漱石の『心』につづいて、 今は『三四郎』が日々 新聞に連載されています。
大学時代に『三四郎』はよく開いたけれど、 一日に一回の掲載分だけ読む、というゆっくりした読書とは全く違っていたので、 見えなかったものや、 思いつかなかったことなどが、 しばしば頭に浮かんで面白いです。
大学後に 多少は読んだ本も(ちょびっとは)増えたから、 少しは知識も、、加わったし…(?)
物語は、 そろそろ「よし子」さんが登場したところだから、 しばらく前に思った事を少し書いておこうかな。。 師走の日々はすぐに追い立てられてしまうから。。
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野々宮宗八さんのモデルは寺田寅彦。 野々宮さんの年齢は30歳くらいだから、 ちょうど『三四郎』掲載の明治41年の寅彦の年齢がそのまま当てはまるようになっている。
野々宮さんには妹「よし子」がいて、 女学生だからたぶん十代。 随分年の離れた妹さんということになる。 だからか、 野々宮さんはよし子を子供扱いして、 「馬鹿だから」とか、 「僕の妹は馬鹿ですね」とか(3回も)言っている。 昔よんだ時は、 あんな可愛らしい妹を「馬鹿」「馬鹿」と(軽口にしても)ひどいじゃない、と思ったけれど、、
今年、 再び寅彦の随筆集を開いて、あっと思った。。。 何度読んでも、 いつも泣いてしまう 『団栗』、、、 胸を病んだ奥さんを植物園へ連れて行ってあげる話。 、、まだ数えの19にもならない奥さんは、 子供のようにどんぐりを拾って喜ぶ。 いつまでも拾うのをやめないので、 寅彦は
「もう大概にしないか、ばかだな」
と声をかける。 、、此処を読んで、あっと気付いた。 そして『団栗』の掲載年を見たら、 明治38年4月 ホトトギス、とあった。 同じ年、 漱石もホトトギスに『猫』の連載をしている。 当然、 漱石も寅彦の随筆を早速読む立場にあったし、 『猫』にも「寒月君」として登場して、 バイオリンを買う話などで取り上げられている。
、、そっか、、
「よし子」さんのあの年齢と、子供らしいあどけなさの造形は、 野々宮さんの「妹」ではなく、 亡くなったまま年をとらない「奥さん」なのかもしれない。
そう思ったら 「馬鹿だから、よくこんな真似をします」という、病院からの悪戯の電報も、 「馬鹿」という言葉も、 とてもとても深くて、 愛情あるものに思えて、 また泣けてきてしまった。 『団栗』では、 庭の梅の木に二輪ほど満開の花を見つけて近づいて見ると、 千代紙の花がくっつけてあって
「おおかた病人のいたずららしい」
と書かれている。 こんな愛らしい、 まだほんの少女のような奥さんを偲んで、 漱石がそっと「よし子」さんを似せて書いたのかもしれないと思った。 だから入院から始まる「よし子」だけれども、 小説の中では病気はすっかり良くなっていく。
寅彦と、 その奥さん「夏子」のことが こちらに詳しく載っていました↓
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801110159.html
昔は、 家同士の決める結婚が普通にあったにせよ、 14歳と18歳の結婚… 熊本五高の時にもう寅彦は妻帯者だったとは。。 そして『団栗』のラストの一文で、 私も謎だった 「始めと終わりの悲惨」、、の意味が、 これでようやく解り、、 一層胸がつまる想いでした。
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もうひとつ、 漱石が『三四郎』に忍び込ませた思い出のひとつに、 子規の思い出があるのでは、と思っている。 冒頭の、 広田先生との列車での出会いで、 「子規は果物が大変好きだった」と、 柿をたくさん食べた逸話を話している。
広田先生と子規がどうして知り合いなのか、 何の説明もないままだけれど、 きっと漱石はそれをただ書きたかったのだろう。
そして同じく「よし子」さんに関して… ちょうど、 今日掲載のところ、、。 三四郎が「よし子」の家を訪ねると、 よし子は 庭の柿を写生している。 此処も子規へのオマージュかもしれない。
さらに、『三四郎』の終わりの方で、 三四郎がインフルエンザで寝込む時、、よし子が蜜柑の籠を持ってお見舞いにやってくる。 そして三四郎の枕元で、 蜜柑を剥いて食べさせてくれる。
子規の 『くだもの』というエッセイがある。 そこに、 明治28年に子規は奈良に立ち寄り、 宿で御所柿を食べたという部分が載っている。 その宿の下女が柿を剥いてくれるのだが、
「年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる」
と書かれている。 「生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた」 とまで書いている。 精霊かと思うほど、 その少女が愛らしく記憶に残ったのでしょう。。。
この文章は明治34年にホトトギスに掲載とある。 漱石は留学中で英国に居たまま、 子規は翌年亡くなった。
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『三四郎』は23歳。 漱石と子規が出会った数えの年。 そして、 明治34年は 漱石が留学をした年(33で出発し、 英国到着後すぐに34になる)、、そして、 子規が病の床で上記の『くだもの』を書いていた年。 寅彦が病身の奥さんを連れて、 『団栗』を拾った思い出の年も、 明治34年。
、、きっと、 そんなこんなのさまざまな思い出と、 亡き人たちへの美しい追想を、 そっと『三四郎』の中の「よし子」という少女に投影して、 ふたりの親友への思いやりの気持ちを込めているのではないかな、、と そんな想像をしています。
正岡子規 『くだもの』 青空文庫
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寺田寅彦 『どんぐり』 青空文庫
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