みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

NHK:黒い雨~活かされなかった被爆者調査/「原爆の日」新聞各社の社説。

2012-08-06 21:35:06 | 地震・原発・災害
広島に原子爆弾が投下された日から67年目のきょう、
8時からの「NHKスペシャル」で「黒い雨~活(い)かされなかった被爆者調査~」が放映された。
昨年末に公開された調査データをもとに作られた番組ということだ。

67年も間、隠されてきた事実。
番組では、広島の被爆調査の隠ぺいは、核を推進したい人たちによって、
都合の悪い事実が隠されてきたということが明らかになった。
それが明らかになるのに、67年もかかったなんて・・・。

  NHKスペシャル:黒い雨~活(い)かされなかった被爆者調査~ 

2012年8月6日(月)
午後8時00分~8時49分総合


去年の暮れ、長崎の医師の問い合わせをきっかけに、被爆に関する「あるデータ」が突然公表された。原爆投下直後に降った放射性物質を含む雨「黒い雨」に、1万3千人もの人があったことを示す分布地図だ。どこでどれくらいの人が黒い雨にあったか、これまで「公式データ」はないとされてきただけに、広島・長崎は衝撃を受けた。データは、放射線の人体への影響を科学的に明らかにするためにアメリカの研究機関ABCCが集め、研究を引き継いだ放射線影響研究所(放影研)が保管していたものだった。多くの被爆者の協力のもと集められた“命の記録”。しかし今に至るまで、このデータを使って黒い雨の影響が研究されることはなかったという。なぜデータは、被爆から67年たつまで、その存在さえ明らかにされなかったのか。調査に協力した被爆者たちは、どんな思いを抱いてきたのか。被爆者追跡調査の歴史を丹念に追いながら、その実像に迫っていく。


福島原発事故から1年半。
爆発直後の東電内のテレビ会議の映像は小出しにされたが、音声のないものも多いという。
隠されていることは、もっと多いだろう。

「情報公開」ということがぜんぜんわかっていないと東電と日本政府。
「都合の悪いことはみせない」という隠蔽体質は、67年たっても何も変わっていない。

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今日の社説は、ヒロシマとフクシマを関連づけたものが多い。

 社説:核廃絶と脱原発―破滅リスクのない世界へ
2012年8月6日(月)付 朝日新聞

 広島はきょう、長崎は9日に、被爆から67年を迎える。
 核時代に入った第2次大戦の後、世界戦争は起きていない。それは核抑止の戦略が有効だったから、との意見が根強い。
 だが実は、世界は何度も、核戦争へ転がり落ちそうになったことがある。
 そのひとつが、1983年に起きた。旧ソ連軍の早期警戒システムは、米国が5発の核ミサイルを発射したとの情報を探知した。
 担当官は、米国の先制攻撃なら何百発も飛ばすはずで、誤報の可能性が高いと思った。悩んだすえ、自分の判断を信じ、情報を上部に報告しなかった。後にやはり誤報とわかった。
 米ソが緊張関係にあった冷戦時代だけに、彼の機転がなければ、旧ソ連は核発射ボタンに手をかけたかも知れない。
 放射能禍をもたらした福島での原発事故の背後には、本当に深刻な事態を「想定外」とする慢心があった。核兵器も同じで、そのリスクの軽視は、破滅につながりかねない。
 だからこそ、原爆と原発事故を体験した日本には、歴史的使命がある。核エネルギーによる両方の惨事を知る身として、そのリスクを世界からなくしていく役目である。

■抑止にも「安全神話」
 核兵器がある方が世界を安全に保てる。そんな核抑止の「安全神話」に潜む落とし穴を直視したい。
 判断ミスによるリスクに限らない。核拡散が進むいま、地域紛争で使われる恐れもある。
 核武装したインドとパキスタンは、領土やテロ問題などで対立している。パキスタンは政情も安定しない。
 中東では、イスラエルが事実上の核武装国である。敵対するイランが核を持った場合、地域紛争で使われるリスクは南アジアを上回る事態も予想される。
 北東アジアでは北朝鮮が核実験をしている。独裁体制の崩壊などの有事に、自暴自棄や、軍の暴走などで核使用に動く心配は消えない。
 こうしたなか、被爆地からの言葉が、核抑止のプロたちにも、響き始めている。
 核の恐怖をなくす唯一の方法は核をなくすことだ、というメッセージである。
 世界各地の政府や軍の元幹部らによる国際NGO「グローバルゼロ」は、2030年までの核廃絶を提唱する。それを具体化するために、米国の元核戦力部隊指揮官らが、米ロは10年以内に核兵器を8割減らすべきだと提言をまとめた。
 核は、安全保障上の利益より危害の方が大きいからだ。

