ー Twitter 星の破ka片ke からの転記 ー
「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」「…当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている」 漱石の言う《自覚心》とはどういう事か?《自覚心》が強くなった二十世紀の人間の未来は? 『吾輩は猫である』最終章です。
【探偵】#漱石
「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」と独仙…
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える
「人間に文明の角が生えて、金米糖のようにいらいらするからさ」と迷亭
(承前)
『猫』十一章後半、《探偵》というキーワードを機に二十世紀文明論が始まりますが
「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃したって怖くはありません…
「…ああら物々し盗人よ。手並はさきにも知りつらん…
寒月君には手の内が見えていると平気そう…
(承前)
少し後の方での東風君も
「世の中に何が尊いと云って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります…
と、持論を曲げる気配なし。肝心の文明論も若者ふたりには何ら堪えないのは、未だ社会の実相を知らないから?
【探偵】
探偵と言えばホームズ。ホームズシリーズの誕生は1887年から。漱石の『猫』の時代もホームズシリーズは続いています。私は《推理小説》を定義できるほど詳しくはないので、学魔先生の極めて明快な定義をお借りしてしまいますが…
(承前)
推理小説…
「簡単にいえば『外形と隠された本質は一致しているはずだ』という…思い込みの世界である。
これが十八世紀から十九世紀にかけて二百年くらいヨーロッパを支配してきた合理主義の実態だ」 『奇想天外・英文学講義』高山宏
(承前)
先の「外形と隠された本質は一致しているはずだ」という探偵の推理の法則を応用すると、九章で「あばた」に悩んだ苦沙弥は、あばた=無教養で社会階層の底辺に属する者、という判断になってしまいます。これが《合理主義》的な解決なのです。(【鏡】
まず鏡=虚像に思い悩む姿が象徴的だと思いますが、洋行帰りの友人が西洋ではあばたは「あつても乞食か立ん坊」と言うように、「外貌」が人格や階層の判断材料とされる時代です。衣装ひいては肉体が人間の「我」の象徴であり、社会構造そのものである、という事は七章のカーライルの論でした。)
(承前)
さらに「外形と隠された本質は一致しているはずだ」として《すべて目に見えるように解決する》のが探偵なら、『猫』にここまで書かれてきた「無絃琴」も「琴のそら音」も、「肝胆相照らす」という「霊の交感」も《思い込み》で終わりです。 (「物の本体」…形や音のその奥にある《本質》は、ただ目に見えるもの、耳に聞こえるもの、という表面的な《形》に囚われていては知ることが出来ない。
「無絃琴」につながるこの哲理は、『猫』のここまでの章でもずっと底流に示されてきたことでした。)
(承前)
いえ、その《想像》《妄想》《思い込み》さえも科学的に、実証的に、解決してみせるのが探偵なのですね。
【探偵】
「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。…(続)
(承前)
…ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ」
探偵は、《人の胸中》《人の心》を手に取るようにつまびらかにでき、強制的に《人の意志》を奪って真意をしゃべらせてしまう、そういうものだと。
(承前)
「吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何せん… 不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る」『人生』明治二十九年
漱石は小説を書き始める前から、人の心がいかに不可測なものかを考えていました。
(承前)
「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」『こころ』
「御前他(ひと)の心が解るかい」
「ああおれはどうしても信じられない。…どうかおれを信じられるようにしてくれ」『行人』
(承前)
探偵は、人の心さえも手に取るように《科学的に、実証的に》明らかに読み得る、という前提で推理し、トリックを見破り、解決に至るわけですが、漱石が生涯にわたって小説の中で考え続けたのは、人の心の《解決できない》問題だと思う。《探偵》の合理と相容れないのは自明でしょうね。
【寒月の謎】
昨日の《探偵》に続いて…
苦沙弥の探偵嫌い同様、漱石の探偵嫌いも夫人鏡子さんの回想『漱石の思い出』などから知ることができますが、科学者の寒月さんは探偵を全く気にしていません
新婚で幸せ一杯だから? 研究者で世間の俗事と無縁だから?
手の内が見えている、とは?
(承前)
そもそも寒月さんには謎がいっぱいです
「合奏会がありまして…某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは〇〇子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きます…」
吾妻橋で「〇〇子の声がまた苦しそうに、訴えるように」聞こえたという声の主は、本当に金田富子のことだったのかしら?
