把ったり、窓を閉めたり / どうしてお出来になるか。 …略…(堀口大學訳)


「恋」におちた青年の胸の動悸を、 あたかも心臓の中に想いの女性が住まって 好きにふるまっているかのように感じる、、 その感じがよく表れています。 シュペルヴィエルは「心臓」が悪かったそうです。 不整脈に悩まされていて、、 普段は自分(=精神としての自分、 或いは心臓以外の思うがまま動かせる手足のような身体機関としての自分) の意図と関係なく変調してしまう心臓をもどかしく感じていたのでしょう。 自分ですらどうにもできない「心臓」なのに、、 恋の相手の女性は やすやすと僕の「心臓」に入り込んであやつってしまう!・・・とね。

だから 第三連でこう叫んでいます。 (↓注:彼とは心臓のこと)


彼の生命(いのち)の周囲を / 僕がとり巻いているのだと!


こうした 精神と器との「分離」、「乖離」をつねに感じていたことが シュペルヴィエルの生涯にわたる基盤になっていたんでしょうね。。 精神、、というか 言いかえれば「魂」、、。

「魂」と「器」と言いかえれば、、 その魂のありどころ=すなわち「故国=南米」と、 現時点での器=異邦人として住んでいる「パリ」や、 魂を運ぶ「船」や「海」、、 そういう関係がみえてきます。

 ***

シュペルヴィエルは今回の 『日曜日の青年』のように、 魂と肉体の「乖離」も描いた代わりに、 肉体と分離した「魂」の「自由」も たくさん書いていますね。。 「沖の小娘(海の上の少女)」とか。

、、でも おもしろいと思ったのは、 この作品の第三部 『最後の変身』の中に書かれたつぎのような文、、


現実界は、空想界に必要な緩和剤だ。 内部宇宙は、そのままにしておくと、ほとんどつねに、固定観念による不条理な単純化をまねく。…


「逆」じゃないんですよね、、 「空想」が緩和剤、、ではなくて。 、、だから 解説者はシュペルヴィエルについて、 シュールレアリスムとは距離をおいていたといい、

「現実に対してたえず攻撃的であり破壊的であり、意識下の世界に偏執するダリやブルトン系列に、『日曜日の青年』の作者をくわえ得ない」 と書いている。


シュペルヴィエルの詩の変遷もいっしょにたどっていったら もっといろいろと解る気もするけれど、、 とりあえずここまで。 
、、評価された時期はずれるものの 作品を書いていた時期はボルヘスとも重なっているのね。。 シュペルヴィエルとボルヘス、、 つながりはあったのかしら・・・?


ジュール・シュペルヴィエルに関する過去ログ>>

ジュール・シュペルヴィエルの小説 2 『ひとさらい』

2013-02-07 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
『ひとさらい』大和書房 1979年 澁澤龍彦訳 (薔薇十字社刊 1970年もあり)
1926年 42歳のとき刊行。

タイトルのとおり、 子供をさらってくる男の話。 、、でも 悪質な目的で、というより、 不幸な境遇にある子供を自分の家に住まわせ、 何不自由なく暮らせるようにするのが目的。

この男=ビガ大佐の背景はあまり詳しく書かれないのだけれど、 南米の出身で政治的に失脚して国を離れ、 今はパリに住んでいる。 夫妻には子供が無く、 それも子供をさらう理由のひとつではあるけれども、、 かと言って 恵まれない子を助けたいという慈善の意思だけでもないようだ。。

「子供たちを盗んだのは、わたしの中のアメリカ人だ」、、という言葉が終わりのほうで出てくる、、 ここでの「アメリカ」とは「南米」ということ。 この作品でも 「南米的」な何かが主人公を突き動かしているのがわかる。。 家長的なもの、、 大家族のあるじになるという憧れ? それによって失脚した「大佐」という自分が補完されるということ?

読みはいろいろとできるだろうけれど、 澁澤さんがこの作品に惹かれたのはそんなところではないだろう。 <あとがき>で書いているのは、、「さらわれてくる子供がたくさん出てくるけれども、それらの子供を描き出す作者の筆がじつに卓抜で、やさしくて、また時にユーモラスでさえあるのは、詩人シュペルヴィエルが同時に散文作家としても、したたかな一面を持っている証拠のように私には思われる」、、 という「描写」の妙につきるのではないかな。。

澁澤さんが 「好ましい」と書いている最初の、 アントワアヌという子供がさらわれる場面でも、 連れ去られるアントワアヌは 自分の状況にとまどい不安になりながらも、 不思議な「夢見ごこち」にとらわれているように書かれている。 自分がこれからどうなってしまうのか、、 怖いというよりも、 どこかうっとりとした、、、

 ***

思わぬいきさつで、 大佐は少女をひきとることになるのだけれど、、

ここから大佐が、、変わってしまう。。 少女に恋してしまう。。。 立派な淑女に育て上げるつもりの家長でありながら、、、

「ナオミ」を見つめる谷崎潤一郎の眼、、というよりも、 この作品の大佐と少女はまさに「バルテュス」の絵! ずっとバルテュスの絵が頭から離れませんでした。 澁澤さんの翻訳だから尚更、、なのかな?

