常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

空蝉

2014年07月28日 | 源氏物語


蝉が地上に這い上がり、殻から脱皮して成虫になる季節である。庭のあちこちに抜け殻が見られるが、うまく飛べない蝉が仰向けになってもがいている姿を見かける。そんな時、そっと手にして植木の枝に置く。しばらく足を動かしながら、思い出したように飛び立っていく。空蝉は蝉の抜け殻を言うのだが、現し身がうつせみに転化し、空蝉の文字が与えられたものである。広辞苑を引くと、「現人(うつせみ)に空蝉の字を当てた結果平安時代以降できた語。蝉の抜け殻。」とある。

「現人(うつせみ)」には、この世に現在する人間。また、この世、世間の人の意味もある。蝉が脱皮することで、この世に生を現すので、うつせみにはより深い意味が与えられているように思える。この世に生を受けている人間は仮の姿で、やがて抜け殻を置いて、本当の生を彼岸で受けるという考えも生じる。

源氏物語の「空蝉」の帖では、若き光源氏が寝所に忍んでくるのを察した空蝉が着用していた薄着を脱ぎ捨てて、単衣ひとつを身にまとって逃げ出す場面がクライマックスである。空蝉を追うのを諦めた源氏は、残った軒端荻と契りを結ぶのだが、逃げられた空蝉への思いはさらに深まる。源氏はその様を、蝉の抜け殻に擬した和歌を畳紙の端に書き付けた。

空蝉の身を更へてける木のもとになほ人柄のなつかしきかな 光源氏

「身を更へては」脱皮して姿を変えることをさす。蝉の抜け殻の「殻」と人柄の「柄」は掛詞になっている。

空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな 空蝉

この和歌は透きとおる羽に置く露、すなわち涙がテーマになっている。「濡るる」「袖」も縁語。また源氏の「木のもと」に対しては「木隠れて」と返している。空蝉はこの和歌を源氏の畳紙の脇に書き付けた。源氏の愛を拒否した空蝉ではあるが、歌のやりとりは、問答歌の形式を踏まえている。わが身が人妻でなかったならば、という余情の響きが未練を語る。だが、源氏物語ではこの問答歌を最後にして、その後の展開は語られない。

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鳥海山

2014年07月28日 | 登山


鳥海山は山形県の最高峰2236m、深田久弥の『日本百名山』にも加えられている。この山は過去4回登頂し、今回で5度目になる。写真は河原宿に着いた8時ころのものだが、青空の中に残雪が美しい。ただあざみ坂から上の方は雲に隠れている。この時点で、午後からの天候の急変は知る由もない。深田久弥の文を借りて、この山を紹介する。
「標高は東北の最高とは言え、わが国の中部へ持ってくると、決してその高さを誇るわけにゆかぬ。しかしその高さは海ぎわから盛り上がっている。山の裾は海に没している。つまりわれわれはその足元から直ちに2240mメートルを仰ぐのあるから、これは信州の日本アルプスを仰ぐのに劣らない。

ここのして浪の上なるみちのくの鳥海山はさやけき山ぞ 斉藤 茂吉」



右前方に白糸の滝を望みながら、最初の雪渓を登る。雪渓上には多くの登山者の姿が見える。そういえば湯の台口の駐車場は車が溢れその下の道路の方なで車の列ができていた。夏休みで、ぐづついた天候もここ数日晴の傾向になったので登山者が集中したのかも知れない。雪渓上に太陽が降りそそぎ、白馬岳の雪渓を思い起こさせる。登山書のなかに、小学生の姿を時おり見かける。なかには、まだ就学前の女の子を背負い登る若い夫婦の姿もあった。聞けば仙台からやってきたという。本日の参加者男性2人、女性2名のベテラン4名パーテイである。



雪渓を過ぎて河原宿に至る八丁坂は大小の石を連ねた登山道だが、周囲には季節の高山植物が咲き、見晴らしのきく場所からは酒田の海、左手に月山の雄姿が望まれる。車ユリが咲き、キンポウゲの黄色い花も可憐である。道路の脇に一叢のウスユキ草が床しげに咲いていた。思わずカメラを取り出して撮影する。後で一緒に下山した岡山から来た登山者は、高山植物の撮影を目的に登っているということであった。登山も写真もというのはなかなか両立が難しい。本当にいい写真のためには、小屋に泊まりこんで十分な準備のうえでシャッターチャンスを待てねばならない。



外輪の近くでイワブクロがたくさん咲いていた。岩にしがみつくように根付いているが、北東アジアの寒冷地に広く分布するという。火山の砂礫地に一番乗りで繁殖する、旺盛な生命力を持っているらしい。このころには、青空は消え、分厚い雲の下に高山特有の強風が吹き始めた。外輪の痩せ尾根を風に煽られないように背を引くして外輪から御室小屋を目指す。山頂はあきらめ、とにかく小屋へ。風速は何mであろうか。時おり吹き付ける突風は今までに体感したこともないような強さだ。

御室小屋には50名ほどの登山者がいた。明日は今日くたコースをそのまま下山するのみだ
が天候の状況も不安である。7時就寝。時々風の音が雷のようにうなりをあげている。午前2時になった叩きつけるような雨の音が加わる。朝になった雨は小降りになったが、風は収まるどころか強度を増したようにすら感じられる。小屋の主人は、「初めて体験するような強風です。午後になってもよくなる見込みはありません。同じ方向へ下山するパーテイは合同して、励ましあい十分注意して下山してください」

この忠告で我々4名は長岡市のパーテイ10名(リーダー小浦さん)と岡山から登山者1名15人が同一行動で下山する。外輪の強風は背をかがめ、突風をやりすごしながらの歩行となった。覚悟を決めての下山であり、15名が同一行動ということもあり、難所を無事に過ぎる。一行には不思議な連帯感を生まれたような気がする。この強風のなかで、斉藤茂吉が父親に連れられて湯殿山へ15歳の初詣ことを思い出していた。

湯殿山の谷合いに来て親子は荒れた天候で風に吹かれた回想がある。
「渡るべき前方の谷は一面の氷でうづめられてそれが雨で洗われてすべすべになっている。下手の方は深い谷につづいていてひどくあぶないところである。僕は恐る恐るその上を渡って行ったが、そこへ猛風が何ともいえぬ音をさせて吹いて来た。僕は転倒しかけた。後ろから歩いて来た父は、茂吉這え。べたつと這え。鋭い声でそういったから僕は氷の上に這った。やっとのことでしがみ付いていたという方が好いのかも知れない。」

こうして降りてきて八丁坂に来ると、木の背丈が風を防いでくれるが、強い吹き付けの雨になった。下山して着替えもそこそこに入った温泉はまさに天国であった。

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