(承前)
確かに金田の妻は「〇〇博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いて見たんでさあね」と言うので、音楽会で娘の病気の話を寒月にしたはずですが、苦沙弥らが「〇〇子さんと云うのが二返ばかり聞えるようだが」と寒月に尋ねても、〇〇子が実際誰だったのか正確な名前はわかりません。
(承前)
さらに、寒月さんは「天保調」の「羽織の紐をひねくりながら」にやにやする場面がたくさんありますが、「この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので」という「去る女性(にょしょう)」についても明かされません
「ここから乾の方角にあたる清浄な世界」にいると言う。
(承前)
金田一家が大磯に出掛けた場面では、寒月さんは金田家へ「二三日前行った」と見え透いた嘘をついて「先月大磯へ行ったものに両三日前東京で逢うなどは神秘的でいい」と迷亭にからかわれます
ここも普通なら何故そんな嘘をつくのか突っ込まれても良い所ですが、うやむやのままです。
(承前)
こうして読んでいくうちに、寒月さんは金田家の《探偵》の裏をかくために、富子との縁談話に乗り気なふりを続けて見せているというのが次第に分ってはくるものの、元に戻って、では吾妻橋から飛び込もうとした《相手》は誰だったのか、羽織の紐の相手は誰なのか、結局謎のままです。
(承前)
この寒月さんの《謎》も推理してはみましたが多分無駄
漱石はわざと《解決されない謎》の存在として「去る女性」を寒月さんの話に設定してあるのだと思います。探偵が最新の科学を以てしても解けない《謎》…それを科学者寒月さんが語ることで合理的解決に抵抗しているのかな、と。
(承前)
寒月さんが山で脅かされるギャーという謎の声も、まぬけな話のようでも怪異は怪異のまま中途半端で終わること、その先を「無絃琴」を聴くように感じとることが大事なのかな…神秘としては少し滑稽ですけど…
でも、寒月さんの絵葉書の「琵琶を奏でる天女」を想像すると崇高になる。
(承前)
実際の科学者寺田寅彦も、科学が解き明かすことの出来ない不可思議さを大切に思われるかただったのですね
「宇宙は永久に怪異に満ちている…それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである」と、昭和4年の『化け物の進化』にあります。
【自覚心】
独仙「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが…」
苦沙弥「…当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で云う、見性成仏とか、自己は天地と同一体だとか云う悟道の類ではない…」
(承前)
見性成仏…自分に本来備わっている仏性を見究め悟ること。
↑という悟道の意味ではない「自覚」という説明から、おそらく英語の「自」「覚」という言葉を漱石が日本語に訳したものだろうという想像ができます。
それで「自覚」=self-conscious だろうと。
(承前)
「寝てもおれ、覚めてもおれ」
「どうしたら己れの利になるか、損になるか」
「昔しの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教える…二六時中己れと云う意識をもって充満している」
これらの説明から、やはり self-conscious だと思われる。
(承前)
ただし、苦沙弥の言う「自覚心」=self-consciousness は、単に「自己」の「意識」という生理学的な意味ではないらしい。社会の中で、また対人関係の中で《自分=おのれ》というものを四六時中、常に《意識している》ということのようだ。
(承前)
「ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日(こんにち)の趨勢を言いあらわしている」
(承前)
つまり、苦沙弥の言う「自覚心が強い」というのは、「自意識過剰」という意味での self-consciousness であるようだ。
それで「二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ」という具合に、疲弊してしまうのだと言う。
(承前)
「Self-consciousnessの結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二十世紀の共有病なり。
人智、学問、百般の事物の進歩すると同時に此進歩を来したる人間は一歩一歩と頽廃し、衰弱す」
(漱石全集 明治38、9年「断片」より)
【自覚心】
昨日のつづき。《自意識過剰》という意味での self-consciousness《自覚心》
自分がほかの人にどう見えるか、どう思われるか、四六時中意識せずにはいられない《自覚心》について、SNS全盛の現代ならその気持ちは容易に理解できるかと思います。
(承前)
その意味で、漱石が「断片」で予言した「神経衰弱」は、《21世紀》の共有病になりつつあるのかもしれません。《コミュ●》とか《●●充》などの言葉・状態は、己ひとりの問題というよりも、(自分が)集団という他者の眼で自分を意識した時はじめて生じてくるものだと思うから。
(承前)
《英吉利のナイスと自慢する行為》…インドの流儀に倣って手で食べたこととか、フィンガーボールの水を飲んだとか、カーライルの椅子の話とか、人の体面を失しないよう気遣う行為を、「個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通云うが…御互の間は非常に苦しいのさ」と感じる神経の細かさ
(承前)
英国のマナーに対するこの記述は、実際に留学中の漱石のノートに書かれていたものだから、社交における自分の振舞い・見せ方に対していかに漱石が熟慮したかが窺える。でも、これら《ナイス》の例がそれほどまでに神経を擦り減らすもの?そう感じることが《自意識過剰》とみえるがどうだろう
【自覚心】
漱石が倫敦留学中に、すれ違う人に何かを言われたとか、下宿の婦人にこう言われたとかそういう体験が自分の《見え方》を意識させたにせよ、所謂《空気を読んだ》ふるまいに対しても、その裏側の《自分の見せ方》について欺瞞を感じてしまう。痛々しいほどに過剰な敏感さだと思う…
三四郎
「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある…形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」
(承前)
『猫』の英国流の《ナイス》という行為は、『三四郎』で広田先生が指摘する《形式だけの親切》を思い出せばわかる。自分をよく見せようとする偽善。
