星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

春一番の あらしの夜に。。

2008-02-23 | …まつわる日もいろいろ
調子わるぅ~い。。。
(、、なんて、なさけない言葉からでゴメンなさい)

満月のせい? 天気がめまぐるしく変わるせい?
それらのせいもあるけれど、 お薬のコントロールが今ひとつ上手くいかない。。
自分なりにちゃんと勉強して、 いちばんいい状態にもっていきたいのだけれど、、
、、どんな良薬にも副作用、、 使い方をまちがえれば逆効果、、

いま、 ひさびさに読みたい英国小説が 手元にあるというのに。。 しかも2冊。 しかも新作。
、、 ベッドに横になって読もうかな。。

でも、 横になると 寝てしまうのよね、、 お薬のせいもあって。。。 
、、、 う~む、なんかしんどい。。  明日はもっとよくなあれ。

漱石山房をめぐってあれこれ、、(漱石、スティーヴンソン、中島敦)

2008-02-10 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
金曜日の「芸術劇場」で、ロンドンのドゥルーリー・レーン劇場が取り上げられるとTV欄にあったので、見てみた。ドゥルーリー・レーンといえば、夏目漱石研究者ならばピンと来る筈ですが、倫敦留学時代に漱石が「眠れる森の美女」を観た劇場です。 私もそんな興味で見てみたのですが、「ロード・オブ・ザ・リング」の模様を少しやっていて、巨大な舞台装置にさまざまな光の演出で(何十億円とかって言われてましたね)、、すご~い! 観てみたい~と思いました。。 伝統的に、ミュージカルを主とした劇場なのでしょうか。

漱石は、、といえば、、

  夜田中氏トDrury Lane Theatre ニ至ル Sleeping Beauty ヲ見ン為ナリ
  是ハ pantomime ニテ去年ノクリスマス頃ヨリ興行シ頗ル有名ノ者ナリ
  其仕掛の大、装飾ノ美、舞台道具立ノ変幻窮リナクシテ、、、(略)
           (明治34年3月7日の日記より)

、、と、そのきらびやかで美しい様子を、「極楽」のようだ、とか、「キーツ」や「シェリー」の詩の描写を具現したようだ、とか、、大満足して観たようです。日記の中で漱石は「パントマイム」と書いてますが、当時のパントマイムというのは今とは正反対で、歌や踊り、装飾も華やかで、巨大セットが上下するような、時代の最先端の視覚芸術だったようですね。。。 なるほど~、現在のドゥルーリー・レーン劇場のロード・オブ・ザ・リングなんかも、漱石大大好きのような、そんな気がします。なんたってファンタジー好き、アーサー王大好きの漱石ですから。。『三四郎』の中にも、広田先生が外国の劇場について、三四郎に話す場面がたしかありましたね、、。

 ***

と、、そんな矢先、、今度は、新宿区の「漱石公園」に、漱石が晩年を暮らした家「漱石山房」をもとにした「ベランダ回廊」が再現された、と朝日新聞の東京欄に載ってました。「漱石山房」については、前に一度書きました。あのバルコニー風の「回廊」がとっても私には興味があって、「どうして漱石はこんな南国趣味の家に住んだんだろう、、」って前にも書いてますが、、(>>)、、じつは、この「謎」には、私流の勝手な想像がありまして、、

あ、その前に、その「回廊」とは、、こういうものです。


こちらが再現された「回廊」




こちらが「漱石山房」



漱石は、スコットランドの作家、R・L・スティーヴンソンが大変好きでした。スティーヴンソンと言えば、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』が有名で、日本では少年少女が読む方が多いですが、『彼岸過迄』の中でも書かれてますが、スティーヴンソンの『新アラビア夜話』を漱石は大変興味深く読んでいて、中でも「自殺クラブ」に出てくる青年貴族のように、大都市の深部へ潜入して、其処で起こるどこか異常な出来事を覗いて見たい、、というわけで、ああいう短篇連作のような作品になったのですね。『ジキル…』にも通じる話ですが、、。

こういういわゆる「人間の自我の危機」みたいな作品を書いたスティーヴンソンが、肺結核療養の為もあって外国を巡り、晩年は南洋のサモアで現地の人々に慕われながら暮らした、、というのも、なんだか不思議な興味深い話です。
、、、で、、、私は「漱石山房」の写真を見た時から、勝手に、「きっとこれはスティーヴンソンの南国の家をイメージしたのかも!」と思っておりました。でも、、この家はべつに漱石が設計したわけでもなく、貸家を見つけて気に入って住んだものらしいですが、でも、、大きな芭蕉の葉といい、バルコニー風の回廊といい、その南国っぽさが気に入ったのでは?と、思ったものです。

