星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
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レオニード・アンドレーエフの『ラザロ』と 漱石の『硝子戸の中』

2013-05-29 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
東京芸大美術館での 『夏目漱石の美術世界展』始まっているようですね。 いつ見に行こうかと考え中。。

公式サイト(>>)に出品リストが載っているのを見て、 洋画についてはだいたいどの作品にどんな絵が言及されていたかを 思い出すことができるけれど、 日本画の方は知識がちっともないので、 抱一くらいしかわからない。
伊藤若沖なんて どこに出てきたっけ…? 『草枕』かな。。

見に行く前に ざっと読み返した方がいいのか、 カタログ買ってきて後でおさらいするか、、 考え中。

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ところで、、 しばらく前になるけれど、 バベルの図書館 ロシア短篇集に入っている アンドレーエフの『ラザロ』を読んで、、 一体どうしてアンドレーエフは こんな作品を書いたんだろうか、、と考え込んでいて、、

アンドレーエフについてはずっと前に書きました、 漱石の『それから』に出てくるので、、(>>

で、、『ラザロ』とは、 聖書に出てくるように 死後4日ののちにイエスによって蘇ったという人物。 その物語をアンドレーエフは、 再生や復活の物語としてではなく、 まるで墓場からあらわれた死者の恐怖小説のように描いている。 3日間葬られていた肉体はすでに腐敗しかけ、 青黒く膨張し、 性格も以前のような快活なラザロではなく、 当初は蘇りを祝福して集まってきた人々も みな次第に離れていき、 ラザロは孤独と暗黒だけの世界に去っていく。 まったく救済のない物語。。。

アンドレーエフは、 漱石も恐怖をおぼえながら読んだという『七死刑囚物語』を書いた人だから、 根本的に暗い人なのか、 人間や社会のすべてを憎んでいるような厭世的な人なのか、、 だから『ラザロ』みたいな救いのない小説を書いたんだろか、、 などとつらつら思っていたそのころに、、

レオニード・アンドレーエフの肖像画をネットで見つけて、、 (イリヤ・レーピンの描いたものだった) 、、それがなんだかとっても意外な相貌だった。。 「Leonid Andreev」でググっていただければ、 たくさん画像が見れると思います (写真も多数残っているいるようです)、、 まぁ 端正な美青年。。 たしかにちょっと神経質そうな雰囲気もあるものの、 肖像画だけ先に見た人なら、 まさか『ラザロ』のごとき暗黒な世界を書く人とは思わないんではないかしら・・・

 ***

で、、 今回 漱石の美術展のことでまた漱石とアンドレーエフの事を 思いだして、、(美術展にアンドレーエフは関係ありません)

ふたりとも全くの同時代人で、 まるで兄・弟のような年齢なのですね。 漱石(1867年 - 1916年 享年49)、 アンドレーエフは4歳年下(1871年 - 1919 享年48)

そう思ったら、 アンドレーエフという人が(肖像を見たからか) 急に『それから』の代助か、 『行人』のお兄さんみたいに思えてきた。。。 というか、 とても漱石自身に似ている人、 と思えてきた。

「修善寺の大患」のあと、 漱石が書いた 『硝子戸の中』に病気からあとの心境を書いた部分がある。


 「私がこうして書斎にすわっていると、来る人の多くが「もう御病気はすっかり御癒(おなお)りですか」と尋ねてくれる。 私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答に躊躇した。そうしてその極いつでも同じ言葉を繰り返すようになった。 それは「ええまあどうかこうか生きています」という変な挨拶に異ならなかった。」(30)

、、周知のとおり、 漱石はこのあとも胃潰瘍などに苦しみ、2年足らずのうちに亡くなってしまうので とても「元気」と言える状態ではなかったのでしょう、、 漱石はその後、 「どうかこうか生きています」という挨拶をやめて、 「病気はまだ継続中です」と改めることにした。


 「私はちょうど独逸が連合軍と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。 今こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕の中に這入って、病気と睨めっくらをしているからです。 私の身体は乱世です。 いつどんな変が起こらないとも限りません」
  或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。 或人は黙っていた。 また或人は気の毒らしい顔をした。・・・