■隠せぬNPTの限界
 原発利用を核拡散から切り離せるという「安全神話」も、極めて疑わしくなっている。
 世界は、核不拡散条約(NPT)を足場に、核保有国を増やさない政策を重ねてきた。
 核保有国に軍縮義務を課す一方、その他の国には保有を禁じる。非核を堅持すれば、原発など原子力利用で協力を受けられる。これが、約束の基本だ。
 確かにNPTは核拡散の防止で重要な役割を果たしてきた。だが肝心の核軍縮は期待ほどに進んでいない。保有国が核抑止にこだわり続けるなか、同様の力を持とうとする国が相次ぐ。
 NPTのもとで原子力を利用する権利が強調され、これがまた拡散リスクを高めている。核燃料のためのウラン濃縮、プルトニウム抽出施設は軍事目的に転用できるからだ。
 典型例がイランだ。NPT加盟国であることを盾にして、核武装につながりかねないウラン濃縮を進めている。
 核軍縮は進まず、核拡散もなかなか止められない。NPTの限界が見えるなか、原子力利用国を増やすことが得策なのか。悪くすると、NPTが原子力利用を正当化するだけの条約になりはしないか。

■新しい平和と繁栄
 脱原発をグローバルな潮流にする試みが、核不拡散、核廃絶の双方にプラスとなる。そこにもっと着目すべきだ。
 いまこそ、発想を変えるべきときである。
 核兵器を持たず、しかも脱原発を選ぶ国を、再生可能エネルギーや効率的な天然ガス利用などで国際的に支援する。
 非核でいることのメリットを、原発ではない電源による国づくりへと切り替えていく。それを通じて、核廃絶と地球温暖化防止の一挙両得をねらうのである。
 非核国の原子力利用を制限する以上、核保有国は軍縮を加速する責任が一層、強まる。原発を多く使う国は、原発依存からの脱却を急がねばならない。
 軍事用であれ民生用であれ、核エネルギーへの依存をできるだけ早くなくすことで、リスクのない平和と繁栄の姿へと変えていく。
 そうした未来像を、核惨事を知る日本から発信してこそ、世界は耳を傾ける。  


 【社説】ヒロシマに耳澄まし 原爆忌に考える
2012年8月6日 中日新聞

 原爆忌。未来への希望をうたう平和宣言に、ことしも「脱原発」の言葉はないようです。もっとヒロシマを語ってほしい。私たちは耳を澄ましています。
 3・11。言葉は瞬時に凍り付き、閉ざされた記憶が一気に溶けだしました。過去、現在、そして未来が重なり合ったとき、そこに何が見えたのでしょう。
 広島市安佐南区、広島共立病院名誉院長の丸屋博さん(87)は、御庄博実(みしょうひろみ)の筆名を持つ詩人です。岡山医大を結核で休学中に詩作を始め、「原爆詩集」で知られる峠三吉とサークル誌を編んだこともありました。

