前回述べたように、ぼくは軽井沢にはほとんど縁がなく、2か月ほど前、軽井沢の星野温泉に泊り、その周辺を歩いただけで、旧軽銀座あたりの”中心部”については何も知らなかった。それで、行く前に、とんぼの本の”軽井沢ものがたり(桐山秀樹ら)”に目を通しておいた。その中で、一番、関心をもったのが、旧軽銀座が、旧中山道の宿場町だったということだった。宿場町は結構、好きで、旧東海道の宿場町は品川から箱根まですべて歩いている。
宿場町のはじまりは、旧軽井沢ロータリーから始まり、碓氷峠の麓、二手橋まで、ちょうど、いわゆる旧軽銀座の700メートルの通りがそれだ。ここに本陣一軒、脇本陣四軒、そのほか旅籠屋、茶屋などが軒を連ねていた。そんな目で旧軽銀座を歩くのも楽しいものである。
ぼくらは、群馬県との県境にある碓氷峠の見晴らし台から、小型バスで、二手橋まで降りてきて、そこから、”宿場町”を歩いたので、そちら方面から下り、紹介してみたい。その橋の近くに、芭蕉の句碑が建っている。天保14年(1843年)に土地の俳人によって芭蕉の150回忌を記念して建てられたもので、”野ざらし紀行”中の一句である、”馬をさえ ながむる雪の あしたかな”の句が刻まれている。これは、”旅人をみる”という前書きがついていて、もちろんここでの作ではなく、熱田で詠まれたものであるが、宿場町の風情にも合う句である。
二手橋

芭蕉の句碑

皇女和宮の下向は文久元年(1861年)に行われ、中山道から江戸に向かったので、すでにこの句碑はあり、お目を通されたに違いない。そのすぐ横に旧中山道の面影を残す道が残されている。ここから碓氷峠を越えられて行ったのだ、どんなお気持ちであっただろうか。

明治に入ると、もちろん参勤交代もなくなるし、軽井沢は宿場町としての存在価値が低くなり、急速にさびれるが、避暑地としての軽井沢に復興させたのが、明治時代(19年頃)の英国人のショー宣教師であった。ショー礼拝堂が、芭蕉碑の前にあるが、当時ここにあった、宿場町の旅籠屋を別荘にしたのが始まりだそうだ。旅人が旅籠屋と間違えて、たびたび訪ねて来るので別の場所に移築したそうだ。昭和61年に軽井沢100年祭にこの教会の裏にショーハウスとして再建した。この教会は大正11年につくられている。
礼拝堂

ショーハウス

ここから、すぐの処に、有名人が訪れる名旅館”つる屋”があるが、江戸時代は茶屋で、二八蕎麦、煮しめ、強飯などを旅人用に提供していたということだ。大分”出世”したというところだろうか(笑)。

数分歩くと、むかし脇本陣”江戸屋”だったのだろうか。今はカフェーになっている。

一方、旅籠屋”白木屋”の子孫の方は、現在、写真屋さんになっている。


宿場町の通りの2/3ほど進んだところに郵便局があり、ここに、脇本陣”亀屋”があり、その子孫の方、佐藤萬平が少し離れた閑静なところに万平ホテルを創業した。ジョンレノン、オノヨーコご夫妻と子供もここに宿泊した。恐れ多くも(笑)、ぼくらも、今回ここに泊らせていただいた。

さて、本陣跡は?、と探したが、みつからなかった。たぶん、宿場町のほぼ中央にある、現在の軽井沢観光会館のあたりにあったのではないかと想像している。

それとも、この”どんぐり共和国”の辺りかな。福島原発から疎開してきたかも(笑)。となりのととろ。♪トトロ トトロ トトロ トトロ♪トロトロトロトロあるきつかれたわい。その晩、生ビールがうまかったこと
(汗)。
宿場町のはじまりは、旧軽井沢ロータリーから始まり、碓氷峠の麓、二手橋まで、ちょうど、いわゆる旧軽銀座の700メートルの通りがそれだ。ここに本陣一軒、脇本陣四軒、そのほか旅籠屋、茶屋などが軒を連ねていた。そんな目で旧軽銀座を歩くのも楽しいものである。
ぼくらは、群馬県との県境にある碓氷峠の見晴らし台から、小型バスで、二手橋まで降りてきて、そこから、”宿場町”を歩いたので、そちら方面から下り、紹介してみたい。その橋の近くに、芭蕉の句碑が建っている。天保14年(1843年)に土地の俳人によって芭蕉の150回忌を記念して建てられたもので、”野ざらし紀行”中の一句である、”馬をさえ ながむる雪の あしたかな”の句が刻まれている。これは、”旅人をみる”という前書きがついていて、もちろんここでの作ではなく、熱田で詠まれたものであるが、宿場町の風情にも合う句である。
二手橋

芭蕉の句碑

皇女和宮の下向は文久元年(1861年)に行われ、中山道から江戸に向かったので、すでにこの句碑はあり、お目を通されたに違いない。そのすぐ横に旧中山道の面影を残す道が残されている。ここから碓氷峠を越えられて行ったのだ、どんなお気持ちであっただろうか。

明治に入ると、もちろん参勤交代もなくなるし、軽井沢は宿場町としての存在価値が低くなり、急速にさびれるが、避暑地としての軽井沢に復興させたのが、明治時代(19年頃)の英国人のショー宣教師であった。ショー礼拝堂が、芭蕉碑の前にあるが、当時ここにあった、宿場町の旅籠屋を別荘にしたのが始まりだそうだ。旅人が旅籠屋と間違えて、たびたび訪ねて来るので別の場所に移築したそうだ。昭和61年に軽井沢100年祭にこの教会の裏にショーハウスとして再建した。この教会は大正11年につくられている。
礼拝堂

ショーハウス

ここから、すぐの処に、有名人が訪れる名旅館”つる屋”があるが、江戸時代は茶屋で、二八蕎麦、煮しめ、強飯などを旅人用に提供していたということだ。大分”出世”したというところだろうか(笑)。

数分歩くと、むかし脇本陣”江戸屋”だったのだろうか。今はカフェーになっている。

一方、旅籠屋”白木屋”の子孫の方は、現在、写真屋さんになっている。


宿場町の通りの2/3ほど進んだところに郵便局があり、ここに、脇本陣”亀屋”があり、その子孫の方、佐藤萬平が少し離れた閑静なところに万平ホテルを創業した。ジョンレノン、オノヨーコご夫妻と子供もここに宿泊した。恐れ多くも(笑)、ぼくらも、今回ここに泊らせていただいた。

さて、本陣跡は?、と探したが、みつからなかった。たぶん、宿場町のほぼ中央にある、現在の軽井沢観光会館のあたりにあったのではないかと想像している。

それとも、この”どんぐり共和国”の辺りかな。福島原発から疎開してきたかも(笑)。となりのととろ。♪トトロ トトロ トトロ トトロ♪トロトロトロトロあるきつかれたわい。その晩、生ビールがうまかったこと