広田先生の語る偽善家、露悪家も、『猫』でたびたび語られた《魂胆》についても、共通する根底には自覚心=自意識の過剰がある。
【unpleasantness の文学】
新潮文庫の『ジーキル博士とハイド氏』の田中西二郎氏の解説で、[unpleasantness]という説明がある。これが『猫』十一章で漱石の言う《自覚心》と《英国人のナイス》を理解するのにぴったりだったので、少し引用させて下さい。
(承前)
人生は「愉しいほうがよく、愉しからざることをなるべく避けて生きようと心がける」
そのために「少なくとも社会生活では…できるだけ愉しからざる人生の真相を暴露しないように努力する」
英国の「コモン・センスとかジェントルマンシップとかいう言葉の内容が、そこに根ざしている」
(承前)
「ジェントルマンシップ」(漱石のいうナイス)によって社会生活から表面上締め出された愉しからざることは、抑圧によって人間内部でさらに《精神のunpleasantness》になる
が、犯罪、醜聞、背徳行為等、人間の深淵を覗くことは「内心の膿を切開し、爛れを癒す快感」にもなる
(承前)
こうしたunpleasantnessに対する「心理学上でいうカタルシスの作用」として
「何故に特にイギリス人が探偵小説、怪奇譚、悪党譚、冒険譚、スリラー、スパイ物語等を愛好し、またイギリスの作家がこれらの文学の名手であるかの謎が解ける」(田中西二郎)
『文学論』序で有名な「倫敦に住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり」という漱石の「不愉快=unpleasantness」
これを、コモンセンスによって個々の内部に抑圧される《不愉快》と、イマジネーションでの《醜悪への嗜好》という、英国文学の謎を読み解く苦悩だったとすれば…
(承前)
漱石の感じていた《不愉快》は、まさに英文学の正統的不愉快の理解だったとも言えるのではないかな…
醜悪、罪悪、不道徳が何故に文学的素材になり得るか、『文学論』でも多くを割いて説いているのも、unpleasantnessという英文学の特色を深く考え込んだからなのでしょう。。
(承前)
『自殺クラブ』はスティーヴンソンの『新アラビア夜話』の中の話
漱石の『彼岸過迄』にも
「英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜剌比亜物語という書物を読ました…彼がいかにそれを面白がっていたかが分る」
(承前)
スティーブンスンの『自殺クラブ』の中で若者はこう説明する(要約)📖
鉄道・電信・エレベーターという文明の利器によって、苦労せずとも好きな場所へ行く自由を得た。ただ一つ、現代の生活で足りないのは、命の舞台から降りる自由だ、と。
『猫』から僅か5年後の谷崎潤一郎の『秘密』では
「コナンドイルの The Sign of Four や、ドキンシイの Murder, Considered as one of the fine arts や、アラビアンナイト」に読み耽る人物が描かれ、恐怖や死も文学的快楽の対象に。
(承前)
『猫』では
「今から千年も立てばみんな実行するに相違ないよ」と遥かな未来記としているけど、英国の文学傾向を見てきた漱石には遠からず日本の若者も、このような文学に刺激されていくことは分かっていたと思う。いち早くこれらの作品の意味を考えたのは漱石だが谷崎の立場はとらなかった
(承前)
スティーブンスンの『自殺クラブ』については、江戸川乱歩が大正15年に短編「覆面の舞踏者」で「普通の道楽なんかでは得られない、強烈な刺戟を味わうのだ」とその「風変わりなクラブ」を紹介している📖
【自覚心と未来記】つづき 🐈
「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだね…
ありゃ理想じゃない、不平さ…どうしても怨恨痛憤の音だ」
(承前)
「個性の自由を許せば許す程…」と、なんだか未来記のようにみえますが
「個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多に寝返りも打てないから…」とあるからこれは未来予想ではない。しかも「どこから見ても神経衰弱以前の民だよ」の、独仙によるニーチェ観だし。
(承前)
ここで思い出すのが、7章の洗湯見学の場面。
カーライルの『衣装哲学』を借りて吾輩🐈は、人間が「おれはおれだ誰が見てもおれだ」という自我意識を獲得し、己の見せ方で主張する《自覚心、self-consciousness》を身につけたことを指摘していましたね。 (【衣装と個性】→「自然は人間を平等なるものに製造して世の中に抛り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸である」
「どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云ふ所が目につく様にしたい。夫れについては何か人が見てあつと魂消(たまげ)る物をからだにつけて見たい」)
(承前)
洗湯では誰もが衣装を脱いで裸になるが、《肉體》そのものが己を象徴する衣装だとカーライルは言いました。
だから狭い湯船に裸でひしめき合うのを見て「赤裸は赤裸でどこ迄も差別を立てゝくる」と吾輩🐈は、どこまでも人間が己の《個性》を認めさせようとすることを指摘しました。
(承前)
その個性の主張で「もう一歩も進めぬ」時に登場したのが「ニーチェの超人」でした
「うめろうめろ、熱い熱い」と風呂で叫んでいたのは、この最終章で独仙の言う「窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだ」との19世紀のニーチェ像の戯画だったのですね。
(承前)
だからこの最終章のニーチェの部分は、向後、個性の発達した日本にニーチェの所謂《超人》の出現が起るとか、それを期待しているとかではなく
「先方に権力があればある程…不愉快を感じて反抗する世の中」との認識の下、その社会生活の不愉快の反動が、苦沙弥・迷亭の未来記への懸念かと。
(承前)
新潮文庫の『ジーキル博士とハイド氏』の田中西二郎氏の解説にあった【unpleasantness の文学】の説明を再び…📖 (こうしたunpleasantnessに対する「心理学上でいうカタルシスの作用」として「何故に特にイギリス人が探偵小説、怪奇譚、悪党譚、冒険譚、スリラー、スパイ物語等を愛好し、またイギリスの作家がこれらの文学の名手であるかの謎が解ける」(田中西二郎)
(承前)
「英人の文學は安慰を與ふるの文學にあらず刺激を與ふるの文學なり。人の塵慮を一掃するの文學にあらずして愈人を俗了するの文學なり…阿片に耽溺せる病人と同じ」(明治38,9年断片)
【自覚心と三平君】
『猫』の終章🐈、未来記も語り終えた大円団に、多々良三平君の登場
三平君は卒業早々、六つ井物産の役員となった20世紀青年の勝ち組、或は成金、俗物の象徴? なぜ最後に三平君が?
