昭和20年10月、高村光太郎は岩手県花巻の郊外の小屋に移り住んだ。それは、大戦のとき書いた戦争賛美詩に対して自らの責任を認め、いわば自分を島流しの刑に処そうとしたのである。鉱山小屋を移築した粗末な掘立小屋には、冬になると雪が吹き込み、布団も顔も真白になった。
百姓仕事をして、食べるものは自分で栽培し、そして自ら調理した。野菜などはよく洗わなかったせいか、腹中に寄生した回虫が、口から出てくるというような悲惨な生活であった。そこに閉じこもって7年間、光太郎は責任の重さに自己を責め、極限の生活にじっと耐えてその小屋を動こうとしなかった。「暗愚小伝」という詩篇は、この懺悔の生活から生まれた。
雪白く積めり
雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あおくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に座す。
風なきに雪蕭々と鳴って梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峰はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを如何せん。
わずかに杉の枯枝をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
敗れたるもの卻て心平にして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり。
雪が光のかげんによって、青く光るのを見たことがある。白い筈の雪が、なぜ青いのか不思議に思った。高村光太郎の目には、その青さのなかに人の霊魂が見えた。改めて日本の戦争責任について考えたい。一握りの軍人が戦犯としてして処刑されたことで、大方の大政翼賛の体制は、戦後にも温存された。先日亡くなった大島渚の原点は、教室で昨日まで鬼畜米英と敵国をなじっていた教師が、敗戦後、欧米の民主主義こそが正義だと語った無責任な言動を見たことであったと言う。先の震災での原発事故でも明らかになったが、国の推進した政策の誤りに対して、誰も責任を取らない体制が連綿として続いている。