、、ふと 『ラザロ』について、 このときの漱石の気持ちを思い出したのでした。。。 この時の漱石の気持ち、、 私もすごくよくわかります。 「もうすっかりいいの?」 「元気そうだね」、、 たいがいの人は優しい気持ちでそう言ってくれるのでしょうけれど、 切り傷がすっかりきれいに治るのと違って、 いろんな病気や手術をした人は その後もずっとずうっと病と向き合いつつ、 表向きの仕事や生活は 「普通に」 していかなきゃならない日々が続く。。。

病気に限らず、 大震災や、 大きな事故とか、 心身に大きな負担をおった人にとって、 「もうすっかりお直りですか?」 なんて言えるものではないのだ。 それ以前の状態とはまったく同じようにはなれないのだと思う。。。 「元通りになったね」 「元気そうだね」 、、 悪意はなくてもそういう励ましに、 「全然そうじゃない」と苦しい思いをする人も本当にたくさんいるんだろう。

そういうことなんじゃないかな、、 『ラザロ』の物語とは。。。 復活を無邪気に喜ぶ周囲のひとびとと、 いったん極限の状況を体験してしまったラザロとの、 解り合えない歪み、、 悲しみ。。 だから、 ラザロは口を閉ざしたまま たったひとりで苦しみに耐えているのかと。。

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漱石蔵書にアンドレーエフは5冊くらいあるようだけれど、 たぶん『ラザロ』は読んでいないかな、、。 

漱石はこののち、 書斎の『硝子戸の中』から「微笑」しつつ、 自分の事さえも「他人」をみるようなこころもちで、 おだやかに「世間」を眺めている心境に至る。。 「則天去私」、、という心境。

アンドレーエフという人の背景をほとんど知らないので、、(革命後はフィンランドに亡命したらしい、、) 晩年の人生がどうだったかわからないけれど、、 今度、 最後の作品というのを読んでみようと思っている。

物語は終わらない。。 『灯台守の話』 

2013-05-10 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
先ごろ、 火星への片道切符、というニュースが話題になりましたね。 すでに何万人もの応募があるんだそう、、 そんな夢物語みたいなとか、 ほとんど自殺行為のようなとか、、 「あり得ない」イメージで言われてますが

スコットやアムンゼンが南極点に行ったのが 1912年のこと、 

「スコット大佐が南極をめざしたのは、もう他に探検する場所が残っていなかったからだと、本の序文には書いてあった。・・(略)・・ 一九六九年に人類が月に行くなんて、誰も想像すらしなかった時代だ」

、、と先日読んだ本に書いてあって、 なるほどと思いました。 南極探検から57年後には人は月の上を歩いてちゃんと帰ってきました。 想像もできないことが50年くらいで可能になるなら、 いずれ火星に移住するのだってあり得ないことじゃないのかもしれません。。。

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先に引用した本は、 『灯台守の話』(ジャネット・ウィンターソン著/岸本佐知子訳 白水社)


でも、 南極や月探検の話ではありません。 スコットランドの北の涯ての海辺に 母と住む少女の話。 

「二人の家は崖っぷちに斜めに突き刺さるようにして建っているため、母娘はつねに命綱でしっかり体を結び合っている」(あとがきより)

、、というちょっと「あり得ない」ような家が 物語の始まり。 、、しかしある日、 母を失い孤児になってしまった少女(と犬)は、 養い手を探す張り紙を町に貼り出され、 応募してきた灯台守の老人と灯台で暮らすことになる。

母娘の住んでいた家も、 娘の行き先を「張り紙」で募るのも、 いろいろと「あり得ない」不思議さで、 これは何か寓話的なファンタジーかしらと思って読んでいると、、、

少女が暮らすことになる灯台は、1828年に建てられたもので、 設計者はロバート・スティーヴンソン、 『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』を書いたRLスティーヴンソンの祖父、、 という記述が出てきて、 おとぎ話が一気に現実の歴史と咬み合って、 突然あのスティーヴンソンの痩せた肖像とか、19世紀のスコットランドの辺境の船宿とか、 現実感が急に増して (本当にあったお話なの?) と考えてしまう。