と考えていたが《自覚心》についてずっと読んでくると、三平君も自覚心の塊だと判る。
(承前)
苦沙弥「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云う事を知り過ぎていると云う事だ」
この《自覚心》とは、単に自己とは何?と自分が問うものではなく、《他人》にとっての自己がどう見えるか、どう思われるか、どう損得があるか、という事。
(承前)
「私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね」
三平君の常識はビジネスの利害の常識… 社交を円滑に導くための《コモンセンス》
「この煙草を吸ってると、大変信用が違います」
三平君には、他人にどう見えるか、どう思われるか自分を顕示するのが最も大事
(承前)
しかも三平君は一応、《親切》でもある
「御馳走するです。シャンパンを飲ませるです」…ビールの手土産も持参して、金田の娘を自分が貰って寒月さんに悪いからと、見合い相手の写真もたくさん持参した😓
が…三平君は明治の世の《自覚心》の塊だけれども、神経衰弱ではないようだ
(承前)
「先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、傍が傍だから、おのずから、そうなってしまうです」
三平君は常に周囲とを比べ、身に着ける物、煙草の銘柄、付け届けや忖度、気にし通しなのだろう
個性を差別化できるうちは得意だが、皆が同じになったら…🐈
【自覚心と三平君】つづき
ビジネスマンとしての常識《コモンセンス》を磨き、自分が周囲にどう見えるか、どう自分の株が上がるか、に執心する三平君の在り方は、当時の国の姿と重ね合わせることもできるかもしれない
外見は西洋列強と肩を並べた形だが、経済・精神ともに疲弊は始まっている
(承前)
十章は《己を知る》ということがいかに困難か、がテーマでした
終章で語る《自覚心》は、己の真の姿が自分で分かっていないにもかかわらず、自分が人にどう見えるか、どう評価されるかは意識する、こと。
《形》に囚われる人間のありようを多々良三平君を通して描いているのですね
(承前)
「多々良三平君の如きは形を見て心を見ざる第一流の人物であるから…」とすでに5章で示されていました。
「形体に囚われる者は本質を見ない」というテーマは『猫』の終章まで貫かれてきたわけです
(「とかく物象にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉らんのは厄介である」
すでに五章で、形体に囚われる者は本質を見ないという点がキーワードとして示されていたが、九章全体は苦沙弥も迷亭も猫も、形に惑わされているようだ。)
(承前)
「三平君に至つては水に住む人か、山に住む人かちと鑑定がむずかしい。生涯三鞭酒(シャンパン)を御馳走して得意と思う事が出来れば結構だ。鈴木の藤さんはどこまでも転がつて行く。転がれば泥がつく。泥がついても転がれぬものよりも幅が利く」
(承前)
5章では「形を見て心を見ざる」人物と書きながら、終章で吾輩🐈が三平君や鈴木の藤さんに対する評価を留保しているのは、「世の中の評価は、猫の眼玉の如く変わる」という漱石の文明・文芸に対する認識のあらわれと思えます
言い換えれば、現在の評価はいずれひっくり返る、とも…。(世の中の評価は、猫の眼玉の如く変わる…この事は『猫』下篇自序で漱石が「世の中は猫の目玉の様にぐるぐる廻転している」と書いた事に通じる重要な点でしょう。物事の評価が世(時代)とともにひっくり返る。『猫』の文明論のテーマとも。)
【自覚心】昨日のつづき
『三四郎』より 広田先生の言葉📖
すると髭の男は、
「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが…
(承前)
三四郎が列車で広田先生と出会い、「滅びるね」につながる場面ですが
広田先生が「こんな顔」「顔相応」と《顔》を二度使っている部分も
『猫』を通して考えると見逃せない部分です。これは広田先生が《見た目》で人を判断するわけではなく、国家が《見た目》だけ整えたという事。
(承前)
《形》だけ西洋化をし、形のうえでは領土を拡げ、それで一等国と認めさせようとした国家のあり方は
「金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います」と見た目で人の信用を得ようとする三平君と同じこと。実際、日露戦争後の日本経済は疲弊していく。
(承前)
(明治の)今の世が見た目という《形》に価値を置くことしか出来ていないのを解っていて、広田先生は敢て「こんな顔をして」と《見た目》の差異を口にしたと思います
本質は《形》だけでは繕えないと知っているから「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と三四郎に教えたのでは?
(承前)
『猫』にしても、『三四郎』にしても、最晩年の『明暗』にしても、《見えるものと見えないもの》《表にあらわれているものと内にあるもの》って、漱石文学ではずっと考え続けられていたことなんじゃないかな📖
…と『猫』であらためて教えられました。《意識と潜在意識》の事も。。
(承前)
ただ、他の人にどう見えどう思われるかという《自覚心》の問題が、苦沙弥家に集う人物にはどうも無縁に感じる。独仙・迷亭はわが道を行く人物で人目にどう映るか気にしそうもない。東風・寒月の若者が苦沙弥らの《未来への悲観》を聞いてもまったくこたえていないのは前に述べた通り。
3夫婦
迷亭「あらゆる生存者が悉く個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬ許りの風をするようになる」
「一所に居る為めには一所に居るに充分なる丈個性が合はなければならないだらう…賢夫人になればなる程個性は凄い程発達する。発達すればする程夫と合はなくなる」
(承前)
「賢婦人」という語は「教育」とか「社会進出」という意味に置き換えるとして、この迷亭さんの未来記に百年後の男女は頷くしかないかも…
でも東風さんは毅然と反論する✊
「…愛と美ほど尊いものはないと思います…愛は夫婦と云う関係になります。美は詩歌、音楽の形式に分れます…」
(承前)
「…いやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います」✨
…「夫婦」という形態も、「詩歌」というスタイルも、かたちの変化はありつつも、東風さんの主張する通り「愛と芸術」は、未来永劫この地球上に存在し続けて欲しいですね…
(承前)
新体詩を笑われてばかりの東風さんの『猫』における存在理由がやっとわかった気がします(笑)…この一言を主張するためだったのか
いえ冗談でなく、「私は妙ですね。いろいろ伺っても何とも感じません」と平気の寒月さん含め、未来記の悲観論に若者が納得しないのは、漱石の願い✨なのかも
(承前)
長々とした(けれども神秘的な)寒月のバイオリン夜話がこの最終章に置かれたのも、金田ではなく「大きな碌でなし」のお嫁さんを貰ったどんでん返しも、東風さん主張する「愛と芸術」を未来へ橋渡しする意味があるのかも…
文明批判の裏に、漱石は小説を遺す未来を新世代に期待したかった?
