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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

次年子

2013年01月17日 | 読書


葉山の山麓にある大石田町次年子(じねご)。手打ちそば所である。わが家からは、車で1時間半ほどの距離にあるが、ここの手打ちそばは、自家製のそば粉の手打ちがうれしくわざわざ車を飛ばして食べに行った。この集落には、農家をそのままそば屋にしたような店が7,8軒ある。1000円のそばを注文すると、蕨の一本漬けが出て、大根おろしを汁に入れて食べる。そばはお代わり自由である。どんぶりに盛って出すのだが、3杯も食べれば十分である。なかには5杯もお代わりする豪のものもいる。

次年子という地名の由来だが、冬の雪深い村で生まれた子は、役所への出生届けが翌年になるからこんな名が付いたとばかり思っていたが、全く違うことがこのごろ分った。この地に秋田からお里という名の婦人が来て、秋田伝統の箕つくりの技術を伝えた。それが大同2年のことであったから、最初二年子という名が付き、後に次年子と改められたいう。

箕つくりの話が書いてあるのは、藤沢周平の『随想など』のなかで、自身が書いた小説「人攫い」についての件である。この人攫いは箕つくりが仕出かす事件である。鶴岡生まれの藤沢周平は子どもの頃、農村を廻る箕つくりの人々を見ていた。農家の軒先を借りて筵を敷き、そこで箕を修繕したり、材料を持ってきて作ったりしたという。だが、箕つくりの人々には、どこか、農村に溶け込めずよそよしい雰囲気を持っていた。

そもそも箕とは、木の皮などで編んだ笊を変形したものだ。ここへ脱穀した豆や菜種を入れ、手で振って実と殻を選別する道具である。もしその時に風があれば、殻は面白いように飛んでいって、箕には実だけが残る。この箕は農家の必需品なのだが、これを作る集落は決まっていた。長井政太郎の『山形県地誌』の「箕づくりの村」を見ると、この技術を村の不出のものとし、流出を防ぐ掟があった。箕作りの技術はその家の長男にのみ教え、他へ養子に行ったものは、箕は家に帰って作ることになっていた。もしこの禁を破ったときは、その家族は村八部にされた。そのために製法の秘密が他へ流出するのが防げた。

藤沢周平が箕作りの職人に抱いた感じは、こうした技術を知られることを恐れる伝統の気質がなせることであったのであろう。この次年子から、山中の道をさらに西へ進めば、雪深い温泉地肘折である。この冬も肘折は2mを越す積雪に見舞われている。

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