灯台で暮らすことになった少女は、 灯台守の老人からたくさんの物語を聞きながら育っていく。 100年以上にわたる物語。 

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しかしやがて、、 時代の流れとともに 灯台を去らなければならなくなった少女。 ひとりで生きていかなければならなくなった少女。

そこから先の彼女=シルバーが、 (唐突な喩えだけど…)なんだか私には 映画『ドラゴン・タトゥーの女』のリスベットみたいに思えて、、。 ああいう事件と関わるとかではなくて、 彼女の孤独とか、 人とのかかわり方とか、 求めているものとか、、 そのぎこちなさ、 せつなさ。

そう思いながら全部を読み終えて、 「あとがき」で作者ジャネット・ウィンターソンの背景を読んだら やはり、、という思いでした。 孤独で、 困難な子供時代を送らなければならなかったこと。 

そういう自らが背負った過去の重さを 「物語る」くだりは、 正直であり、 切実であり、 とても心に迫るものがある一方で、 「物語る」ことで自分を支え、自分が自分であり続けるために「物語」を書いている限りは、 その自分を重ねた部分だけがやっぱりそこだけ浮いたみたいになってしまう。 すごく力のある物語だけど、 そこだけ物語の向こうに作者の姿が透けてしまう。 難しいな、、と思いました。  

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でも、 すごくいい表現にはっとさせられるところが一杯でした。 まるで箴言集のような。。

いちばん好きなのは・・・

「お話して、 ピュー。

 どんな話だね?
 ハッピー・エンドの話がいいな。
 そんなものは、 この世のどこにもありはせん。
 ハッピー・エンドが?
 おしまい(エンド)がさ。」

灯台守ピューの語る物語をちゃんと味わうには、 R・L・スティーヴンソンの作品(ジキル・・・)はちょっと読んでおいたほうがいいかも。。 お話の中で、 スティーヴンソンがこの灯台を訪れたことになっているんだけど、、 本当なのかな? たくさん旅はした人のようだけど、 この最果ての地まで行ったのかな…
 
スティーヴンソン、、 また読んでみよう。

R・L・スティーヴンソンに関する過去ログ>> さらに>>

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ところで、、 この物語のモデルになった灯台が、 スコットランドに本当にあるのですって。。。 ケープ・ラスをgoogleマップで探す、、、
うわぁ ほんとうにスコットランドの一番北の果てだ。。。 まわりには都市や鉄道も見当たらない、、

どんな極寒の地かと思ったけれど、 こんなに美しい場所でした。 もちろんこれは夏の間、、ね。
http://www.capewrath.org.uk/index.htm

↑このサイトに載っているカフェ、、 すご~く行ってみたい!!

ある意味レイヤーケーキ?: イアン・マキューアン 『土曜日』

2013-05-02 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
どんな本でも 予言書になりうる、、というのはリチャード・バックなんかも書いていたことですが、、 自分が今読んでいる本と現実がリンクするような、、 まるで現実に引きずられるように本が自分のもとにやってきた、、とか錯覚すること しばしばあります。

3週間ほど前から読み始めた イアン・マキューアンの『土曜日』(新潮クレスト・ブックス 小山太一訳 2007年 Amazon>>


物語は9・11から2年後のロンドン。 未明に目覚めてしまった主人公がまだ暗い窓のそとを眺めていると、火を噴きながら飛ぶ航空機を見る。 テロなのか? 9・11以後の世界に生きる人間が抱かざるを得なくなったこの 「不安」、、そこからこの物語が始まる。 男の脳裏にうかぶさまざまな思いが、克明に綴られていって、それによって 次第にこの男や周辺のことが少しずつわかってくる、、、 たった一日「土曜日」の出来事を記した長い長い物語。

9・11以後の世界を 自分が知っている作家がどう書くか、というのはなんとなく前から関心があったので、 たいへん興味深く読み始めたし、 マキューアンの丹念な心理描写はそれは見事で、、。 
ブッシュの対イラク侵攻に英国ブレア首相も同意を示し、まさに戦争がはじまろうという時期の設定も的確だし、 そんな中で「燃える飛行機」を見てしまったところから始めるなんてすごいとも思ったけれど、、