「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」「…当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている」 漱石の言う《自覚心》とはどういう事か?《自覚心》が強くなった二十世紀の人間の未来は? 『吾輩は猫である』最終章です。
【探偵】#漱石
「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」と独仙…
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える
「人間に文明の角が生えて、金米糖のようにいらいらするからさ」と迷亭
(承前)
『猫』十一章後半、《探偵》というキーワードを機に二十世紀文明論が始まりますが
「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃したって怖くはありません…
「…ああら物々し盗人よ。手並はさきにも知りつらん…
寒月君には手の内が見えていると平気そう…
(承前)
少し後の方での東風君も
「世の中に何が尊いと云って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります…
と、持論を曲げる気配なし。肝心の文明論も若者ふたりには何ら堪えないのは、未だ社会の実相を知らないから?
【探偵】
探偵と言えばホームズ。ホームズシリーズの誕生は1887年から。漱石の『猫』の時代もホームズシリーズは続いています。私は《推理小説》を定義できるほど詳しくはないので、学魔先生の極めて明快な定義をお借りしてしまいますが…
(承前)
推理小説…
「簡単にいえば『外形と隠された本質は一致しているはずだ』という…思い込みの世界である。
これが十八世紀から十九世紀にかけて二百年くらいヨーロッパを支配してきた合理主義の実態だ」 『奇想天外・英文学講義』高山宏
(承前)
先の「外形と隠された本質は一致しているはずだ」という探偵の推理の法則を応用すると、九章で「あばた」に悩んだ苦沙弥は、あばた=無教養で社会階層の底辺に属する者、という判断になってしまいます。これが《合理主義》的な解決なのです。(【鏡】
まず鏡=虚像に思い悩む姿が象徴的だと思いますが、洋行帰りの友人が西洋ではあばたは「あつても乞食か立ん坊」と言うように、「外貌」が人格や階層の判断材料とされる時代です。衣装ひいては肉体が人間の「我」の象徴であり、社会構造そのものである、という事は七章のカーライルの論でした。)
(承前)
さらに「外形と隠された本質は一致しているはずだ」として《すべて目に見えるように解決する》のが探偵なら、『猫』にここまで書かれてきた「無絃琴」も「琴のそら音」も、「肝胆相照らす」という「霊の交感」も《思い込み》で終わりです。 (「物の本体」…形や音のその奥にある《本質》は、ただ目に見えるもの、耳に聞こえるもの、という表面的な《形》に囚われていては知ることが出来ない。
「無絃琴」につながるこの哲理は、『猫』のここまでの章でもずっと底流に示されてきたことでした。)
(承前)
いえ、その《想像》《妄想》《思い込み》さえも科学的に、実証的に、解決してみせるのが探偵なのですね。
【探偵】
「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。…(続)
(承前)
…ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ」
探偵は、《人の胸中》《人の心》を手に取るようにつまびらかにでき、強制的に《人の意志》を奪って真意をしゃべらせてしまう、そういうものだと。
(承前)
「吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何せん… 不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る」『人生』明治二十九年
漱石は小説を書き始める前から、人の心がいかに不可測なものかを考えていました。
(承前)
「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」『こころ』
「御前他(ひと)の心が解るかい」
「ああおれはどうしても信じられない。…どうかおれを信じられるようにしてくれ」『行人』
(承前)
探偵は、人の心さえも手に取るように《科学的に、実証的に》明らかに読み得る、という前提で推理し、トリックを見破り、解決に至るわけですが、漱石が生涯にわたって小説の中で考え続けたのは、人の心の《解決できない》問題だと思う。《探偵》の合理と相容れないのは自明でしょうね。
【寒月の謎】
昨日の《探偵》に続いて…
苦沙弥の探偵嫌い同様、漱石の探偵嫌いも夫人鏡子さんの回想『漱石の思い出』などから知ることができますが、科学者の寒月さんは探偵を全く気にしていません
新婚で幸せ一杯だから? 研究者で世間の俗事と無縁だから?
手の内が見えている、とは?
(承前)
そもそも寒月さんには謎がいっぱいです
「合奏会がありまして…某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは〇〇子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きます…」
吾妻橋で「〇〇子の声がまた苦しそうに、訴えるように」聞こえたという声の主は、本当に金田富子のことだったのかしら?