大佐の部屋のドアが開いているのを承知で、 そこから見えるソファで「狸寝入り」をする少女、、 などまさにバルテュス、、でしょう?

、、でも 松岡正剛さんによると、、 そのようにバルテュスに「病んだ精神身体」を見るのはまちがい、、だそうなのですが、、 (千夜千冊『バルテュス』>>

 ***

バルテュスはさておき、、 養父という自分と 恋する男という自分のあいだでうろたえる大佐の姿も、、 やはり「南米的」なものと、 「パリ」的なものとのせめぎ合いとしてとらえることも出来そうです。 、、なぜなら、 最終的に大佐はほんものの「家長」となるべく 船に子供たちをのせて大西洋を故国へ帰ろうとするからです。

ですが・・・

、、澁澤さんは シュペルヴィエルを「ずいぶん意地わるなひとだと思う」と書いていますが、 そうやって苛まれうろたえる大佐を シュペルヴィエルが「意地わる」な眼で描いたと同じく、 澁澤さんも翻訳しながら「意地わるく」楽しんでいたに違いないと思えるし、 (みんな意地わるなんだから、、)と思いつつ 私も楽しんで読むのでした。

、、さらわれてきた子供のひとり、、 悪ガキのジョゼフもなかなか魅力的で、、 この作品はバルテュスの挿絵はムリとしても、 澁澤さん訳で、 誰かの挿絵で、 そういう美しい本になったら素敵だと思います。

金子國義さん…  ちょっと刺激的すぎ?


ジュール・シュペルヴィエルの小説 1 『火山を運ぶ男』

2013-02-06 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)


シュペルヴィエルの中~長編小説を3作まとめて読みました。 うまく書けそうもないけど少し感想書いておこうと思う。

前に読んだ短編…『海に住む少女』の繊細さ、はかなさ、 『ノアの方舟』のそこはかとないユーモアと慈愛、、 それらのイメージとはかなり違う。 もっと荒唐無稽で、 シュール、、 滑稽、 意地悪? あるいは 哲学的・・・

ロートレアモンのところでも書いたけれど(>>)、 南米の大草原や大農場のもとで育ったラテン気質と、 フランスと南米をなんども船で行き来していた「移動」や「変転」のイメージが どの作品にも強く出ていて、、 たしかに『海に住む少女』などの短編でも さまざまな「変身」は書かれていたけれど、 短編作品のファンタジックな、 天使のはからいのような「変身」とはちがって、 長編作品の中の「変身」は もっと実存主義的な意味合いがある感じ。。

『日曜日の青年』の解説のところに 「ラテン系のホフマン」とあったけれど、、 「ラテン系のボリス・ヴィアン」、、 みたいな感じもした。 

 ***

『火山を運ぶ男』(妖精文庫〈24〉) 月刊ペン社 1980年 嶋岡晨訳
1923年 39歳のとき刊行。 原題は(パンパ=大草原 の男、という意味)

<訳者あとがき より>
南米の大草原(パンパ)をわがものとしている五十男、大地主(エスタンシエロ)のグアミナルは、人生への倦怠をまぎらわせるため、人工的に火山を構築するが、新聞でたたかれる。生まれた国への愛想づかし、グアミナルは、火山を解体し、パリに運ぶことを思いつく。


どうして「火山」なんだろう、、 「火山」ってなんだろう。。。

確かにフランスに火山無いからね、、 「山」すらほとんど無いからね、、。 フランスはどこを見てもミレーの絵画みたいにずっと平坦で 彼方に高い山が見えるでもなく茫洋としているんだって 仏文の先生が言ってたっけ。。 

だからきっと「火山」なんだろうな。。 南米的な何か。 南米的父性とか、 男性性とか 野生とか、、 ラテン的熱情みたいなもの。。

、、だけど 海を渡ってパリにやってきたものの、、 なんだか「火山」の出番がないぞ、、(笑)

、、しまいに 「爆発」してしまうのは主人公グアミナルのほうだったりして。。。 なんだか ヴィアンの『北京の秋』にでてくる マンジュマンシュ先生を思い出した・・・


好きな部分は、、 大西洋を航海中 人魚(セイレン)が捕らえられて、 船長とグアミナルと人魚の3人で酒をのむところ。 人魚は船にへばりついて、 髪から薬液を発して船を麻痺させて沈めるんだって、、 すてき(笑)

この人魚は「825号」って名前なんだけど、、 シュペルヴィエルの短編に「人魚八二五」という作品があるらしい。 翻訳は… されてないのかも(検索しても出てこないから)。。。 こういう風に、 小説の中のモチーフが別の短編とか、 詩になっていたり(逆かも、、 詩→小説?) そういうのも面白い。

 ***

もうひとつ、、 トリヴィア的な覚え書きとして、、

『シュペルヴィエル抄』(小沢書店)の年譜によると、 シュペルヴィエルは第一次大戦中の1914年、 軍の情報部で 郵便物の検閲をしていたところ、 「ここに接吻します」とだけ書かれた不審な空白のある手紙から 「あぶりだし」メッセージを発見し、 それがかの有名なマタ・ハリの逮捕につながったそう。。 すごい話ですね、これ。