黒い津波はすさまじく
 六十七年前のあの日、丸屋さんは、旧制広島高校から進んだばかりの医大を空襲で焼かれ、ふるさとの山口県岩国市に帰省中でした。陸軍燃料廠(しょう)で働く妹に、広島が壊滅したと聞かされ、旧友や幼なじみの安否を気遣い、丸屋さんが旧国鉄山陽線に飛び乗ったのは、原爆投下の翌日でした。
 広島までは電車で入れず、一つ手前の己斐駅(今の西広島駅)で降ろされました。建物はすっかりなぎ払われて、遠く瀬戸内海に浮かぶ似島が見渡せました。
 熱で曲がった路面電車の線路を伝い、異臭の中を一日歩き回っても、友人、知人を見つけることはかないませんでした。
 夕暮れて、駅へ戻ると、足もとからか細いうめき声が聞こえてきます。あおむけに横たわる半裸の若い男性の胸のあたりに、小さな穴が開いていました。血の混じったあぶくと一緒にハエが一匹、そこを出入りしているのが見えました。その時に目にしたすべてのものが、廃虚と化した東北のまちに重なりました。残留放射能の見えない渦をかき分けて、親しい人を捜し歩いた長い一日の記憶が、です。
 黒い潮の土煙のすさまじさに/広島の記憶が重なった/僕はテレビの画面で凍った(黒い津波)
 愛用のパソコンに向かって言葉を絞り出すまでに、数日間の葛藤がありました。
 内科医の丸屋さんは、被爆者の健康を見守り続けてきた人です。放射線の遺伝的影響に関する論文も書きました。そして、自らも被爆者として、次々に発症するがんと闘い続けています。
 「原爆も原発も同じこと。人間には制御できないもの。子どもたちの未来を奪うもの」だと痛感しています。

歩かされた長い道
 丸屋さんはことし六月、石川逸子さんと共著の詩文集「哀悼と怒り」(西田書店)を上梓(じょうし)しました。
 何に対する怒りでしょうか。丸屋さんにも分かりません。
 無慈悲な自然、暴走する科学、事故を起こした電力会社や機能不全の官僚機構、無責任な政府だけではないでしょう。目先の豊かさを追い求め、哀(かな)しい過ちを繰り返す、人間そのものへの怒りなのかもしれません。
 この道も何年か歩いてきた/いや 歩かされてきた 道/行く先には果てしなく広がる/プルサーマルという沃野(よくや)があるという/夢のエネルギー政策という呪文(青い光、詩集「原郷」より)
 原爆忌の式典で広島市長が読み上げる「平和宣言」は、昨年も格調高い名文でした。ところが、原発事故にはもう一歩、踏み込むことができません。
 つい先月まで、ことしは「脱原発」に触れると言いながら、やっぱり「安全なエネルギー政策の方針を一刻も早く確立するよう政府に求める」程度にとどめることになりそうです。平和宣言だからでしょうか。でも平和とは、戦争がないということだけではないはずです。
 広島平和記念資料館には、原発や原発事故に関する展示がありません。ボランティアガイドを務める橘光生さん(71)は「ここに答えはありません」と考えます。
 橘さんは「唯一の被爆国日本に五十基もの原発があることは、海外の目には奇異に映るでしょう」と来館者に語っています。
 しかし結局、悲しみも怒りも感動も、人それぞれのものだから。誰かに教えられるものではなく、見て、聞いて、感じて、考えて、自分で見いだすものだから。

核の怖さを知るまちに
 ならばなおさら、核の怖さを知り尽くしたヒロシマの言葉と声を、もっとたくさん聞かせてほしい。ヒロシマの怒りやナガサキの祈りにもっと近づきたい。フクシマにも届けたい。
 8・6。平和宣言に耳を澄まして、今はまだ言葉にならない何かを感じ、何かを始められるよう、ヒロシマに心を傾けます。 