(承前)
確かに金田の妻は「〇〇博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いて見たんでさあね」と言うので、音楽会で娘の病気の話を寒月にしたはずですが、苦沙弥らが「〇〇子さんと云うのが二返ばかり聞えるようだが」と寒月に尋ねても、〇〇子が実際誰だったのか正確な名前はわかりません。
(承前)
さらに、寒月さんは「天保調」の「羽織の紐をひねくりながら」にやにやする場面がたくさんありますが、「この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので」という「去る女性(にょしょう)」についても明かされません
「ここから乾の方角にあたる清浄な世界」にいると言う。
(承前)
金田一家が大磯に出掛けた場面では、寒月さんは金田家へ「二三日前行った」と見え透いた嘘をついて「先月大磯へ行ったものに両三日前東京で逢うなどは神秘的でいい」と迷亭にからかわれます
ここも普通なら何故そんな嘘をつくのか突っ込まれても良い所ですが、うやむやのままです。
(承前)
こうして読んでいくうちに、寒月さんは金田家の《探偵》の裏をかくために、富子との縁談話に乗り気なふりを続けて見せているというのが次第に分ってはくるものの、元に戻って、では吾妻橋から飛び込もうとした《相手》は誰だったのか、羽織の紐の相手は誰なのか、結局謎のままです。
(承前)
この寒月さんの《謎》も推理してはみましたが多分無駄
漱石はわざと《解決されない謎》の存在として「去る女性」を寒月さんの話に設定してあるのだと思います。探偵が最新の科学を以てしても解けない《謎》…それを科学者寒月さんが語ることで合理的解決に抵抗しているのかな、と。
(承前)
寒月さんが山で脅かされるギャーという謎の声も、まぬけな話のようでも怪異は怪異のまま中途半端で終わること、その先を「無絃琴」を聴くように感じとることが大事なのかな…神秘としては少し滑稽ですけど…
でも、寒月さんの絵葉書の「琵琶を奏でる天女」を想像すると崇高になる。
(承前)
実際の科学者寺田寅彦も、科学が解き明かすことの出来ない不可思議さを大切に思われるかただったのですね
「宇宙は永久に怪異に満ちている…それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである」と、昭和4年の『化け物の進化』にあります。
【自覚心】
独仙「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが…」
苦沙弥「…当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で云う、見性成仏とか、自己は天地と同一体だとか云う悟道の類ではない…」
(承前)
見性成仏…自分に本来備わっている仏性を見究め悟ること。
↑という悟道の意味ではない「自覚」という説明から、おそらく英語の「自」「覚」という言葉を漱石が日本語に訳したものだろうという想像ができます。
それで「自覚」=self-conscious だろうと。
(承前)
「寝てもおれ、覚めてもおれ」
「どうしたら己れの利になるか、損になるか」
「昔しの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教える…二六時中己れと云う意識をもって充満している」
これらの説明から、やはり self-conscious だと思われる。
(承前)
ただし、苦沙弥の言う「自覚心」=self-consciousness は、単に「自己」の「意識」という生理学的な意味ではないらしい。社会の中で、また対人関係の中で《自分=おのれ》というものを四六時中、常に《意識している》ということのようだ。
(承前)
「ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日(こんにち)の趨勢を言いあらわしている」
(承前)
つまり、苦沙弥の言う「自覚心が強い」というのは、「自意識過剰」という意味での self-consciousness であるようだ。
それで「二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ」という具合に、疲弊してしまうのだと言う。
(承前)
「Self-consciousnessの結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二十世紀の共有病なり。
人智、学問、百般の事物の進歩すると同時に此進歩を来したる人間は一歩一歩と頽廃し、衰弱す」
(漱石全集 明治38、9年「断片」より)
【自覚心】
昨日のつづき。《自意識過剰》という意味での self-consciousness《自覚心》
自分がほかの人にどう見えるか、どう思われるか、四六時中意識せずにはいられない《自覚心》について、SNS全盛の現代ならその気持ちは容易に理解できるかと思います。
(承前)
その意味で、漱石が「断片」で予言した「神経衰弱」は、《21世紀》の共有病になりつつあるのかもしれません。《コミュ●》とか《●●充》などの言葉・状態は、己ひとりの問題というよりも、(自分が)集団という他者の眼で自分を意識した時はじめて生じてくるものだと思うから。
(承前)
《英吉利のナイスと自慢する行為》…インドの流儀に倣って手で食べたこととか、フィンガーボールの水を飲んだとか、カーライルの椅子の話とか、人の体面を失しないよう気遣う行為を、「個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通云うが…御互の間は非常に苦しいのさ」と感じる神経の細かさ
(承前)
英国のマナーに対するこの記述は、実際に留学中の漱石のノートに書かれていたものだから、社交における自分の振舞い・見せ方に対していかに漱石が熟慮したかが窺える。でも、これら《ナイス》の例がそれほどまでに神経を擦り減らすもの?そう感じることが《自意識過剰》とみえるがどうだろう
【自覚心】
漱石が倫敦留学中に、すれ違う人に何かを言われたとか、下宿の婦人にこう言われたとかそういう体験が自分の《見え方》を意識させたにせよ、所謂《空気を読んだ》ふるまいに対しても、その裏側の《自分の見せ方》について欺瞞を感じてしまう。痛々しいほどに過剰な敏感さだと思う…
三四郎
「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある…形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」
(承前)
『猫』の英国流の《ナイス》という行為は、『三四郎』で広田先生が指摘する《形式だけの親切》を思い出せばわかる。自分をよく見せようとする偽善。
