気ままに

大船での気ままな生活日誌

大相撲初場所予想の結果は?

2011-01-24 17:43:43 | Weblog

恒例の大相撲初場所予想の結果を報告します。結論を言いますと、10勝8敗、からくも勝ち越しという、前場所の好成績に比べると、なんとも情けない結果となってしまいました。

でも、白鵬の優勝ラインを13勝まで落とし、稀勢ががんばり13勝で同点決戦という予想に、少しでも近づいたことは事実です。大関陣が白鵬から白星をひとつふたつもぎ取っていれば、どんな展開になっていたかわかりませんでした。本当に大関陣はだらしなかったです。とくに把瑠都、日馬富士 のふがいない成績は、ぼくの予想勝敗にも、足を引っ張りました。

稀勢が、先場所に引き続き、白鵬を破ったのは大きな功績でした。白鵬キラーのニックネームをもらい、そして二桁勝利して、大関昇進の足場を固めました。琴奨菊 はぼくの予想に反して、11勝の好成績を上げましたが、来場所は栃煌山のよに負け越しでしょう。(琴奨菊フアンの気持ち) その代わり、前頭上位の豊真将と豪栄道が二桁勝利して、稀勢のあとをつけるようになるでしょう。白鵬はこの三力士に負け、7連覇は夢とちります。稀勢が全勝優勝、異例の大関昇進会議が開かれるようになるでしょう。あれ、もう来場所の予想になってしまった。はやく来い来い、大阪場所。

。。。。。。

初場所予想(左)と結果(右)1勝違いまでを、おいらの〇とする。

稀勢の里 13勝2敗/10勝5敗● ;白鵬 13勝2敗/14勝1敗〇;把瑠都 11勝4敗/9勝6敗●;日馬富士 10勝5敗/8勝7敗●;豊ノ島 10勝5敗/8勝7敗●;豪栄道10勝5敗/11勝4敗〇;琴欧洲 9勝6敗/10勝5敗〇; 魁皇 8勝7敗/9勝6敗〇;琴奨菊 7勝8敗/11勝4敗●;栃煌山 7勝8敗/6勝9敗〇;鶴竜 7勝8敗/8勝7敗〇;豊真将 7勝8敗/8勝7敗〇;栃ノ心6勝9敗/4勝11敗●;安美錦 6勝9敗/6勝9敗〇;嘉風5勝10敗/4勝11敗〇;阿覧4勝10敗/5勝10敗〇;玉鷲3勝12敗/5勝10敗●;徳瀬川3勝12敗/9勝6敗●

おいらの予想星取り 10勝8敗 からくも勝ち越し 

今場所最高の取り組みは、もちろんこれでした。

 

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太宰治文学サロン

2011-01-24 10:28:49 | Weblog

太宰治は昭和14年から亡くなる昭和24年までの10年間三鷹に住んでいた。太宰治文学サロンを訪ねたとき、ここが住居地だったのですかと、ボランティアガイドさんに聞いたら、太宰は、山本有三邸の近くの貸家に住んでいたが、その地には現在、縁もゆかりもない人の所有になっているとのことだった。ここは、太宰がよく利用していた酒屋さん(伊勢元酒店)の跡地だそうである。3年ほど前に開設したとのことだ。

三鷹時代、太宰は”走れメロス”、”人間失格”など多くの名作を生みだしていた。ぼくはほとんど太宰の本を読んだことはないが、”走れメロス”だけは教科書にも出ていたし、よく覚えている。 ”勇者は、ひどく赤面した”最後のフレーズは印象に残っている。ぼくも、これまでの(今でもそうだが)赤面することばかかりの人生だった(汗)。それと誰もが知っている、玉川上水に身を投げた心中事件。

ここでは、太宰の作品の数々、履歴に関する資料、遺品等が展示されている。三鷹時代の家族の写真がある。ふたりの娘さんと太宰の明るい笑顔。下の娘さんは、何年か前の朝ドラ、宮崎あおい主演”純情きらり”の原作者、津島佑子さんだ。太宰が愛用した火鉢も展示されている。これに腕をおき、煙草を吸っている姿の写真をどこかでみた覚えがある。

玉川上水の入水した場所を教えてもらった。青森県の名石、玉鹿石が置いてあるが、何も、説明文がないので、知る人ぞ知る石らしい。遺族の方の気持ちを考えてのことだろう。帰りに寄ってみた。むらさき橋の近くに、それは在った。どなたかが供えた赤い実の小枝が悲しげだった。

 

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山本有三記念館を訪ねて

2011-01-24 10:22:57 | Weblog

半世紀ぶりの訪問だった。ぼくは小学生のころ三鷹に住んでいたが、よくここ”山本有三図書館”を自転車に乗って訪ねたものだった。井の頭公園に近く、素敵な洋館で本を読める、ぼくらの少年時代では夢のような時間だった。その後、ぼくは、父の会社の関係で川崎に引っ越し、それ以来、一度も訪れたことがなかったのだ。一昨日、ミニクラス会の前に懐かしくなり訪問したのだった。

えっ、こんなりっぱな洋館だったのかと、まず驚いた。暖炉の煙突とその下の石組が、豪快に前面に押し出され、また屋根の形も大胆なラインで形どられている。それでいて、全体として整った感じである。裏に1000坪ほどの、竹林と池を含む、雑木林風の庭があるが、そちら側から観る建物は、表側とはがらりと変わって、左右対称の落ち着いた外観となっている。

受付で、図書室はありますか、と聞くと、それは平成になってから閉鎖し、現在は記念館として、旧山本有三邸として、室内および有三関連の資料の展示のみの機能になっているとのことだった。ボランティアガイドさんの案内で部屋中を観て回った。はじめて知ったことが多かった。山本有三というと、路傍の石、真実一路、波、等の作品しか知らなかったが、作家としてのスタートは劇作家であったこと、子供たちの国語教育に熱心だったこと、新聞小説では挿絵が重要であると認識し、自分の小説には好みの挿絵家と組んでいたことなど、新たに知った。

建物の内部も、素晴らしかった。暖炉やシャンデリア、ステンドグラス、階段、柱等の意匠が心地良かった。この煉瓦は帝国ホテルのと同じものです、とガイドさんが得意げに語る。サンルームまである。洋館ながら、書斎は数寄屋造りの和室。ここで、多くの作品が生まれた。たぶん、ここが図書室だったと思います、とガイドさん。小学生が、ここで本を読んでいたんだ、えへん。

戦後、建物は米軍に接収され、その後、返還されたが、内部が米人好みのペンキで塗られていた。山本有三は厭気がさして、それ以降、ここには住まなかったそうだ。以後、国語研究所の別館になり、そして、ぼくが通った”有三青少年文庫”となった。三鷹市立図書館の充実に伴い、図書はそちらに移り、現在のような”記念館”になったということだ。

在りし日のぼくを思い起こさせてくれた、楽しい山本有三記念館見学だった。

。。。。。

表から

庭から

室内と庭

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