どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

また写真が出てきたぞ

2015年10月16日 | 日記
昨夜からの雨がしとしとと降り続く日 今日は細かい物の片付けをする

救急箱や棚の上の引き出し 鏡台の中 そういったところのものを 捨てるのか使えるのか 燃えるごみなのか燃えないごみなのか 液体のものは中身を捨てたりと 細かいだけにめんどうな場所でもある

ひととおりやって部屋を見回すと 随分と物が消えたことに気が付く

それでも まだまだである


比較的後年の写真はその大半が孫記録だったので おそらくは両親が その当時に焼き増ししてすでに姉のところにも送っているはずだけれど 私は数枚だけ貰って姉のところに送ってしまおうと考えた

写真の中の親を見るといつも この頃の親が何歳だったのかと頭の中で計算し 当時の自分の年齢だったり 同年齢の頃の自分を思い出してみたりする

親の若い頃の写真を見た時とは違い ついこのあいだと思われる出来事を写した写真の中に 今の私に近い あるいは間もなく私にも訪れるであろう年齢の写真を見ると 一瞬 時の渦に巻き込まれてぐるぐると回るような感覚に陥る

一緒に写る私も若いのだが なぜかそれにはあまり目がいかず 若かったなぁという感情も湧かずに ただただ親の顔ばかり見てはあの日この日が確かに存在したことを確認するのではあるけれど それが遠い昔のことだったのか ほんの少し前のことだったのか 何もかもが混沌としていて ただ一つの時間の中にあの日もこの日もいっしょくたに在るような気持ちになってしまう 

生き写しというほど似た容貌を持つ親子でもないのに ふと姉や私の一部分をそこに見つけてはびっくりすることもある


整理を始めるようになってから 私は出来る限り「思い出箱」の中に多くを入れないようにしようと決めていた

いつかはゴミとして消える日が来ると決まっているのだから それならば出来る限り自分の手で始末したいと思うし またこれからの生活で思い出に浸る時間もそれほどは無いだろうとも思うし またそのように時間を送りたいとも考えている

私がひとりでこの「思い出箱」をじっくり見ようと思う時が来るとしたら それはそれで何か怖い気もするのだ

それでも私は これをまだ捨てられない物のほうに分別した

私にとって写真は 懐かしくて 楽しくて 少し切なく 罪作りで 残酷でもあり そして時には最高に美しい物語を語ってくれるものでもあるのだ
 
コメント (2)
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