広田先生の語る偽善家、露悪家も、『猫』でたびたび語られた《魂胆》についても、共通する根底には自覚心=自意識の過剰がある。
【unpleasantness の文学】
新潮文庫の『ジーキル博士とハイド氏』の田中西二郎氏の解説で、[unpleasantness]という説明がある。これが『猫』十一章で漱石の言う《自覚心》と《英国人のナイス》を理解するのにぴったりだったので、少し引用させて下さい。
(承前)
人生は「愉しいほうがよく、愉しからざることをなるべく避けて生きようと心がける」
そのために「少なくとも社会生活では…できるだけ愉しからざる人生の真相を暴露しないように努力する」
英国の「コモン・センスとかジェントルマンシップとかいう言葉の内容が、そこに根ざしている」
(承前)
「ジェントルマンシップ」(漱石のいうナイス)によって社会生活から表面上締め出された愉しからざることは、抑圧によって人間内部でさらに《精神のunpleasantness》になる
が、犯罪、醜聞、背徳行為等、人間の深淵を覗くことは「内心の膿を切開し、爛れを癒す快感」にもなる
(承前)
こうしたunpleasantnessに対する「心理学上でいうカタルシスの作用」として
「何故に特にイギリス人が探偵小説、怪奇譚、悪党譚、冒険譚、スリラー、スパイ物語等を愛好し、またイギリスの作家がこれらの文学の名手であるかの謎が解ける」(田中西二郎)
『文学論』序で有名な「倫敦に住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり」という漱石の「不愉快=unpleasantness」
これを、コモンセンスによって個々の内部に抑圧される《不愉快》と、イマジネーションでの《醜悪への嗜好》という、英国文学の謎を読み解く苦悩だったとすれば…
(承前)
漱石の感じていた《不愉快》は、まさに英文学の正統的不愉快の理解だったとも言えるのではないかな…
醜悪、罪悪、不道徳が何故に文学的素材になり得るか、『文学論』でも多くを割いて説いているのも、unpleasantnessという英文学の特色を深く考え込んだからなのでしょう。。
(承前)
『自殺クラブ』はスティーヴンソンの『新アラビア夜話』の中の話
漱石の『彼岸過迄』にも
「英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜剌比亜物語という書物を読ました…彼がいかにそれを面白がっていたかが分る」
(承前)
スティーブンスンの『自殺クラブ』の中で若者はこう説明する(要約)📖
鉄道・電信・エレベーターという文明の利器によって、苦労せずとも好きな場所へ行く自由を得た。ただ一つ、現代の生活で足りないのは、命の舞台から降りる自由だ、と。
『猫』から僅か5年後の谷崎潤一郎の『秘密』では
「コナンドイルの The Sign of Four や、ドキンシイの Murder, Considered as one of the fine arts や、アラビアンナイト」に読み耽る人物が描かれ、恐怖や死も文学的快楽の対象に。
(承前)
『猫』では
「今から千年も立てばみんな実行するに相違ないよ」と遥かな未来記としているけど、英国の文学傾向を見てきた漱石には遠からず日本の若者も、このような文学に刺激されていくことは分かっていたと思う。いち早くこれらの作品の意味を考えたのは漱石だが谷崎の立場はとらなかった
(承前)
スティーブンスンの『自殺クラブ』については、江戸川乱歩が大正15年に短編「覆面の舞踏者」で「普通の道楽なんかでは得られない、強烈な刺戟を味わうのだ」とその「風変わりなクラブ」を紹介している📖
【自覚心と未来記】つづき 🐈
「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだね…
ありゃ理想じゃない、不平さ…どうしても怨恨痛憤の音だ」
(承前)
「個性の自由を許せば許す程…」と、なんだか未来記のようにみえますが
「個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多に寝返りも打てないから…」とあるからこれは未来予想ではない。しかも「どこから見ても神経衰弱以前の民だよ」の、独仙によるニーチェ観だし。
(承前)
ここで思い出すのが、7章の洗湯見学の場面。
カーライルの『衣装哲学』を借りて吾輩🐈は、人間が「おれはおれだ誰が見てもおれだ」という自我意識を獲得し、己の見せ方で主張する《自覚心、self-consciousness》を身につけたことを指摘していましたね。 (【衣装と個性】→「自然は人間を平等なるものに製造して世の中に抛り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸である」
「どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云ふ所が目につく様にしたい。夫れについては何か人が見てあつと魂消(たまげ)る物をからだにつけて見たい」)
(承前)
洗湯では誰もが衣装を脱いで裸になるが、《肉體》そのものが己を象徴する衣装だとカーライルは言いました。
だから狭い湯船に裸でひしめき合うのを見て「赤裸は赤裸でどこ迄も差別を立てゝくる」と吾輩🐈は、どこまでも人間が己の《個性》を認めさせようとすることを指摘しました。
(承前)
その個性の主張で「もう一歩も進めぬ」時に登場したのが「ニーチェの超人」でした
「うめろうめろ、熱い熱い」と風呂で叫んでいたのは、この最終章で独仙の言う「窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだ」との19世紀のニーチェ像の戯画だったのですね。
(承前)
だからこの最終章のニーチェの部分は、向後、個性の発達した日本にニーチェの所謂《超人》の出現が起るとか、それを期待しているとかではなく
「先方に権力があればある程…不愉快を感じて反抗する世の中」との認識の下、その社会生活の不愉快の反動が、苦沙弥・迷亭の未来記への懸念かと。
(承前)
新潮文庫の『ジーキル博士とハイド氏』の田中西二郎氏の解説にあった【unpleasantness の文学】の説明を再び…📖 (こうしたunpleasantnessに対する「心理学上でいうカタルシスの作用」として「何故に特にイギリス人が探偵小説、怪奇譚、悪党譚、冒険譚、スリラー、スパイ物語等を愛好し、またイギリスの作家がこれらの文学の名手であるかの謎が解ける」(田中西二郎)
(承前)
「英人の文學は安慰を與ふるの文學にあらず刺激を與ふるの文學なり。人の塵慮を一掃するの文學にあらずして愈人を俗了するの文學なり…阿片に耽溺せる病人と同じ」(明治38,9年断片)
【自覚心と三平君】
『猫』の終章🐈、未来記も語り終えた大円団に、多々良三平君の登場
三平君は卒業早々、六つ井物産の役員となった20世紀青年の勝ち組、或は成金、俗物の象徴? なぜ最後に三平君が?
