みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

高齢者・介護職員の待遇&限界集落~さまざまなマイノリティが生き延びるために

2007-11-15 11:45:45 | 市民運動/市民自治/政治
12月2日の「さまざまなマイノリティが生き延びるために」の
上野千鶴子さんの講演会に向けて、準備を進めている。

本番に先がけて、課題を整理しようと、プレ企画で
「さまざまなマイノリティが生きやすい市民社会をどのようにつくるのか」
を主題に「KJ法」という手法でデータ処理しているところである。

ところが、このテーマが手ごわくて、
考えれば考えるほど深みにはまっていくといおうか、
そもそもかんたんに答えが出せるとは思わなかったんだけど、
「KJ法」も、初日の6時間では終わらずに積み残し、
13日に4時間かけてメタメタカードを書いたところで時間切れ、
続きは、16日にエンドレスで一気に最後まで、ということになっている。
とりあえず、たくさんのカードを前に呆然としていた状態は抜けて、
先は見えてきたのだけれど、「市民社会をどのようにつくるのか」という
問いとこたえを展望するというところまでは至っていない。

ここ数日、頭のなかは「メタカード(表札)」でいっぱいなんだけど(笑)、
そのなかで出てきた介護現場のメタカード「善意じゃ飯は食えない!」と、
「過疎の農村(限界集落)に所得保障を」というのに、
ぴったしの新聞記事を見つけた。

考える素材、問題提起として、紹介したい。

論点 介護職員の待遇
「給与費」明示し改善を
 
 
 高齢者の介護施設でいま、職員の離職が相次いでいる。新規就職者も減少傾向で、現場の苦悩は深まるばかりだ。しかも、介護福祉士らの養成機関(短大や専門学校)では、ここ2~3年、応募者の急減で募集定員に満たない現象が続出し、全国では約7割の学校が定員割れの状態にある。
 たとえば、福岡県の国士舘大学福祉専門学校は、入学希望者の減少のために2006年度の募集を停止、今年度になって閉校に追い込まれた。同じ福岡県内の聖マリア医療福祉専門学校でも、介護福祉コースの定員を100人から50人に減らしたが、新入生は17人にとどまり、来年度以降の募集停止を決めた。
 介護保険がスタートしたのは2000年だった。そのころまでは、若者にとって介護・福祉の仕事は、やりがいのある魅力ある就職の場に映っていた。だが、その後、介護の現場とは重労働の「3K職場」で、給料も待遇も仕事に見合っていないとされ、人気が急降下した。介護施設ですでに働いている人人々の間でも、年度末になると、少しでも待遇のよい仕事や事業所を求めて転職する"渡り鳥現象"が起きている。
 介護職員の給与水準は見直す必要がある。在宅サービスのヘルパーの場合、実際に介護労働についた時間だけが対象で、自給は800円弱程度。施設の介護福祉士でも、私の大学・短大の卒業生によれば、「平均給与は手当て込みで月17~18万円」とうたわれていても、実際は月数回の夜勤をこなして手取りは12~13万円程度の所が少なくない。食費や家賃などを引けば残りわずかで、自立した生活もできず将来の人生設計も描けない。
 介護保険が施行される前、介護費用が「措置費」として税金で賄われていた時代には、介護職らの給与は「公務員に準ずる」とされ、措置費の中にその水準の人件が織り込まれていた。介護保険制度では、保険料の決定から介護認定までは行政間責任で行われるが、そこから先は事業者と利用者との民間同士の契約で定めることとなった。このため、サービスを供給する人は、限られた介護報酬の中でやりくりしようとして、人件費を圧縮しがちになった。
 しかし、介護保険財源は半分は税金、残りの半分は介護保険料であって、いずれも公費である。したがって、介護を担う職員の給料のような重要なことは民間同士に任せるのではなく、介護報酬の中に「職員給与費」を明示し、法人の施設建設費の借入金返済などへ流用されないようにすべきではないか。そうした措置を厚生労働省や都道府県が各事業者にしっかり指導することが是非とも必要である。
 介護職員の給料を適正化するためには、根本的には現場の実態を十分に分析して介護報酬を引き上げることが望ましい。
 ただし、今後は団塊世代の高齢化が進み75歳以上人口も増え、約22万人にのぼる社会的入院の患者を医療部門から介護部門に移す必要が出てくる。そう考えると、介護の総費用はさらに膨らみ、結果として、市町村の介護保険料のさらなる引き上げとなっていくただろう。
 その場合、人口が少なく高齢化率の高い地方の小さな自治体ほど、これ以上の保険料引き上げに耐えられるかという問題になる。消費税率の引き上げなど財源問題の再検討とあわせ、介護保険の財政運営の単位が今の市町村のままでいいのか、根本的な検討が急がれよう。

坂田期雄(さかた・ときお) 西九州大学客員教授 
東洋大学名誉教授、地方自治経営学会理事。専門は行政学、社会福祉。78歳。
(2007.11.14 読売新聞)


