アユタヤ・・この響は「ロマン」を感じます。
たくさんの遺跡が存在する街・・・ぜひ一度は行ってみたい場所でした。
美しい古代都市、アユタヤは、バンコクから車で1時間半くらいで行かれます。
1351年にアユタヤ王朝が開かれて以来、417年間にわたっての歴史がある街です。
水路に恵まれたアユタヤは、国際貿易都市として繁栄しました。
日本人の「山田長政」が活躍した町としても有名ですね。
しかし、ビルマ軍(現ミャンマー)の侵略も絶え間なく続き、1967年に栄光の幕を閉じました。
今は、奇跡的に戦火を逃れた、寺院や宮殿。朽ち果てた仏像など、たくさんの遺跡が残っていて、ユネスコの世界遺産に指定されています。
「ワット・プラ・スィ・サンペット」
最初の王朝の宮殿跡に建てられたアユタヤで最大規模の王室専用寺院でしたが、ビルマ軍によって破壊され、黄金は全部剥されてしまい、苔むした仏塔が3基だけ残っています。
「ワット・ロカヤ・スタ」
うっそうと生い茂る広大な草原に、悠然と寝そべる巨大な釈迦像です。
寺院も本堂もなく、真っ青な空のしたで、太陽の光を浴びながら、静かな微笑を浮かべている姿は、なんともやさしげで穏やかで、心が安らぎます。
「ヴィハーン・プラ・モンコン・ポピット」
タイ全土から参拝客が後をたたない礼拝堂です。
ビルマとの長い戦いの中で、何度も傷つきながらも信仰心の厚い住民の手によって補修がされ、現在までも奇跡的に残っている仏像があります。
大きな仏像の中から、何百体もの小さな仏像が発見されたりもしているそうです。
「日本人町跡」
最盛期には、日本人が2000~3000人も住んでいたそうです。
当時の日本人は、貿易も営む一方、アユタヤの傭兵としてブルマ軍との戦いにも参戦していたようです。ここでの町長が「山田長政」だったのです。彼の活躍ぶりは、何冊かの本にもなっています。
後の江戸幕府の鎖国で、この町は消滅、荒れ果ては原野となってしまいました。
日タイ友好100年を機に、公園として整備されましたが、隆盛を誇っていた当時の面影はまったくありません。
たくさんの遺跡が存在する街・・・ぜひ一度は行ってみたい場所でした。
美しい古代都市、アユタヤは、バンコクから車で1時間半くらいで行かれます。
1351年にアユタヤ王朝が開かれて以来、417年間にわたっての歴史がある街です。
水路に恵まれたアユタヤは、国際貿易都市として繁栄しました。
日本人の「山田長政」が活躍した町としても有名ですね。
しかし、ビルマ軍(現ミャンマー)の侵略も絶え間なく続き、1967年に栄光の幕を閉じました。
今は、奇跡的に戦火を逃れた、寺院や宮殿。朽ち果てた仏像など、たくさんの遺跡が残っていて、ユネスコの世界遺産に指定されています。
「ワット・プラ・スィ・サンペット」
最初の王朝の宮殿跡に建てられたアユタヤで最大規模の王室専用寺院でしたが、ビルマ軍によって破壊され、黄金は全部剥されてしまい、苔むした仏塔が3基だけ残っています。
「ワット・ロカヤ・スタ」
うっそうと生い茂る広大な草原に、悠然と寝そべる巨大な釈迦像です。
寺院も本堂もなく、真っ青な空のしたで、太陽の光を浴びながら、静かな微笑を浮かべている姿は、なんともやさしげで穏やかで、心が安らぎます。
「ヴィハーン・プラ・モンコン・ポピット」
タイ全土から参拝客が後をたたない礼拝堂です。
ビルマとの長い戦いの中で、何度も傷つきながらも信仰心の厚い住民の手によって補修がされ、現在までも奇跡的に残っている仏像があります。
大きな仏像の中から、何百体もの小さな仏像が発見されたりもしているそうです。
「日本人町跡」
最盛期には、日本人が2000~3000人も住んでいたそうです。
当時の日本人は、貿易も営む一方、アユタヤの傭兵としてブルマ軍との戦いにも参戦していたようです。ここでの町長が「山田長政」だったのです。彼の活躍ぶりは、何冊かの本にもなっています。
後の江戸幕府の鎖国で、この町は消滅、荒れ果ては原野となってしまいました。
日タイ友好100年を機に、公園として整備されましたが、隆盛を誇っていた当時の面影はまったくありません。