 社説:原爆の日 「核との共存」問い直そう 
毎日新聞 2012年08月06日

 広島は6日、長崎は9日に「原爆の日」を迎える。昨年3月の東京電力福島第1原発事故を機に、原子力の平和利用に対する疑問が膨らみ、被爆地からもエネルギー政策の転換を求める声が高まっている。私たちは今、核とどう向き合うのか問い直されている。
 両市の平和式典で読み上げられる平和宣言は昨年に続き、原発事故を反映したものとなる。広島市は平和運動を率いた被爆者、故森滝市郎氏の「核と人類は共存できない」という言葉を引用し、安全なエネルギー政策の早急な確立を政府に要望する。長崎市も政府にエネルギー政策を明確にするよう呼びかける。
 被爆者団体や反核・平和団体でも「脱原発」の主張が勢いを増している。日本原水爆被害者団体協議会は原発に頼らないエネルギー政策を求める声明を発表した。原水爆禁止日本国民会議は福島で開いた今年の世界大会で脱原発を強調し、原発事故の被害者との連帯をアピールした。
 被爆体験を持つ日本は戦後、核兵器の非人道性を世界に訴えてきた。一方で、1955年に成立した原子力基本法で原子力の平和目的の利用を規定し、核兵器には反対しながら原発は推進するという道を歩んだ。
 しかし福島の出来事は、平和利用でも事故が起きれば長期にわたって深刻な被害をもたらす原子力の恐怖を見せつけた。首相官邸前で毎週行われている反原発デモの広がりは、そうした市民の意識を映し出している。核による被害という共通性を軸に、広島・長崎の被爆者と原発事故の被害者との間で連帯が生まれてきたのは自然なことだ。
 核軍縮を巡る状況は依然厳しい。世界には約1万9000個の核兵器があると推計される。北朝鮮やイランなど核開発を進める国もあり、脅威は弱まっていない。09年にオバマ米大統領が核のない世界を目指すと宣言したのを機に国際社会で核軍縮の機運が高まったが、経済危機の対応などに追われるうち、その熱気は消え去ってしまった。核軍縮の動きを再び前に進めるよう、各国は努力を続けていかなければならない。
 一方、広島、長崎両市が呼びかけた平和市長会議は30周年を迎え、2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟自治体は5300を超えた。市民約10億人に相当する。粘り強い訴えは確かに世界に共感を広げている。
 日本は、核兵器の恐ろしさだけでなく、原発事故の経験や被害の実相を世界に伝えていく責任を担っている。「核と人類は共存できない」という言葉の重みを今一度かみしめたい。その原点に立ち、平和利用も含めた原子力の問題を根本から議論していく必要がある。


  【広島、被爆から67年】「震災被災者と共に」 平和宣言、原発是非触れず  核兵器廃絶へ誓い 

 広島は6日、原爆投下から67年の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では、午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。
 平和宣言で 松井一実市長は、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを誓うとともに、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の被災者が前向きに生きようとする姿は67年前の広島に重なるとして「私たちの心は皆さんと共にある」と呼び掛けた。
 また原発事故を受けて、国に対し市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立することを求めた。ただ「脱原発依存」に向けた国民的議論の方向性を見守るとして、昨年に引き続き原発の是非には触れなかった。
 野田佳彦首相も参列し、あいさつで原発事故について「除染などの生活基盤の再建に全力を尽くす」と誓う一方、「脱原発依存の基本方針の下、中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立を目指す」と従来の方針を述べるにとどめた。
 また松井市長が平和宣言で「黒い雨」の降雨地域拡大への政治判断を求めたが、野田首相は具体的には言及しなかった。
 式典では、原爆投下時刻の午前8時15分に参列者約5万人が黙とう。子ども代表の小学6年 三保竜己君(11)と 遠藤真優さん(12)が「私たちは平和をつくり続けます。仲間とともに行動していくことを誓います」と誓いの言葉を読み上げた。
 式典には、原発事故で全町避難を余儀なくされている福島県浪江町の 馬場有町長が出席。71カ国と欧州連合(EU)から代表が参列し、核保有国では米国のルース駐日大使が2010年に続き2度目、英国とフランスの駐日大使は初めて出席した。原爆投下を命令した当時のトルーマン米大統領の孫クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(55)も初めて参列した。
 一方、国連の 潘基文事務総長は出席せず、メッセージが代読された。
 この1年間に亡くなったか、死亡が確認された被爆者は5729人。広島市の原爆慰霊碑に奉納された名簿の総数は28万959人になった。広島市内に住む6万6660人の平均年齢は77・6歳と高齢化が進んだ。全国では78歳を超えた。


