上野千鶴子さんの講演会に向けて、準備を進めている。
本番に先がけて、課題を整理しようと、プレ企画で
「さまざまなマイノリティが生きやすい市民社会をどのようにつくるのか」
を主題に「KJ法」という手法でデータ処理しているところである。
ところが、このテーマが手ごわくて、
考えれば考えるほど深みにはまっていくといおうか、
そもそもかんたんに答えが出せるとは思わなかったんだけど、
「KJ法」も、初日の6時間では終わらずに積み残し、
13日に4時間かけてメタメタカードを書いたところで時間切れ、
続きは、16日にエンドレスで一気に最後まで、ということになっている。
とりあえず、たくさんのカードを前に呆然としていた状態は抜けて、
先は見えてきたのだけれど、「市民社会をどのようにつくるのか」という
問いとこたえを展望するというところまでは至っていない。
ここ数日、頭のなかは「メタカード(表札)」でいっぱいなんだけど(笑)、
そのなかで出てきた介護現場のメタカード「善意じゃ飯は食えない!」と、
「過疎の農村(限界集落)に所得保障を」というのに、
ぴったしの新聞記事を見つけた。
考える素材、問題提起として、紹介したい。
4年前に合併した山県市にいると他人事ではなく、すでに目の前のこと。
旧美山町には限界集落どころか、川筋を登ると廃屋がいたるところにある。
春には主のいない庭木に花が咲きみだれ、切なくなるほどの美しさだ。
旧伊自良村は「過疎債」があったのだけど、2町1村が合併して、
人口3万の「山県市」になってそれも廃止された。
合併前は、それなりに財政運営していた旧高富町だけでは持ちこたえられず、
わがまちは「財政再建団体に転落」は数年後と言われている。
期待していた「合併債」は、取らぬ狸のなんとか、で早々に打ち切られ、
「合併推進」の国策は、地方切捨ての確信的詐欺行為ではないかと思えるほどだ。
都市にちかい山県市でもこのとおりなんだから、
山間部では「限界自治体」が出てくるのは時間の問題だろう。
限界集落(限界自治体)
限界集落(古市)の実情
社説:限界集落再生 縦割りを廃し住民本位に 65歳以上の高齢者人口が半数以上を占め、コミュニティー機能が十分に働かない限界集落は年々増加傾向にある。少子高齢社会の急速な進展と労働人口の都市部偏在が過疎化現象の主な要因だ。そこで、限界集落を抱える市町村は「全国水源の里連絡協議会」(仮称)を30日に設立する。限界集落の再生策を情報交換し、生活基盤の整備に向けて国に対しても財政支援を一致して働きかける方針だ。 国土交通省の調査では06年4月時点で、高齢者割合が50%を超える集落は全国で7878カ所と、前回(99年度)に比べ、ほぼ倍増となっている。地域的には比較的雪が少ない中国、九州、四国地方に偏っている。07年にまとめられた住民の意識調査では、限界集落の4%強は「10年以内」か「いずれ」消滅すると答えている。 京都府綾部市で10月に開かれた「全国水源の里シンポジウム」が、連絡協議会設立の一大契機になった。全国の51市町村と29道府県の首長や職員が参加し、再生への取り組みを協議。大会アピールに連絡協議会を設けることを盛り込み、国民運動に発展させる方針を確認した。 綾部市では市内の五つの限界集落を「水源の里」と命名し、「水源の里条例」を制定した。「条例」では空き家活用を含めた住宅の整備を進め、定住促進を図る。さらには、特産物の開発や新規就農者を支援し、地域産業の開発、育成を目指している。 さらに、「水源の里」を守る上で貴重な地場産業になっている山菜などの野生植物の採取は特定の人々に制限し、違反者には中止命令を出せるようにしている。 綾部市睦寄町古屋は「水源の里」の一つで、「とちもち」の原料であるトチの実を産出している。近隣の限界集落で加工し、特産品として売り出す方針だ。トチの実はアクが強く、アク抜き技術にはノウハウが必要だ。「こうしたことで住民は誇りを持てる」と、四方八洲男市長は強調する。 過疎地では、耕作放棄地が増大し、森林の荒廃も進んでいる。その結果、上流の保水力は減退し、鉄砲水や土石流が発生しやすくなり、下流の水害を誘発している。逆に降雨量が少ないと渇水が起きやすくなっている。 国土や環境の保全のためにも限界集落の自立策作りが急務だ。四方市長は「上流は下流を思い、下流は上流に感謝する」精神を力説する。下流の住民も環境基金の設立や水源税などの形で上流に協力する覚悟が求められよう。 旧来の過疎対策が十分な成果を上げられない要因の一つは縦割り行政にある。過疎地域自立促進特措法は総務省が担当しているが、中山間地域の農業振興は農林水産省、治山、治水は国土交通省がそれぞれ分担している。 英国の過疎地を走る「ポストバス」は、郵便物の集配だけでなく、乗客の輸送、住民の買い出し代行などまでこなしている。縦割り行政から住民本位の行政に、いち早く転換すべきだ。 (毎日新聞 2007年11月15日) |
最底辺層が出現しているのと同じように、
日本の「周辺部」は、集落ごと自治体ごと、マイノリティである。
中山間地域の多い岐阜県で、わたしたちは10年前の県知事選で、
「中山間地に住む個人に現金給付を」という政策を打ち出した。
過疎の中山間地域で有機農業をしている仲間の提案で、
すでに高齢化した過疎地の再生はとうてい無理で、
そこに住み山や田畑を守って「生きている」ことに価値がある、と。
ひとは何のために生きるのか。
有用な価値をうみださなくては、生きている値打ちがないのか。
「生まれて病んで老いて死ぬ」人間はそもそも不合理な存在なのではないのか。
社会性がなく、無用で、役に立たない人間は見捨てられてよいのか。
「生きさせろ!」というワーキングプアの叫びは、
花が咲き乱れる「沈黙」の景色とかさなって、胸に突き刺さる。
「産むこと」「病むこと」「働くこと」「老いること」「死ぬこと」という
生のいとなみが危機に瀕しているいま、
問われているのは、
合理性と効率性と人間の生産性を追求してきた私たちの社会のあり方である。
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