日本の釘は釘鍛冶によって作られてきた。そもそも、建築の釘が大量に使われるようになったのは、法隆寺のような寺院や五重塔などの大規模な建造物が作られるようになった飛鳥時代以降のことである。法隆寺の解体修理が行われたとき、専門家が詳しく調査したところ、3センチから75センチという大型にのものまで75種類にの釘が使用されたことがわかった。
江戸時代の箪笥師は金具の鎖前を釘で打ちつけた。一棹の箪笥に500本から1000本の釘を使った。この釘は頭の丸い太鼓釘で、専門の釘鍛冶が、一本一本打って作った。釘の産地としては越後の三条、燕、伊勢の松阪が有名であった。童謡にある村の鍛冶屋は、農具や馬蹄を打つかたわら、釘打ちを副業にしていたものも多かった。
鍛冶から機械生産に移るきっかけは、明治14年1月26日に起った東京神田の大火である。引き続いて2月11日には、東京をなめ尽くす大火事があった。その焼け跡復興のために大量の釘が必要になった。このときから、機械生産の洋釘の輸入が始まった。日本で機械生産が始まるのは、明治31年のことである。およそ17年間、釘は輸入に頼った。物づくりで先行する現代の日本からは想像のできない事態が起きていた。
村の鍛冶屋
暫時(しばし)も止まずに槌打つ響
飛び散る火の花 はしる湯玉
鞴(ふゐご)の風さへ息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋
小学校のころ皆で歌った懐かしい唱歌だが、鍛冶屋さんが姿を消してしまったことから、昭和60年には、この唱歌も教科書から姿を消した。新潟の伝統が世界に誇る技術で食器などを生産していることは心強いが、釘に関心を寄せる人も少なくなった。