私は原作の舞台劇を見ている。
劇団48blues公演で、中野のザ・ポケットだったかMONOだったか記憶はあいまいだが、スクリーンが舞台の前に降りてきて同じ出演者たちが出た短編映画を上映してから芝居を始めたり自主映画上映会とも連動していて映画志向みたいなものが割と強かったと思う。
映画でも出演者全員が喪服という設定で黒のスーツ姿だが、全員黒スーツというのはもともとこの劇団のスタイルだ。
とはいえ、見て面白い芝居だとは思ったけれど、映画になるとはまったく思いもよらなかった。登場人物は五人、舞台は一室、話は五人が集まって解散するまで、というまったく演劇的な三一致の法則に則った作りだからだ。
映画版でも基本的にほとんど一室から外に出ない。ビルの屋上にある一室というリアルだけれど抽象的な空間に設定したのはうまい。
ストーリー展開の意外性、ラストでドラマの組み立てがくっきりと示される構造美などウェルメイド・プレイとしての面白さはほとんど原作の舞台に拠っている。登場人物たちの正体をらっきょうの皮を剥くように明かしていく面白さには、さらに映画的なメイクや特殊効果が効果をあげた。
やや印象が違うのはキャスティングが全員知名度のある人たちで占められていることで、モチーフがZ級アイドルの死の真相とともにそのイメージの裏に迫っていくものだけに、演じる芸能人としてのイメージの虚実が絡んでくることになる。典型的なのがユースケ・サンタマリアの役名というかハンドルネームが「オダ・ユージ」なことで、当然「踊る大捜査線」の楽屋落ち的な可笑しさが加わってくる。
それだけにタイトルにもなっているアイドルの如月ミキが顔をほとんど出さず抽象的な処理で済ませているのは虚実のあわいを縫うのに役立っているのだが、ラストでどーんと顔を出してものすごく下手な歌と踊りを見せているのはいささかぶち壊し。
オタクたちの集まりかと思わせてだんだん違う感動的な局面に持ってきておいて、あんなにすさまじくヘタな歌聴いて喜んでるようじゃやっぱり変な連中だと思わせて引いてしまう。
ラッキー・チャッピーという架空の(もう実在するが)キャラクターグッズの作りはよくできている。
家庭用プラネタリウム(これは舞台公演当時には存在しなかった)で作られた星空でしめくくった方が良かったと思う。
突き飛ばしたり、殴ったりといった場面が結構多いのだけれど、舞台だと装置全体がぐらぐら派手に揺れていた。映画だと「ふり」をするだけだから、かえって自然に見える。
(☆☆☆★★)