おはようございます。
図書館でたまたま手にとったメタセコイアの本(斎藤清明著)。読み始めたら面白くて、最後まで一気に(じゃないけれど)読んでしまった。メタセコイアはぼくの大好きな木。新宿御苑、外交官の家、平塚総合公園、小石川植物園、井之頭公園、と次々とすばらしいもみじ並木が目に浮かんでくる。化石植物だということは知っていたが、これが現生種として存在していた、その発見のくわしい経緯は知らなかった。
メタセコイア物語の主人公は植物学者三木茂博士(1901-74)。香川と徳島の県境に生まれ、地元の農林学校を出て、盛岡高等農林(現岩手大)を経て、石川県の農林学校の教師として就職。その間、づっと日本の植物相(フローラ)に興味をもっていて、さらに基礎植物学を勉強したくなり、京大理学部植物学科専科に入学したという経歴。盛岡では宮沢賢治が三年上で、京都では今西錦司が一年下という関係だったようだ。
植物遺体(化石)を探していた三木は、和歌山の200万年前の地層からセコイアに似た球菓の化石を発見する。そして700万年前の土岐口(岐阜)の陶土層から葉小枝(短枝)も見つかり、1944年に新属のメタセコイアと発表した。もちろん、このときは、すでに100万年前に絶滅した化石植物としてである。
ところが、奇跡が起こった。それと同じメタセコイアが中国の四川省の奥地(現在は湖北省に編入)の長江の支流域に当地では水杉と呼ばれ生存していたのである。この地に住む少数民族がこの木を棺桶の材料に使うため大事にしていたことも残った要因の一つとされている。北京の学者がこれを調査し、間違いなく、三木の発表した化石植物、メタセコイアであると同定し、1948年に新種登録した。
米国のカリフォルニア大学もこの発見に驚き、研究協力し、”化石が現代に蘇った”と大々的に発表した。そして、現地から種を取り寄せ、1949年、各国の大学や植物園へ配布された。そのとき、小石川植物園にも送られ、正門前の大きく育ったメタセコイアがそれだそうだ。奥のメタセコイアの林はその原木から挿し木で育てた二代目のとのこと。ぼくも昨年12月に見てきたばかり。
百万年振りに芽生えた日本一号のメタセコイア(小石川植物園)
挿し木で育ったメタセコイアの林
皇居にも初代のメタセコイアがあり、吹上御苑の生物学御研究所前に育っている。昭和天皇は戦後、すぐに植えられたこの木を愛していたようだ。日本の復興とともにすくすく育つメタセコイア(和名、あけぼのすぎ)を、昭和62年(1987)の歌会始(木がお題)で詠まれたようだ。
わが国のたちなほり来し年年にあけぼのすぎの木はのびにけり
その後、木原均博士がメタセコイア保存会会長となり、日本各地へ苗木を送付した。京大では湯川記念館の横で大きくなっているそうだ。時がたち、現在では公園樹や街路樹としてよく見かけるようになった。もう、たとえ、現代化が進む中国で消滅したとしても、日本でイチョウのように生き続けることであろう。
1988年、著者の斎藤氏らは現地のメタセコイアと初めて対面した。そのとき、すでに三木茂博士は亡くなられていたが、三木夫人が博士の遺影をしっかり胸に抱いていたそうである。
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!