で、、 たぶんその体験を使った部分が 『火山を運ぶ男』にも出てくる。。 電燈に透かすと文字が読める手紙、、 それによって女と出会うことが出来る。 

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ストーリーとして面白いとか読み応えがあるとか そういう観点よりも、 パリの中の南米男という「相容れなさ」「ぎこちなさ」、、 異邦人として外界を見つめるその違和感の描写力は さすが詩人だわ。 

外界との相克によって 自己はますます肥大していく、、 「私」とは何? 何者? そのテーマは 『日曜日の青年』にも共通していくのですね、、、 そちらの作品についてはまた。


『ひとさらい』大和書房 1979年 澁澤龍彦訳 (薔薇十字社刊 1970年もあり)
1926年 42歳のとき刊行。


『日曜日の青年』思潮社 1980年 嶋岡晨訳
1952年 68歳のとき刊行。


ジュール・シュペルヴィエルに関する過去ログ>>


ひさしぶりに沢木耕太郎さん

2013-02-05 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
日曜日に見た NHK特集の「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚 ~"戦場"写真 最大の謎に挑む~」(NHKスペシャル>>) は とても面白かったなぁ。。。 戦場カメラマン ロバート・キャパの有名な写真の「謎」を探るというもの。

直感と取材を積み重ねて、 常にどんな「人間」に対しても 公平、公正な視線で 丁寧にていねいに 人間像を浮かびあがらせてくれる沢木さんのルポですが、 今回のものは CGとかGPSとか 現代の「技術」なくしては発見され得なかっただろう新しい「ルポ」でした。

、、でも、、 沢木さんとキャパ、、 このNHKだけのためのルポではなかろう、、と検索してみたら、 昨年末に出た「文藝春秋新年特別号」に一挙掲載されたルポルタージュだったのですね。

それが来週16日に 単行本化されて出るのだそうです。
『キャパの十字架』 (文藝春秋>>)

これは読んでみたいな。。 それにしても、、 あんなスリリングな謎解きをテレビで全部やっちゃうなんて なんて勿体無い! 

 ***

番組内容とは関係ないですが、、 ひさしぶりにお姿を見た沢木耕太郎さんが 全っ然変わってなくて、 30年前くらいとほとんどお変わりなく、、 (あれぇ… 沢木さん今おいくつなんだろう…) と思ったら65歳とのことでした。。 (Wiki>>) ほんと 若々しい。

沢木さんのルポルタージュ、、 いちばん最初に読んだのは 77年の『人の砂漠』だったか、 78年の『テロルの決算』だったか覚えていないけれど、 先に文庫化されていた『若き実力者たち』や『敗れざる者たち』もすぐに読んで、、 それから『深夜特急』まで、、 沢木さんの本は全部読んだなぁ。。。 中学生以降の 私の社会認識はほとんど沢木さんによって形づくられたと言ってもいいくらい。

沢木耕太郎さんと、、 そののちは 前回お名前を挙げた 藤原新也さん。 

、、今のこのブログでは 詩的な本や ファンタジックな本を取り上げることが多いですが、 10代、 20代の時は 堀口大學訳の詩集など読みつつも、 ルポルタージュもいっぱい読んだ。 キャパも読んだし、 沢田教一さんの本も読んだ。 青木富貴子さんや、 ピート・ハミルさんや。。
「今」のこの世界が知りたかった、、 「現代」というものが知りたかった、、 だって音楽では海の向こうでPUNKの嵐が吹き荒れて、、 ブームタウン・ラッツが『哀愁のマンデイ』を歌っているのに、 自分は毎日「しらけ世代」の何にも言わないクラスメイトと大人しく机に向かっていなきゃいけなかったんだもの。。。


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昨今、
音楽市場では 洋楽のシェアが8%なんだって。。。 映画業界でも 洋画が激減なんだって。。

出版業界だって、、 海外の翻訳文学は全然でしょ?

若者が「内向き」ってよく聞くけれど、 世界のことにまるで興味が無い、、 自分の知らない外国の人や音楽や物語については たいしておもしろいと思わない、、 そういう人は増えてるかもしれない、、 それはすごく心配。。

、、でも、、 でもきっと、 売上のシェアとしては低くても、 お金のとぼしい若者は youtubeで洋楽も聴いてるし、 レンタルで洋画も見てるし、、 ん~~~ 翻訳文学はあんまり読んでないかもしれないけど、、 新しいフェスもたくさんあるし、 決して海の向こうのことに興味がないわけではない、、と思いたい。。

 ***

ここしばらく、、 沢木さんの本は読んでいませんでした。。 が、、 時折 雑誌や新聞で拝見する「映画評」で、、 沢木さんの独特の人間をとらえる視点に心をうたれたりしてました。。

来週は、、 バレンタインデー。 沢木さんのこんな映画エッセイを読みながら 苦い珈琲とあまいチョコを味わうのもいいかも。。。

『「愛」という言葉を口にできなかった二人のために』

、、タイトルだけで せつなくなりそう、、(笑)