もう会期は終了しているが、メモ帳をみながら、思い出してみよう。8月23日に行った、ブンカムラ・ミュージアムの”エリック・サテイとその時代展”。音楽家を主役にするという随分と珍しい展覧会だった。会場内にはサティの音楽が、静かに流れていたっけ。
20世紀への転換期に活躍した、フランスの作曲家エリック・サティ(1866-1925)。”音楽界の異端児”と言われたが、彼の作曲技法は、その後の印象主義の音楽家たちに大きな影響を与えたという。一方、モンマルトルで、画家、写真家との交流もあり、互いに影響しあった。写真家マン・レイによって”眼を持った唯一の音楽家”と評されたように、同時代の芸術家たちに高く評価され、没後も彼の芸術は受容されていった。こんな彼の人生史を、交流をもった画家たちの作品と共に紹介していく、そんな展覧会だった。
キャバレーから前衛へ/異端の作曲家サティ(東急本店のショーウィンドーから)
サティは、眼を持った唯一の音楽家(ポスターの一部)
第一章モンマルトルでの第一歩
ノルマンディ地方の港町生まれ、長じて、パリ音楽院に入るが、身が入らず、1886年に軍隊へ志願。そこにも飽きたらず、除隊。その後は、パリのモンマルトルへ。そして、当時の芸術家たちがたむろしていた、キャバレー、”シャ・ノワール”に入りびたり。ここで上演される影絵芝居の伴奏者にもなった。
本章では、”シャ・ノワール”を中心に、世紀末モンマルトルのキャバレー文化が紹介される。見慣れたロートレックの”ムーランルージュ”や”ディヴァン・ジャポネ”などのポスターが迎えてくれる。ジューリ・グリュンのポスターも。そして、シャ・ノワールの黒猫のポスター、フランス国立図書館蔵のサティの楽譜、影絵劇のための手稿譜、ユトリロのサティの肖像画などが並ぶ。
ジューリ・グリュン ”外国人のためのモンマルトル案内”
第二章 秘教的なサティ
モンマルトルでサティは秘教主義の思想家、ジョゼファン・ペラダンと知り合う。そして、彼女が主宰する薔薇十字会の聖歌隊長に任命される。1892年には第1回薔薇十字展を開催され、絵画展のほか、サティの音楽も演奏された。しかし、ほどなく、ペラダンと袂を分かち、自分だけが信者の”メトロポリタン芸術教会”を設立した。この頃、画家のシュザンヌ・ヴァラドン(ロートレックやルノワールなどのモデルも務めた、ユトリロの母)とつきあったが、間もなく破局。本章では、薔薇十字会のポスターや資料等が展示されている。
第三章 アルクイユにて
1898年、サティはパリ郊外のアルクイユへと居を移す。そこで、音楽教室を開いたりしていたが、高級モード雑誌の”ガゼット・デュ・ボン・トン”からシャルル・マルタンによる挿絵入りの楽譜集を出版する話が舞い込む。展示室には、その楽譜集”スポーツと気晴らし”が並ぶ。ピアノのための21の短い曲で、楽譜には皮肉を含んだ言葉も。
スポーツと気晴らし(サティ作曲、マルタン挿絵)
第四章 モンパルナスのモダニズムのなかで
コクトーが脚本、ピカソが衣装と舞台装飾、そしてサティが音楽を担当した、1917年のバレエ・リュスの公演”パラード”は、大きな反響を呼んだ。これでサティの評価は一段と高まった。さらに、1924年にはスウェーデン・バレエの公演”本日休演”を手がける。これを通じて、サティはコンスタンティン・ブランクーシ、ジョルジュ・ブラック、マン・レイなど多くの芸術家と交流する。本章では、舞台作品に関する貴重な下絵やデッサンなど、交流した芸術家たちの作品も紹介される。
ピカソ バラードの舞台衣装”中国の奇術師”
そして、最終章、第五章サティの受容へと。
サティが没した後も、彼の作品は幅広く評価され、後代の人にその精神が受容されていった。没後発見されたサティの楽譜《ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン》がマリオネットによるオペラとして上演される。ここでは、アンドレ・ドランによる舞台美術と衣装のデザインやマン・レイの”エリック・サティの眼”や”エリック・サティの梨”などが展示されている。
なかなか面白い展覧会だった。
東急本店では”寺山修司劇場展”が行われていた。
著作
ポスター
舞台衣装のデザイン
寺山修司は、青森県生まれで、47歳で没。短い人生だったが、多彩な活動で、人の10倍、100倍は生きた人だった。
渋谷駅前のスクランブル交差点の賑わい。ここが外国人の人気写真スポットになっているというので、撮ってみた。こんな大勢の人が四方から、よくぶつからずに渡ると、驚くのだそうだ。ついでながら、日本最初のスクランブル交差点は、昭和43年の熊本市の子飼交差点だそうだ。家内もむかし使っていた。えへん、えへん。