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山形市本沢。山形盆地の西に位置する農村地帯である。結城哀草果はここで農業を営みながら、雑誌に随筆を投稿し、歌をつくる文学青年であった。農村にあっては、そのような若者が歓迎されるものではなかった。本を読む行為すら、胸をはって読むことはできず、そっと親の目を盗んで、もの影で読むというような時代であった。
雪掃きに穿く藁沓をあたためて雪を掃かんと思ひ立ちおり 結城哀草果
雪の降った朝は雪掃きが日課であった。靴は藁で編んだものである。家から大きな通りまで誰が尋ねてきてもいいように雪を掃いておくのだ。今日のように除雪車が来るわけでない。大きな通りは馬橇で道をつけるのが、当時のやり方であった。
大正3年に哀草果は、斉藤茂吉に手紙を出し、歌の教えを乞うた。それ以来、茂吉を師と仰ぎアララギ派の歌人の道を歩むことになる。
「東に蔵王山、雁戸山、北に葉山、月山の諸峰を仰ぐ山形盆地の西、白鷹、高取の山つづきの山麓に、農蚕を業とする500戸の本沢村、そこに私が住んでいる」と『村里生活記』に書いている。今は田んぼに野菜畑、ブドウを作る農家が点在している、さほど特色のない集落である。だがかつては、歌人や児童文学、画家など多士済々の文化人を輩出した本沢、その中心に結城哀草果がいたのである。
昨日、関東を中心に降った雪は、首都圏の交通を麻痺させた。わずか数10センチの雪で、羽田から地方へ飛ぶ飛行機が軒並み運航を止めた。雪に足を取られて転倒する人々の姿を見て、藁沓を穿いた哀草果はどんな感慨を抱いたであろうか。
今日は雪降りと短く言ひて戸を閉めぬ如月二十日の冷ゆる朝明け 哀草果