これは常識vs常識の戦いなのではないか、と思って見ていた。
女王が依って立つ古き良きイギリス的なコモン・センスと、大げさなパフォーマンスと感情にナルシスティックに酔う、しかし多数派であることによって「常識」になりおおせている大衆的感覚と。
ダイアナ元王妃の生前はさんざんゴシップネタにしておいて、死んだ途端に聖女扱いになった違和感は今でも記憶に鮮明なので、どう考えても女王の振る舞いの方が筋が通っているように思える。離婚して出て行った元嫁について、なんでいつまでも元姑が口を出すべきなのだろう。
宮殿前にものすごい量の花が捧げられている光景というのも、改めて見て改めて気持ち悪かった。なんでああ赤の他人のことに夢中になれるのか。
ダイアナ妃の二人の息子、女王にとっては孫(十年後の今では、でかくなったよねえ!)がセリフには出てきても姿は出さないのも、映画自体が変に情に流されないようにする配慮に思える。
大衆というのも不思議な「権力」だ。権力がない者が集まることによって、首相も女王も逆らえない力になってしまっていて、しかもその成員はその自覚が持たない、あるいは持てないでいる。
女王や首相も情報はテレビから得るのね。最初と最後しか直接会うことがないのが、立憲君主制の緊張感かとも思わせる。
首相の家の中が子供たちの居方からしてもイギリスの中産階級みたい。
「ディア・ハンター」ではないが、鹿狩りの鹿が失われた貴重なものの象徴みたいになっている。
ブレアが首相の間に見たかったのだが、結局辞めてからになった。ここで持ち上げられた分の倍叩かれて退陣したわけで、大衆社会では「上」に立つものはは半ば大衆のスケープゴートにならざるをえないよう。失脚する時は突然だという女王のセリフ通り。
それにしても、イギリスでは仲間うちとはいえああ堂々と王室の批判(というより罵倒)をしているのだろうか。日本の皇室だと批判はしても、もっと陰にこもる。
下世話な話になるがヘレン・ミレンは昔「カリギュラ」なんて超大作ポルノに出ていたのが記憶の最初で、日本デビューでの「としごろ」でも90センチをゆうに越すバストを見せたのがちょっと話題だったとか。そのあたりのイメージからは想像もできない見事な抑制と格調。
もっとも、よく考えてみると、この映画自体が一種のエクスプロテーション(際物・搾取)という面はあるのだが。
(☆☆☆★★★)