prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「愛を読むひと」

2009年06月26日 | 映画
(ネタバレ注意)
エンドタイトルで異色な点が二つ、ひとつはドイツ語による原作を英語に訳した訳者の名前が大きく出ること。もうひとつは、作中で朗読されるテクストの題名と作者がいちいち出ること。使われた音楽の曲名や作曲者名が出るのは普通だが、朗読されるテキストの出典がいちいち断られるのは記憶にあまりない。

見ているとドイツが舞台の話にも関わらず、出てくる本の文字が英語。例によっての言語帝国主義かと済ませてもいいのだが、そうとばかりも言えない気がする。つまり、ネタバレになるが、この物語ではヒロインが文字の読み書きができない文盲であることが重大なモチーフになっているからだ。ヒロインにとっては、ドイツ語だろうと英語だろうと、ラテン語だろうとギリシャ語だろうと、それが文字である限りにおいて何の違いもない。
それをあくまで隠し通そうとするのが、どういう意味を持つのか。ただ教育がないのが恥ずかしいというレベルの話ではないのだろう。文字を持つか持たないかの違いは、異なる言語同士の壁より高いのかもしれない。

最初に十五歳の時の主人公が朗読を披瀝するのが、ホメロスの「オディセイア」の出だし、「あの男のことを わたしに 語ってください ムーサ(詩の神)よ 数多くの苦難を経験したあの男のことを」で、語ること自体が語りだしになっているわけで、物語あるいは歴史は、文字で記録されたものであるより人づてに語られるもの、という立場が明示される。文字として記録されていないと歴史ではない、あるいは歴史とは文献をひもといていくものだといった考えに棹差す。
原文のドイツ題Der Vorleserにはどんなニュアンスなのかわからないが、the readerというと朗読者という意味とともに、読まれるテキスト・読本の方の意味がある(英語のリーダーというと、こっちの意味が普通だろう)わけで、両方の意味にかけているのだろう。

ここでアウシュヴィッツの生き残りがたまたま本を出したためヒロインを含む看守たちの行為が問題になるが、では本など出さないで無告のまま殺された犠牲者は、そのまま無視されてよかったのか。あるいは、法の適用とはしばしば凍りついたコトバで生きた人間の営みを裁断することのわけで、それら「文字」化された歴史・物語だけが歴史ではないという立場を、犠牲者ではなく加害者であるヒロインの側からとっている、というより、加害・被害と図式的に裁断されること自体を、拒絶
しているように思える。

ケイト・ウィンスレットのやや崩れかけた肉体の生々しさが匂うよう。
(☆☆☆★★★)


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