冒頭に原案者である望月衣塑子を含めた前川喜平、南彰といった面々が討論している番組(エンドタイトルによるとこの映画のために作ったわけではない「本物」)が流れているので一瞬虚実が混乱する。
原案となっている新書「新聞記者」は自叙伝としての面がかなり強くて、現在進行形の事件を扱っているわけではない。
新聞記者というのは応用のきくスキルを身に着けているので各社を転々としやすい職業で、事実転職も経験しているのだが、めぐり合わせによっては現政権べったり、というより一体の読売新聞に行っていたかもしれない、というのが不思議な感じがする。望月の父親が後になって、行かなくて良かった、あそこは好かないと言ったというのができすぎのよう。
前川喜平に似た俳優が演じる官僚が前川に対して読売新聞が書き立てたトラップを再現した後、再び本物の前川が出演している番組がしれっと登場したりする。この何かめまいのような感覚。
ここでは森友学園、首相の「お友だち」準強姦もみ消し、文書の改竄隠蔽、官僚の自殺といった、今まさに現在進行形の疑惑をもろに再現する、あるいはポップアート的にコピーして、昔の素朴リアリズムによる事件の再現という段階を途中から大きく突き抜け、一見してそんなことあるわけないだろうと思わせるフィクショナルな飛躍を見せる。
しかもそれが望月衣塑子の別著「武器輸出と日本企業」をぐるっと回って彷彿させたりして、現に前だったらそんな荒唐無稽なと笑われそうな事態が平然と現実化している現在、ありえなくはないぞと肌に粟を感じさせしめる。
1986年に極端に報道がワイドショー化したのを受けて、内田裕也企画・製作・主演の「コミック雑誌なんかいらない」という映画がその直前に現実に起きた事件を次々とテレビ画面そのままに再現したのを、当時長部日出雄はウォーホルがキャンベルスープの缶をそのまま描いてみせたポップアートの技法だと評した。
報道は真実に迫るつもりがあるのか、単にコピー生産して消費しているだけではないかという皮肉がそこにはあった。
すでに現実のメディアが権力のパン屑を拾うのに汲々とし、官房長官の会見が記者クラブとのなれ合いに成り下がった現状で空気を見ずに長官に食い下がったことで望月は注目されたわけだが、それを持ち上げるにせよ、叩くにせよ、消費して終わりではこれまでの不毛の繰り返しだろう。
「娼年」「孤狼の血」とリスキーな役を選んできた松坂桃李がここで再びリスクをとって役者としての存在を演技の提供者の域を超えた映画のエンジンとした。
ヒロインを演じるのがシム・ウンギョンというのは、日本人女優でリスクをとる人がいなかったということなら残念。全編日本語による芝居で、訛りもまったくなく、もともと喋れるわけではなかったというから驚き。
山本薩夫が亡くなってから「客を呼べる」社会派映画というのが日本には絶えていた(伊丹十三の「マルサの女」以降の女シリーズといった変化球もあったが)感があって、封切り二週目の新宿ピカデリーを見事満席にしたのはこれ自体立派なことだが、極端なクロースアップ、手持ちショット、真上からの俯瞰といったメリハリをつけながら、全体として静謐なトーンの中に緊張感を保った演出は、テーマや作ったこと自体を褒められるレベルをはるかに抜き出ている。
それにしても、山本薩夫の作品だったら「巨悪」といったスケールの大きい権力悪を見る愉しみというのもアイロニカルにあったわけだが、今の現実の権力悪のなんとしょぼいことか。具体的な姿を完全にオミットしたのは当然と思える。むしろ矮小な分、陰険で悪質。
「新聞記者」 - 映画.com
「新聞記者」 - 公式サイト
原案となっている新書「新聞記者」は自叙伝としての面がかなり強くて、現在進行形の事件を扱っているわけではない。
新聞記者というのは応用のきくスキルを身に着けているので各社を転々としやすい職業で、事実転職も経験しているのだが、めぐり合わせによっては現政権べったり、というより一体の読売新聞に行っていたかもしれない、というのが不思議な感じがする。望月の父親が後になって、行かなくて良かった、あそこは好かないと言ったというのができすぎのよう。
前川喜平に似た俳優が演じる官僚が前川に対して読売新聞が書き立てたトラップを再現した後、再び本物の前川が出演している番組がしれっと登場したりする。この何かめまいのような感覚。
ここでは森友学園、首相の「お友だち」準強姦もみ消し、文書の改竄隠蔽、官僚の自殺といった、今まさに現在進行形の疑惑をもろに再現する、あるいはポップアート的にコピーして、昔の素朴リアリズムによる事件の再現という段階を途中から大きく突き抜け、一見してそんなことあるわけないだろうと思わせるフィクショナルな飛躍を見せる。
しかもそれが望月衣塑子の別著「武器輸出と日本企業」をぐるっと回って彷彿させたりして、現に前だったらそんな荒唐無稽なと笑われそうな事態が平然と現実化している現在、ありえなくはないぞと肌に粟を感じさせしめる。
1986年に極端に報道がワイドショー化したのを受けて、内田裕也企画・製作・主演の「コミック雑誌なんかいらない」という映画がその直前に現実に起きた事件を次々とテレビ画面そのままに再現したのを、当時長部日出雄はウォーホルがキャンベルスープの缶をそのまま描いてみせたポップアートの技法だと評した。
報道は真実に迫るつもりがあるのか、単にコピー生産して消費しているだけではないかという皮肉がそこにはあった。
すでに現実のメディアが権力のパン屑を拾うのに汲々とし、官房長官の会見が記者クラブとのなれ合いに成り下がった現状で空気を見ずに長官に食い下がったことで望月は注目されたわけだが、それを持ち上げるにせよ、叩くにせよ、消費して終わりではこれまでの不毛の繰り返しだろう。
「娼年」「孤狼の血」とリスキーな役を選んできた松坂桃李がここで再びリスクをとって役者としての存在を演技の提供者の域を超えた映画のエンジンとした。
ヒロインを演じるのがシム・ウンギョンというのは、日本人女優でリスクをとる人がいなかったということなら残念。全編日本語による芝居で、訛りもまったくなく、もともと喋れるわけではなかったというから驚き。
山本薩夫が亡くなってから「客を呼べる」社会派映画というのが日本には絶えていた(伊丹十三の「マルサの女」以降の女シリーズといった変化球もあったが)感があって、封切り二週目の新宿ピカデリーを見事満席にしたのはこれ自体立派なことだが、極端なクロースアップ、手持ちショット、真上からの俯瞰といったメリハリをつけながら、全体として静謐なトーンの中に緊張感を保った演出は、テーマや作ったこと自体を褒められるレベルをはるかに抜き出ている。
それにしても、山本薩夫の作品だったら「巨悪」といったスケールの大きい権力悪を見る愉しみというのもアイロニカルにあったわけだが、今の現実の権力悪のなんとしょぼいことか。具体的な姿を完全にオミットしたのは当然と思える。むしろ矮小な分、陰険で悪質。
「新聞記者」 - 映画.com
「新聞記者」 - 公式サイト