「人口が少なく高齢化率の高い地方の小さな自治体」の問題は、
4年前に合併した山県市にいると他人事ではなく、すでに目の前のこと。

旧美山町には限界集落どころか、川筋を登ると廃屋がいたるところにある。
春には主のいない庭木に花が咲きみだれ、切なくなるほどの美しさだ。
旧伊自良村は「過疎債」があったのだけど、2町1村が合併して、
人口3万の「山県市」になってそれも廃止された。
合併前は、それなりに財政運営していた旧高富町だけでは持ちこたえられず、
わがまちは「財政再建団体に転落」は数年後と言われている。
期待していた「合併債」は、取らぬ狸のなんとか、で早々に打ち切られ、
「合併推進」の国策は、地方切捨ての確信的詐欺行為ではないかと思えるほどだ。

都市にちかい山県市でもこのとおりなんだから、
山間部では「限界自治体」が出てくるのは時間の問題だろう。

限界集落(限界自治体) 

限界集落(古市)の実情 

社説:限界集落再生 縦割りを廃し住民本位に

 65歳以上の高齢者人口が半数以上を占め、コミュニティー機能が十分に働かない限界集落は年々増加傾向にある。少子高齢社会の急速な進展と労働人口の都市部偏在が過疎化現象の主な要因だ。そこで、限界集落を抱える市町村は「全国水源の里連絡協議会」(仮称)を30日に設立する。限界集落の再生策を情報交換し、生活基盤の整備に向けて国に対しても財政支援を一致して働きかける方針だ。
 国土交通省の調査では06年4月時点で、高齢者割合が50%を超える集落は全国で7878カ所と、前回(99年度)に比べ、ほぼ倍増となっている。地域的には比較的雪が少ない中国、九州、四国地方に偏っている。07年にまとめられた住民の意識調査では、限界集落の4%強は「10年以内」か「いずれ」消滅すると答えている。
 京都府綾部市で10月に開かれた「全国水源の里シンポジウム」が、連絡協議会設立の一大契機になった。全国の51市町村と29道府県の首長や職員が参加し、再生への取り組みを協議。大会アピールに連絡協議会を設けることを盛り込み、国民運動に発展させる方針を確認した。
 綾部市では市内の五つの限界集落を「水源の里」と命名し、「水源の里条例」を制定した。「条例」では空き家活用を含めた住宅の整備を進め、定住促進を図る。さらには、特産物の開発や新規就農者を支援し、地域産業の開発、育成を目指している。
 さらに、「水源の里」を守る上で貴重な地場産業になっている山菜などの野生植物の採取は特定の人々に制限し、違反者には中止命令を出せるようにしている。
 綾部市睦寄町古屋は「水源の里」の一つで、「とちもち」の原料であるトチの実を産出している。近隣の限界集落で加工し、特産品として売り出す方針だ。トチの実はアクが強く、アク抜き技術にはノウハウが必要だ。「こうしたことで住民は誇りを持てる」と、四方八洲男市長は強調する。
 過疎地では、耕作放棄地が増大し、森林の荒廃も進んでいる。その結果、上流の保水力は減退し、鉄砲水や土石流が発生しやすくなり、下流の水害を誘発している。逆に降雨量が少ないと渇水が起きやすくなっている。
 国土や環境の保全のためにも限界集落の自立策作りが急務だ。四方市長は「上流は下流を思い、下流は上流に感謝する」精神を力説する。下流の住民も環境基金の設立や水源税などの形で上流に協力する覚悟が求められよう。
 旧来の過疎対策が十分な成果を上げられない要因の一つは縦割り行政にある。過疎地域自立促進特措法は総務省が担当しているが、中山間地域の農業振興は農林水産省、治山、治水は国土交通省がそれぞれ分担している。
 英国の過疎地を走る「ポストバス」は、郵便物の集配だけでなく、乗客の輸送、住民の買い出し代行などまでこなしている。縦割り行政から住民本位の行政に、いち早く転換すべきだ。
(毎日新聞 2007年11月15日)


人口集中し繁栄する都市に、「生きる(食べる)」ことすら困難な
最底辺層が出現しているのと同じように、
日本の「周辺部」は、集落ごと自治体ごと、マイノリティである。

中山間地域の多い岐阜県で、わたしたちは10年前の県知事選で、
「中山間地に住む個人に現金給付を」という政策を打ち出した。

過疎の中山間地域で有機農業をしている仲間の提案で、
すでに高齢化した過疎地の再生はとうてい無理で、
そこに住み山や田畑を守って「生きている」ことに価値がある、と。

ひとは何のために生きるのか。
有用な価値をうみださなくては、生きている値打ちがないのか。

「生まれて病んで老いて死ぬ」人間はそもそも不合理な存在なのではないのか。

社会性がなく、無用で、役に立たない人間は見捨てられてよいのか。

「生きさせろ!」というワーキングプアの叫びは、
花が咲き乱れる「沈黙」の景色とかさなって、胸に突き刺さる。

「産むこと」「病むこと」「働くこと」「老いること」「死ぬこと」という
生のいとなみが危機に瀕しているいま、
問われているのは、
合理性と効率性と人間の生産性を追求してきた私たちの社会のあり方である。


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