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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

白き山

2013年01月06日 | 日記


きのう午後3時、青空のもとに雪で輝く白い瀧山の写真が撮れた。この冬のベストショットかも知れない。毎年2月にこの山に登る。稜線を左の方へ歩いて、写真の中央あたりのきつい下りがこの山で一番の難所である。斜面には掴まるブッシュも、木もない。ここでは、ロープを張って、それにつかまりながら慎重に下る。それを過ぎるとなだらかな稜線歩きである。左端の手前に西蔵王へ向かう尾根に沿って下ると、2月の雪山の雰囲気を味わう山歩きが終了する。

昭和21年2月1日、上山市金瓶に疎開していた斉藤茂吉は、鳥海山の見える大石田に居を移した。大石田の歌人板垣家子夫氏の差配によるものであった。蔵王の麓に疎開していた茂吉には、雪を被った山が珍しいものではないが、大石田から見る雪に輝く鳥海山の雄大な美しさにも目を奪われた。茂吉はここで作った歌集に「白き山」と名づけた。

ここにして蔵王の山は見えねども鳥海の山は真白くもあるか

ここにして天の遠くにふりさくる鳥海山は氷糖のごとし

尾花沢、大石田は俳聖芭蕉とのつながりの深い土地である。町のなかに最上川が流れ、歌の題材にはことかかない。この地で芭蕉を偲びながら、茂吉は歌に新しい境地を拓くことを考えていたであろう。だが疎開してひと月ほど経って、茂吉は病床の人になる。板垣家子夫が、茂吉の枕頭にきて、大石田の春の訪れを告げる毎日であった。

敗戦という日本が受けた大きな傷跡と自身の病いは茂吉の歌に深い陰影を与えることになる。歌集「白き山」には、茂吉の代表的な傑作がいくつも遺されている。

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

最上川の流のうへに浮かびゆけ行方なきわれの心の貧困

病み上がりの茂吉は、最上川の辺を散歩し、座布団のかわりに持参したさんだわらの上に坐って、いつまでも最上川の流れに見入るのであった。はるか北には、白く輝く鳥海山が聳えていた。

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