Webの友人が少し前から来阪されていました。
それで今日はお会いする約束をしていました。
梅田のビックマンで待ち合わせ。
果たして無事にお会いすることができるかどうか心配でした。
けれど携帯電話って便利ですね。
すぐに友人と私を繋いでくれました。
ランチをしながらおしゃべり三昧。
ネットでお話しているから
初対面に感じないのが不思議です。
Webの繋がりで
あの人のこと、この人のこと、話題は尽きません。
あの人のあのコメント、この人のこのコメント。
あの人のあの日記、この人のこの日記。
素敵なWebの繋がり。 共通点はいっぱいです。
サイトではどんな日記を書きたいか。
コメントやレスに対しての気配りやルールなど話して
ネットをする上での色々な注意を話しました。
まだまだ私は心遣いや優しさが足らないなぁ・・・と思いました。
友人はご自分の名刺の裏に一言言葉を書いて
可愛いお花のバスケットと共に私に渡してくれました。
「勝つことより 負けない人生を」
素晴らしい言葉です。
友人は、今日の夕刻には帰路につきました。
春を思わせるような暖かな一日。
友人は今日の青空のように爽やかな笑顔の人でした。
猫目ボタンと機関車ボタンって知っていますか?
この写真は息子が学生時代に購入した
古着のヴィンテージものです。
大人からすれば
誰が着たかわからない古着を着るのは抵抗ありますね。
でも古着のヴィンテージものに拘る若者は多い。
この写真のロングTシャツのボタンが「猫目ボタン」
これは1940年代~1960年代に流行ったもので
ボタンが取れにくいように
ボタンの中心を削って処理されています。
昔の職人の製作に対する工夫がうかがえます。
今ではあまり見かけない「猫目ボタン」です。
3枚目の写真は「機関車ボタン」です。
機関車ボタンは猫目ボタンより古く1920年代~1930年代のもので
第二次世界大戦(1939年~1945年)前のボタンです。
機関車ボタンはカバーオールについているボタンで
可愛らしい機関車の絵柄が描かれていて
これは当時の鉄道員のユニホームだったと言われています。
この写真のボタンの下のボタンホールは
当時懐中時計のチェーンを留めて
胸ポケットに懐中時計を入れていたようです。
懐中時計から腕時計に時代が代わると
このボタンホールはなくなります。
これもヴィンテージを決める、大切な要素のひとつです。
カバーオールのステッチはこの当時トリプルステッチでした。
今ではトリプルステッチのカバーオールはほとんど見かけません。
たて落ち(縦に色落ち)、ヒゲ(シワに沿った色落ち)
ステッチ(トリプル)、ボタン(機関車・月桂樹)、ボタンホールなどは
ヴィンテージを決める大切な要素になっています。
1枚目の写真の右のカバーオールはもうボロボロでしょう?
息子は学生時代、バイトをしてやっとこのカバーオールを
手に入れましたが、一度も着たことがありません。
状態はボロボロで袖を通すと破れてしまいます。
これは彼の「青春の証明」なのでしょう。
今もインテリアとして部屋の壁にかけています。
これも雑誌で調べると、第二次世界大戦前のものです。
猫目ボタンと機関車ボタン。
昔はこんな小粋なボタンがあったのです。
可愛いでしょう?
猫好きの人にはたまらない「猫目ボタン」です。
27日、舞台「哀しい予感」を観て来ました。
原作は「よしもとばなな」
まだ、「吉本ばなな」だった(初期の)頃のベストテラー作品です。
演出 塚本晋也
出演 市川美日子 加瀬亮 藤井かほり
幸せな家庭に育つ弥生には小さい頃の記憶がなかった。
けれど父と母と弟の4人で幸せに暮らしていました。
そして大好きな叔母の存在。
ふとした時にある映像が頭の中にフラッシュバックして
小さい頃の記憶をだんだんと思い出していく。
自分と叔母との関係。自分と弟との関係。
そんなある日、ゆきのが失踪。
弥生は弟の哲生とともに
ゆきのと本当の自分の過去を探す旅をするというお話。
孤独や喪失感をとても上手に表現し
その中であったかさや優しさを表現する「ばななワールド」
「キッチン」 「うたかた/サンクチュアリ」 「TUGUMI」
「アムリタ」 「不倫と南米」など数々の賞を受賞しています。
老若男女問わず、よしもとばななのファンは多い。
舞台「哀しい予感」は小説の原文を忠実に生かし
せりふのやり取りをじっくりと楽しませてくれました。
もう一度、原作が読みたくなりました。
昨日、友人が主催する
「フラワーデザイン展」に行って来ました。
ギャラリーでは昔の仲間たちが
素晴らしい作品でそれぞれの「春」を表現していました。
今から18年前に息子の同級生のお母さまたちと
「おかあさん チョット・・・・」というタウン誌を発行していました。
子育て真っ最中、PTA真っ最中の傍ら
私たちのグループは地域活動に取り組んで、熱く燃えていました。
18年前、牛乳パックの回収、ビンのリサイクルは
行政(大阪市)でさえまだ取り組んでいなかったことでした。
そんな環境問題も先駆けての活動でした。
子供たちを連れて
関西テレビの朝のワイドショーに生出演。
子供たちにも思い出を作ってやれたテレビ出演でした。
また私たちの地域の出身であるテレビアナウンサー
故逸見政孝さんを地元の区民ホールにお招きして講演。
「私の歩んできた道」という、彼の生前に至る人生を語ってくれました。
この時逸見さんは第1回目の胃癌の手術を受けています。
区民ホールでの講演の時は経口抗がん剤を毎日服用中。
そして1993年9月6日に記者会見を行い
「今私が侵されている病名は、癌です」と公表し
癌との闘いを宣言しました。
そして3度目の手術の甲斐も虚しく
逸見政孝さんはその年の12月25日に亡くなられました。
テレビ出演と同じ頃 、私たちのタウン誌
「おかあさん チョット・・・」や地域活動が認められ
「レタスクラブ」という雑誌に写真入りで掲載されました。
1991年6月10日号のレタスクラブです。
愉快で活気のある仲間たちと、まるで青春を謳歌するように
子育てをしてPTA活動をして地域活動をしてきました。
あの頃始めた「アレンジメントフラワー教室」
教えてくれた先生も息子の同級生のお母さまでした。
私は7~8年でやめてしまったけれど、この教室も18年続きました。
招待状を頂いて訪れた作品展は、彼女たちの「卒業展」でした。
ひとつの区切りとして、この作品展を最後に解散するとのこと。
ギャラリーには昔の仲間たちが勢ぞろいしていました。
久しぶりに古巣に戻って来たようでした。
あの時、あんなにがんばれたのは
素晴らしい友達にめぐり合えたから。
あの時、熱い気持ちで、地域に「革命」を起こそうなんて
本気で思ったのも素晴らしい友達にめぐり合えたから。
フラワーデザイン展を訪れて、次々思い出しました。
かけがえのない時間を過ごしてきたあの頃が懐かしい。