 ▼平和宣言全文 
  松井一実広島市長が出した平和宣言の全文は以下の通り。

 1945年8月6日8時15分、私たちの故郷は、一発の原子爆弾により灰じんに帰しました。帰る家や慣れ親しんだ暮らし、大切に守ってきた文化までもが失われてしまいました。―「広島が無くなっていた。何もかも無くなっていた。道も無い。辺り一面焼け野原。悲しいことに一目で遠くまで見える。市電の線路であろう道に焼け落ちた電線を目安に歩いた。市電の道は熱かった。人々の死があちこちにあった。」―それは、当時20歳の女性が見た街であり、被爆者の誰もが目の当たりにした広島の姿です。川辺からは、賑やかな祭り、ボート遊び、魚釣りや貝掘り、手長えびを捕る子どもたちの姿も消えてしまいました。
 そして原爆は、かけがえのない人の命を簡単に破壊してしまいました。―「警防団の人と一緒にトラックで遺体の収容作業に出る。少年の私は、足首を持つように言われ、つかむが、ズルッと皮がむけて握れない。覚悟を決めて指先に力を入れると、滴が垂れた。臭い。骨が握れた。いちにのさんでトラックに積んだ。」―この当時13歳の少年の体験のように、辺り一面は、無数の屍が重なり、声にならない呻き声の中、息のない母親のお乳を吸い続ける幼児、死んだ赤子を抱き締め虚ろな顔の母親など、正に生き地獄だったのです。
 当時16歳の少女は、大切な家族を次々と亡くしました。―「7歳だった弟は、被爆直後に全身火傷で亡くなり、ひと月後には、父と母、そして13歳の弟と11歳の妹が亡くなりました。唯一生き残った当時3歳の弟も、その後、癌で亡くなりました。」―広島では、幼子からお年寄りまで、その年の暮れまでに14万人もの尊い命が失われました。
 深い闇に突き落とされたヒロシマ。被爆者は、そのヒロシマで原爆を身を以て体験し、後障害や偏見に苦しみながらも生き抜いてきました。そして、自らの体験を語り、怒りや憎しみを乗り越え、核兵器の非人道性を訴え、核兵器廃絶に尽力してきました。私たちは、その辛さ、悲しさ、苦しみと共に、その切なる願いを世界に伝えたいのです。
 広島市はこの夏、平均年齢が78歳を超えた被爆者の体験と願いを受け継ぎ、語り伝えたいという人々の思いに応え、伝承者養成事業を開始しました。被爆の実相を風化させず、国内外のより多くの人々と核兵器廃絶に向けた思いを共有していくためです。
 世界中の皆さん、とりわけ核兵器を保有する国の為政者の皆さん、被爆地で平和について考えるため、是非とも広島を訪れてください。
 平和市長会議は今年、設立30周年を迎えました。2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟都市は5300を超え、約10億人の市民を擁する会議へと成長しています。その平和市長会議の総会を来年8月に広島で開催します。核兵器禁止条約の締結、さらには核兵器廃絶の実現を願う圧倒的多数の市民の声が発信されることになります。そして、再来年の春には、我が国を始め10の非核兵器国による「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合も開催されます。核兵器廃絶の願いや決意は、必ずや、広島を起点として全世界に広がり、世界恒久平和に結実するものと信じています。
 2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曾有の大惨事が発生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。
 あの忌まわしい事故を教訓とし、我が国のエネルギー政策について、「核と人類は共存できない」という訴えのほか様々な声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。また、唯一の被爆国としてヒロシマ・ナガサキと思いを共有し、さらに、私たちの住む北東アジアに不安定な情勢が見られることをしっかり認識した上で、核兵器廃絶に向けリーダーシップを一層発揮してください。そして、原爆により今なお苦しんでいる国内外の被爆者への温かい支援策を充実させるとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断をしてください。
 私たちは、今改めて、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、この広島を拠点にして、被爆者の体験と願いを世界に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。
 平成24年(2012年)8月6日
 広島市長 松井一実
 (表記は原文のまま)
 (共同通信)



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8月5日(日)のつぶやき

2012-08-06 01:21:21 | 花/美しいもの
07:29 from Tweet Button
ミニュゥ・モアレム 竹村和子さんへの弔花 | WAN:Women's Action Network wan.or.jp/book/?p=4386

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《市民派議員塾2012》第2回、開催しました。 blog.goo.ne.jp/midorinet002/e…

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