マドンナのナイショ話

あなたに話したいあれこれ

ウォーキング(2024.1211 伊東静雄文学碑・吉田兼好遺跡・地蔵尊67)

2025年01月24日 | ウォーキング

 

今日のフォト。

12月は、寒いけれど良いお天気が続きました。

空が、真っ青です。

2024年12月11日のウォーキングです。

 

12月のウォーキングは、2日間でした。

寒いのと、バタバタしていたのと

体調を労わってのウォーキング調整です。

それにしてもたった2日とは、呆れます。(笑)

 

この日も著名人の石碑を訪ねて

テクテクしました。

電車通りに出て、熊野街道を北へ歩く。

 

2024年12月11日=7117歩

万歩計の数値は、1日の歩数ではなく

ウォーキングの時だけのもの。

写真は全て、スマホ撮り。

 

 

 

            

 

 

 

 

 

熊野街道には、こんな長くて細い抜け道があります。

地元人間でなければ、知らない道。

向こうで、阪堺電車が通過しています。

 

 

 

 

 

細くて長い道を抜けると

風車を付けてもらっている地蔵尊。

真っすぐ北へ進んで、東天下茶屋駅で西へ曲がる。

 

 

 

 

 

上写真=西を見る。

下写真=東を見る。

 

ここに「伊東静雄の文学碑」があります。

伊東静雄は、明治39年、長崎に生まれ

京都大学卒業後、旧住吉中学校の国語の教師として就職。

以来、戦後まで20数年、大阪で教師と詩作を歩みます。

 

 

 

 

静雄は、共立通に下宿したこともあり

丸山通、松虫通、聖天山付近が好きで

好んで散歩したという。

 

碑文にある「百千の」の詩は、

「文学界」の昭和15年12月号に発表されたもので

静雄34歳の時の作品。

 

 

 

 

昭和18年に刊行された詩集におさめられていて

簡潔で強く、円熟した作風を感じさせる詩と

高く評価されました。

 

静雄46歳の時、肺結核を発病し

短い生涯を閉じました。

 

参考文献

「もうちょっと知っとく? 私たちの阿倍野」

難波りんご著

 

 

 

 

伊東静雄文学碑から少し西へ行くと正圓寺参道。

 

 

 

 

 

「正圓寺地蔵尊」

大阪市阿倍野区松虫通3-2-32

 

鳥居の右側に地蔵尊があります。

ここは何度も通っているのに

なかなかこのお地蔵さんをアップ出来なくて。

 

 

 

 

 

徒然なるままに日暮しと詠み

徒然なるままに

楓(フウ)に添うて

 

 

鳥居の左側に、吉田兼好の遺跡があります。

紅葉の盛り、12月11日の美しい光景。

 

 

 

 

吉田兼好が、藁(わら)を打ったといわれる

「藁打石」は、「大聖歓喜天」の標碑(赤い蔦)の

台石として、今も残っています。

 

 

 

 

 

鳥居を潜って、階段のところに行くと見えました。

矢印が吉田兼好の「藁打石」です。

 

 

 

 

 

吉田兼好の歌碑。

「兼好の午睡さますな蝉しぐれ」

 

蔦が、赤いネックレスみたいで素敵です。

 

 

 

 

 

左=服部嵐雪の句碑

「兼好もむしろ織りけり花ざかり」

(兼好がむしろを織る姿を詠んだ)

 

右=吉田兼好の「徒然草」

 

左矢印・右矢印=兼好の徒然草

雑草が生い茂って、見えません。

 

 

 

 

草が枯れ始めた、2025年1月。

もう一度行って来ました。

奥に徒然草を刻んだ歌碑が、見えました。

 

つれづれなるままに

日暮らし 硯にむかひて

心にうつりゆくよしなごとを

そこはかとなく書きつくれば

あやしうこそものぐるほしけれ

 

参考文献

「もうちょっと知っとく? 私たちの阿倍野」

難波りんご著

 

 

 

 

さあ、帰ろう。

松虫通の歴史の散歩道のつたい石を歩いて。

左は、大阪市立中学校。

 

 

 

 

松虫交差点隣接の踏切。

 

 

 

 

 

2025年12月11日。

桜の葉は、すっかり落ちてしまいました。

 

12月は、体調管理に気を付けました。

でももっと歩かなければ、ダメですね。

 

阿部野にゆかりある人の歴史めぐりは楽しい。

次は何を目的に、テクテクしようかな。

 

 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ウォーキング(2024.1210 織... | トップ | うそ替神事(大阪天満宮) »
最新の画像もっと見る