さっき、たまたま、Robert Louis Stevenson を検索したら、wikipedia にスティーヴンソンがNYで過ごした別荘の写真が載っていました。それがとっても「漱石山房」に似てるの! 興味のある方はぜひご覧になってみて下さいな(wikipedia>>) 

ところで、スティーヴンソンと言えば、我が国の中島敦がスティーヴンソンの南洋生活を描いた、『光と風と夢』という作品があるのですね。中島自身も、スティーヴンソンに憧れ、パラオの通信員(でしたか?)として南洋で暮らしたのでしたね。『光と風と夢』、、ずっと読もうと思いつつ読めていないので、近いうちに必ず読みましょう。。 
スティーヴンソンと、夏目漱石と、中島敦、、、それぞれとても似たものを秘めた作家だと、思えます。。。 面白いですね~。

永遠の家族、、永遠の友。: 『ルイザ 若草物語を生きたひと』

2008-02-06 | 文学にまつわるあれこれ(林檎の小道)
このところせっせと読書で現実逃避。 私にはセレブの身の上話なんてひつような~い。

なんて言って、ちょっと前によんだ本は、興味津々の伝記なのですが。。

 ***


『ルイザ 若草物語を生きたひと』(ノーマ・ジョンストン著 谷口由美子訳/東洋書林)

『若草物語』の作者、ルイザ・メイ・オルコットの伝記です。

この本の表紙の絵、、ノーマン・ロックウェルですって。いい絵ですね。。 屋根裏部屋で古いソファとクッションに背もたれて、書き物に没頭するジョー。。いえ、オルコットなのでしょうけど、小説の中の、あのジョーそのもの。

私はウチで掃除する時、、 ソファの上でさんざん使われてぺしゃんこになっている羽毛のクッションを、ぱんぱんと叩いて膨らませる時、、かならず『若草物語』を頭のどこかで反芻しています。。ウソじゃなく、、本当に条件反射的に、、。『若草物語』を読んだ小学生のころには、ウチにはソファもクッションも存在しておりませなかったのですが(笑)、、。 羽毛のクッションが生活に入り込んできたのはいつだったか思い出せませんけど、とにかく、羽毛のクッションをぱんぱんして、並べ直すたびに私はジョーとローリーのことを思い出します。

最初は、ジョーが初めてローリーの屋敷を訪れた時、ですね。風邪ひきのローリーのお見舞いに。。 そこでジョーは、ローリーのお部屋をちゃちゃっとかたづけて心地良くしてあげるのです。

  「きみって、しんせつなんですね! そうですよ、こんなふうにしたかったんです」
   (掛川恭子 訳)

そうして、ジョーとローリーは無二の親友になり、、、でも、、彼らが成長して、<無二の親友>という間柄にはおさまりきれなくなってきたとき、 この<ソファとクッション>の存在がまた大事な小道具となって物語に出てくるのですね。。それは、『続 若草物語』の第九章「やさしき悩み」につづられています、、

  「この由緒ある寝椅子の上にはたくさんのクッションがおいてあったが、、(略)
   、、このあまりぞっとしないクッションはジョーの占有物であり、防御の楯とも
   なれば防壁(バリケード)ともなり、または午睡の夢を適度にさまさせる予防剤
   ともなっていた。」

、、、一体なにからの「楯」であり「バリケード」か?? と言うと、、もちろん、、ローリー。

  「、、このごろになっては自分が最もすわりたい場所、すなわちソファのすみの
   ジョーの隣にすわることをこのクッションで阻止されることがしばしばだったから
   である。」 (吉田勝江 訳/角川文庫)

、、で、、最愛の(はずの)ローリーは、このクッションでかなりさんざんな目に遭うのですよ、、ね。。。 そんなだから、クッションをぽんぽん、としてソファに転がす時、いっつも心のどこかで苦笑してしまうのです。 幼少期の読書の、すごい影響力。