と考えていたが《自覚心》についてずっと読んでくると、三平君も自覚心の塊だと判る。
(承前)
苦沙弥「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云う事を知り過ぎていると云う事だ」
この《自覚心》とは、単に自己とは何?と自分が問うものではなく、《他人》にとっての自己がどう見えるか、どう思われるか、どう損得があるか、という事。
(承前)
「私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね」
三平君の常識はビジネスの利害の常識… 社交を円滑に導くための《コモンセンス》
「この煙草を吸ってると、大変信用が違います」
三平君には、他人にどう見えるか、どう思われるか自分を顕示するのが最も大事
(承前)
しかも三平君は一応、《親切》でもある
「御馳走するです。シャンパンを飲ませるです」…ビールの手土産も持参して、金田の娘を自分が貰って寒月さんに悪いからと、見合い相手の写真もたくさん持参した😓
が…三平君は明治の世の《自覚心》の塊だけれども、神経衰弱ではないようだ
(承前)
「先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、傍が傍だから、おのずから、そうなってしまうです」
三平君は常に周囲とを比べ、身に着ける物、煙草の銘柄、付け届けや忖度、気にし通しなのだろう
個性を差別化できるうちは得意だが、皆が同じになったら…🐈
【自覚心と三平君】つづき
ビジネスマンとしての常識《コモンセンス》を磨き、自分が周囲にどう見えるか、どう自分の株が上がるか、に執心する三平君の在り方は、当時の国の姿と重ね合わせることもできるかもしれない
外見は西洋列強と肩を並べた形だが、経済・精神ともに疲弊は始まっている
(承前)
十章は《己を知る》ということがいかに困難か、がテーマでした
終章で語る《自覚心》は、己の真の姿が自分で分かっていないにもかかわらず、自分が人にどう見えるか、どう評価されるかは意識する、こと。
《形》に囚われる人間のありようを多々良三平君を通して描いているのですね
(承前)
「多々良三平君の如きは形を見て心を見ざる第一流の人物であるから…」とすでに5章で示されていました。
「形体に囚われる者は本質を見ない」というテーマは『猫』の終章まで貫かれてきたわけです
(「とかく物象にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉らんのは厄介である」
すでに五章で、形体に囚われる者は本質を見ないという点がキーワードとして示されていたが、九章全体は苦沙弥も迷亭も猫も、形に惑わされているようだ。)
(承前)
「三平君に至つては水に住む人か、山に住む人かちと鑑定がむずかしい。生涯三鞭酒(シャンパン)を御馳走して得意と思う事が出来れば結構だ。鈴木の藤さんはどこまでも転がつて行く。転がれば泥がつく。泥がついても転がれぬものよりも幅が利く」
(承前)
5章では「形を見て心を見ざる」人物と書きながら、終章で吾輩🐈が三平君や鈴木の藤さんに対する評価を留保しているのは、「世の中の評価は、猫の眼玉の如く変わる」という漱石の文明・文芸に対する認識のあらわれと思えます
言い換えれば、現在の評価はいずれひっくり返る、とも…。(世の中の評価は、猫の眼玉の如く変わる…この事は『猫』下篇自序で漱石が「世の中は猫の目玉の様にぐるぐる廻転している」と書いた事に通じる重要な点でしょう。物事の評価が世(時代)とともにひっくり返る。『猫』の文明論のテーマとも。)
【自覚心】昨日のつづき
『三四郎』より 広田先生の言葉📖
すると髭の男は、
「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが…
(承前)
三四郎が列車で広田先生と出会い、「滅びるね」につながる場面ですが
広田先生が「こんな顔」「顔相応」と《顔》を二度使っている部分も
『猫』を通して考えると見逃せない部分です。これは広田先生が《見た目》で人を判断するわけではなく、国家が《見た目》だけ整えたという事。
(承前)
《形》だけ西洋化をし、形のうえでは領土を拡げ、それで一等国と認めさせようとした国家のあり方は
「金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います」と見た目で人の信用を得ようとする三平君と同じこと。実際、日露戦争後の日本経済は疲弊していく。
(承前)
(明治の)今の世が見た目という《形》に価値を置くことしか出来ていないのを解っていて、広田先生は敢て「こんな顔をして」と《見た目》の差異を口にしたと思います
本質は《形》だけでは繕えないと知っているから「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と三四郎に教えたのでは?
(承前)
『猫』にしても、『三四郎』にしても、最晩年の『明暗』にしても、《見えるものと見えないもの》《表にあらわれているものと内にあるもの》って、漱石文学ではずっと考え続けられていたことなんじゃないかな📖
…と『猫』であらためて教えられました。《意識と潜在意識》の事も。。
(承前)
ただ、他の人にどう見えどう思われるかという《自覚心》の問題が、苦沙弥家に集う人物にはどうも無縁に感じる。独仙・迷亭はわが道を行く人物で人目にどう映るか気にしそうもない。東風・寒月の若者が苦沙弥らの《未来への悲観》を聞いてもまったくこたえていないのは前に述べた通り。
3夫婦
迷亭「あらゆる生存者が悉く個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬ許りの風をするようになる」
「一所に居る為めには一所に居るに充分なる丈個性が合はなければならないだらう…賢夫人になればなる程個性は凄い程発達する。発達すればする程夫と合はなくなる」
(承前)
「賢婦人」という語は「教育」とか「社会進出」という意味に置き換えるとして、この迷亭さんの未来記に百年後の男女は頷くしかないかも…
でも東風さんは毅然と反論する✊
「…愛と美ほど尊いものはないと思います…愛は夫婦と云う関係になります。美は詩歌、音楽の形式に分れます…」
(承前)
「…いやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います」✨
…「夫婦」という形態も、「詩歌」というスタイルも、かたちの変化はありつつも、東風さんの主張する通り「愛と芸術」は、未来永劫この地球上に存在し続けて欲しいですね…
(承前)
新体詩を笑われてばかりの東風さんの『猫』における存在理由がやっとわかった気がします(笑)…この一言を主張するためだったのか
いえ冗談でなく、「私は妙ですね。いろいろ伺っても何とも感じません」と平気の寒月さん含め、未来記の悲観論に若者が納得しないのは、漱石の願い✨なのかも
(承前)
長々とした(けれども神秘的な)寒月のバイオリン夜話がこの最終章に置かれたのも、金田ではなく「大きな碌でなし」のお嫁さんを貰ったどんでん返しも、東風さん主張する「愛と芸術」を未来へ橋渡しする意味があるのかも…
文明批判の裏に、漱石は小説を遺す未来を新世代に期待したかった?