このところ
ひさしぶりに日本の現代作家さんの小説を読んでいたのですが、 日常をありのままに描くためでしょうか、、 会話の言葉が余りにがさつで読むのにうんざりしてしまい… せっかくの美しい秋の日も 気持ちまで騒々しくなってしまいそうで…
それで、 ひと昔まえに おそらくとても時間をかけて 丹精をこめて日本語に移されたであろう物語を開くことにしました。。
…日がくれて高い帆の船がラフレイの方からそうっと入江に這入って来れば、家の南の窓に角(つの)の灯を掛けるのが彼の仕事であった。こうしてその報知(しらせ)はドウレンの島に伝わり、そこから、また別の角の灯によって、ロッセスの村にも伝えられるのであった。この微光(あかり)の音信(おとずれ)よりほかには彼が人間との交渉は稀であった。…
(「うすあかりの中の老人」イエーツ
『火の後に 片山廣子翻訳集成』幻戯書房2017年)
きょうは作品のお話ではありません、、 上記の箇所を読んでいて、 「音信=おとずれ」と書かれていることに、はっとしました。 「灯(あかり)」のバトンタッチで船の到着(おとずれ)を知らせる という事と相まって、 報せ=便りのことを「音信(おとずれ)」とあらわしている事に 成程とあらためて気づかされたのです。
そして、、「音信(おとずれ)」とは、 音が次第にずれていく=伝わっていくことだろうか… それとも 音に連れられていくこと(おとづれ)だろうか… と気になりました。 ふりがなは(おとずれ)でしたけれども、、。
、、調べてみると、、
古来 神さまがいらっしゃるのを(姿が見えないので) 「音」として感じていたそうで、、 それで 神さまを招来する際には声をあげたり、鈴を鳴らしたりするのだと… そういえば、、と思い当たりました。 かつて大学で『延喜式(えんぎしき)』などの古代の儀式などを纏めた本などひも解いて、 言葉と祭礼の関係など少し調べたこと思い出しました。
うまく説明も出来ませんので、 「音」と「神さま」のおとずれ(音連れ)のことについて幾つかの神社のサイトの説明がありましたのでそちらを…
神戸・平野 祇園神社「神社の中のモノ・コト」>>
出雲記念館「神社コラム・059◆神社の音・壱 」>>
、、そういえば 巫女さんが神さまを招来するために舞う際に、 手に鈴を持ったり腰に鈴をつけたりしているのも、 音によって降臨をねがっているとともに、 鈴というのは中が空洞で音がするわけですが、 「中空」というのは何かがそこから生まれる場所、という意味で 誕生や再生の意味もあるのだとか。。 鈴の代わりに古代では「蛹(さなぎ)」を腰に下げて舞ったのも誕生や再生を願うからだとか。。 これは確か、松岡正剛さんの『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 (NHKブックス) という本に書かれていました。
「おとずれ」から話がひろがってしまいましたが…
わたしたちが日頃使っている「訪れ」という漢字を調べてみると、 「言」と「方」で あちこちと聞いてまわるという意味だそうですから、 自分が先へ出かけていくのは「訪れ」で、、
あちらからいらっしゃる、というのは「おとづれ」(音連れ・音信)なのかもしれません、、。
君待つと 吾が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く
学校で誰でもが習う万葉集の額田王の歌ですが、、 この歌の「風」の気配もまさしく「音連れ」を願うものですね。
***
やはり 秋の日に騒々しいお喋りは似合いません。。 耳をすませて待つ風のたより、、 彼方からのおとづれ、、
どんな音とともに…
音信ありて…?
ひさしぶりに日本の現代作家さんの小説を読んでいたのですが、 日常をありのままに描くためでしょうか、、 会話の言葉が余りにがさつで読むのにうんざりしてしまい… せっかくの美しい秋の日も 気持ちまで騒々しくなってしまいそうで…
それで、 ひと昔まえに おそらくとても時間をかけて 丹精をこめて日本語に移されたであろう物語を開くことにしました。。
…日がくれて高い帆の船がラフレイの方からそうっと入江に這入って来れば、家の南の窓に角(つの)の灯を掛けるのが彼の仕事であった。こうしてその報知(しらせ)はドウレンの島に伝わり、そこから、また別の角の灯によって、ロッセスの村にも伝えられるのであった。この微光(あかり)の音信(おとずれ)よりほかには彼が人間との交渉は稀であった。…
(「うすあかりの中の老人」イエーツ
『火の後に 片山廣子翻訳集成』幻戯書房2017年)
きょうは作品のお話ではありません、、 上記の箇所を読んでいて、 「音信=おとずれ」と書かれていることに、はっとしました。 「灯(あかり)」のバトンタッチで船の到着(おとずれ)を知らせる という事と相まって、 報せ=便りのことを「音信(おとずれ)」とあらわしている事に 成程とあらためて気づかされたのです。
そして、、「音信(おとずれ)」とは、 音が次第にずれていく=伝わっていくことだろうか… それとも 音に連れられていくこと(おとづれ)だろうか… と気になりました。 ふりがなは(おとずれ)でしたけれども、、。
、、調べてみると、、
古来 神さまがいらっしゃるのを(姿が見えないので) 「音」として感じていたそうで、、 それで 神さまを招来する際には声をあげたり、鈴を鳴らしたりするのだと… そういえば、、と思い当たりました。 かつて大学で『延喜式(えんぎしき)』などの古代の儀式などを纏めた本などひも解いて、 言葉と祭礼の関係など少し調べたこと思い出しました。
うまく説明も出来ませんので、 「音」と「神さま」のおとずれ(音連れ)のことについて幾つかの神社のサイトの説明がありましたのでそちらを…
神戸・平野 祇園神社「神社の中のモノ・コト」>>
出雲記念館「神社コラム・059◆神社の音・壱 」>>
、、そういえば 巫女さんが神さまを招来するために舞う際に、 手に鈴を持ったり腰に鈴をつけたりしているのも、 音によって降臨をねがっているとともに、 鈴というのは中が空洞で音がするわけですが、 「中空」というのは何かがそこから生まれる場所、という意味で 誕生や再生の意味もあるのだとか。。 鈴の代わりに古代では「蛹(さなぎ)」を腰に下げて舞ったのも誕生や再生を願うからだとか。。 これは確か、松岡正剛さんの『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 (NHKブックス) という本に書かれていました。
「おとずれ」から話がひろがってしまいましたが…
わたしたちが日頃使っている「訪れ」という漢字を調べてみると、 「言」と「方」で あちこちと聞いてまわるという意味だそうですから、 自分が先へ出かけていくのは「訪れ」で、、
あちらからいらっしゃる、というのは「おとづれ」(音連れ・音信)なのかもしれません、、。
君待つと 吾が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く
学校で誰でもが習う万葉集の額田王の歌ですが、、 この歌の「風」の気配もまさしく「音連れ」を願うものですね。
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やはり 秋の日に騒々しいお喋りは似合いません。。 耳をすませて待つ風のたより、、 彼方からのおとづれ、、
どんな音とともに…
音信ありて…?