 ***

作者ルイザ・メイ・オルコットの家族は、マサチューセッツ州のコンコードなどで暮らし、ルイザは子どもの頃から、エマソンや、ソローといった超絶主義者の思想家たちや、ホーソンなどの作家たちと親交があった、、ということについては、前に少しだけ書きましたのでそちらを(>>)。
この伝記では、そういったルイザの子ども時代の生活が詳細に書かれていて、エマソンらとの関連も勉強になります(日本では、幕末!という時代。。ルイザの家族、「若草物語」の家族、って本当に永遠の魅力なのだな、と思います)。、、、それにしても、、、
ルイザの<お父さま>、ブロンソンの破天荒ぶり、というか、異端ぶりというか、ダメ人間加減というか、、は、かなりの予想外でした。みずからの哲学のため、、とはいえ、ここまで生活能力に欠けていると家族は本当に大変なだけ、だろうと。。ルイザは、家族の貧窮を助けるため、退路を絶たれた状況で作品を書かなければならなかったのだ、、と。

にもかかわらず、ルイザの描いた『若草物語』には、自分の家族への思いがいっぱいで、<お父さま>の欠点は全く描かれなかったかわりに、第3、第4若草物語でジョーが運営する学校の様子は、まさにルイザの幼少期に、お父さまブロンソンが目指していた理想の学校を描いたものだったということがわかる。困窮を希望に変え、苦難を楽しみにしてしまうルイザのパワーは、やはり紛れもなくジョーそのひと、そのもの。

ルイザの末妹メイ(MAY)が、欧州留学ののちに画家になり、裕福な人の妻となって愛娘をもうけたのですが、、若くして亡くなってしまったという点は胸が痛みました。物語のエイミーは、MAYを入れ替えたもの(AMY)で、物語ではローリーと結婚したエイミーが一番の幸福を手にしたような気がしていたのですが、、そんな悲しい現実が隠れていたなんて、、。 これからはもうエイミーをうらやんだりしません、、ご免なさい。。

MAYの遺した娘さん(AMYでいえば、きんぽうげちゃん、ですね)のその後も書かれています。 『若草物語』を、ジョーの息子たちの物語まで興味深く読んだ方には、このオルコットの伝記もとっても興味深いものになると思います。 お薦めです。

最小で、 無限な、、。 ボルヘスの「アトラス」

2008-02-02 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
いま、、言葉と世界の彷徨、、のような本をめくってみたいらしくて、
ひさしぶりにポール・ボウルズなど、読んだりしている。 あと、京都の本も、読んでいる(笑)

ところで、写真の本は、
『アトラス―迷宮のボルヘス』(ホルヘ・ルイス・ボルヘス/鼓 宗 訳/現代思潮新社/2000年)

(ボルヘスについては過去に少しだけ書きました>>
これ、、もう何度も図書館から借りてきていて、こんなに何度も見たいんなら買えば、、と思うのだけれど、、。そうねえ、、見たくなったら、また借りればいいや、、と、思ってしまう。。
視力を失った晩年のボルヘスが、妻マリア・コダーマと世界をめぐり、そこでコダーマが撮影した写真と、ボルヘスの当地での思索の短文とが収められている本。「アトラス」--地図の無い地図帳。
世界の各地で、 ボルヘスが、たとえば、古代神話の神々や、英文学の作家たち、、ブレイクとか、ワイルドとか、、に思いを巡らす言葉が、散文詩のように読める。ボルヘスの詩集の翻訳も持っているけれど、ボルヘスの詩は翻訳ではなかなか味わうのが難しいのでは、、という気がする。

「アトラス」を、気ままに眺めていると、、 これがボルヘスの「ブログ」のように思える。 写真と、それにまつわるボルヘスの短い思索。。 日時と、 時代と、 場所を変えて、 それらが連なっていく。 最小でありながら、 無限でもあり、、 宇宙と結びつくこともできれば、、 宇宙を閉じ込めることもできる、、 ちょっとblogに似てるでしょ。

、、「アトラス」の最後で、ボルヘスは日本へ、、出雲の地を訪れます。そして、、古代の、八百万の神々の声に耳を傾けます。 その文章が好き。。 神々は世界と人間をおつくりになったけれども、人間は、世界をも滅ぼすようなものまでつくってしまったようだから、、もう人間など滅ぼしてしまおうか、、と神々は話し合います。その時、ある神がおもむろに言います。


  「確かにその通りだ。彼らはあの恐ろしいものを思いつきました。
   しかし、十七音節という空間に収まるこんなものもある」

そして、神々の決断は、、、

、、、私はボルヘスに感謝しつつ、 ちょっとは「アトラス」の一頁ようなblogが書ければいいのに、と思うのです。