初めの4分の1くらい読んだところで、 現実のほうで ボストンマラソンのテロが起こって、 犯人の背景がよくわからないまま住宅街での捜索がつづいて、、、 なんだか落ち着かず 先週までこの本を読むことが出来なくなってしまった。。

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ボストンの事件も、 国家間の組織的な背景があったかどうかは今のところ疑わしいけれど、、 9・11以後の現代人は、 そういう国家的・宗教的対立に不安を覚えながら、 同時に もっとちっぽけな 個人的な疎外感からくる暴力にも怯えなければならない、、、

まさに『土曜日』もそういう物語だった。 タイムリーといえばタイムリー。 リアルといえばリアル。。。 でも・・・

でも・・・ (とつぜん私情全開になりますが)
主人公の状況がわかってくるにつれて 「はぁ?」… と目線が斜めになってきちゃったのだ。。 主人公は有能な脳神経外科医、 妻は弁護士、 家族を愛し、 ロンドンに自宅と高級車を所有し、 休日の朝には同僚とスカッシュ、、 夜には娘・息子や義父が集まってディナーの予定。。  しかもその義父は高名な詩人でフランスのシャトーに住み、、とか、、

いや、だからこそ その完全な日常を失うかもしれない 「言い知れない不安」に怯えるのだ、、と思い直してみる。

以前に、 ダニエル・クレイグが大学教授役で主演した映画 『Jの悲劇』>>(マキューアンの原作『愛の続き』)のことを書きましたが、 その物語とも共通する。 恵まれた階層の知識人の 平穏で理性的な日常がこわれていく恐怖。 、、似ているなぁ、、と思いだしながら気づいた。。 要するに、 英国でイアン・マキューアンを読む人というのはきっとそういう人たちなんだ。。

 ***

もうひとつ、、 個人的に 「はぁ?」… となったところ、、
主人公の息子、、 これが学業はさっぱりで唯一 完全な家族構成から外れるかと思いきや、、 音楽の才能に恵まれて、 ブルースギタリストとして活躍しつつある。。。 なぜブルースギタリスト・・・

読んでると、 ジャック・ブルースに教えを受け、 クラプトンにも目をかけられ、、 ロン・ウッドとは共演の機会も得た、、。。 2003年? はたちそこそこの青年が? ロンドンのブルースギタリスト?? (売れないだろ…)

しかもこの息子、、 家族と同居してる、、 (それはない!・笑) 
まぁね、、 これだけのいい家の子だから、、 ヘヴィメタもなんだし、 ラッパーやDJでもないかもしれないけど、、 ブルースってどうなの、、? 前にここでも書いた「セントジェームス病院」>>も作中に出てきたりするのだけど、、 あの歌の打ち棄てられたような遺体の背景と、この坊やの階層って違いすぎでしょう、、、

、、と、、 妙に細かいところに(描写が克明なだけに) 突っ込みたくなって、、 この恵まれた階層にはたまには「言い知れない不安」に苛まれてみるのもいいかもよ、、などと意地悪になってしまったり。。。

 ***

思うに、、 英国って地震もないし、 ハリケーンの被害とかも聞かないし、、 飢饉にみまわれたかつてのアイルランドと違って ロンドンの裕福な知識人にとって、 日常を脅かすのは人為的なものだけなんだ。。 だから何としてでも排除すべきで、 自分たちの理知と科学は必ずそれに勝らなければならない。。

すっごくなるほどなぁ、、と思ったところは 脳外科医の主人公がこう思うところ。。 人間の 脳という物質がどのようにして思考をもち、 意識というものをつくりだすのか、、  自分が生きているうちには無理でも、 必ず解明される日がくる。 「科学者と研究施設が存在するかぎり」

「これこそが、自分が抱く唯一の信仰だ。 この世界観には崇高なものがある」

まさにこの理知への信仰が、 世界の中における英国の知識人の立ち位置なのでしょう。

、、ところで、
冒頭の 「燃える飛行機」を見た時、 2003年の主人公は手掛かりを得るためにテレビをつけたりしましたが、、(とうぜん即座には情報が得られませんでしたが) 、、 2013年のいまは すぐにtweetされるのでしょうね。

あと10年後にはどんな世界になっているのかな。。。


(タイトルのレイヤー・ケーキについてはこちら>>