マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

別所町の風の祈祷

2012年11月20日 09時28分32秒 | 奈良市(東部)へ
前夜の15日は風の祈祷と称する宮籠りだった奈良市の別所町。

一番トウ、二番トウ、三番トウ、四番トウと呼ばれるマツリの4当家は布団を持ち込んで社務所で籠るのであるが、形式を保つことなく不籠りになった。

ゲヤは社務所に上がれず、極楽寺本堂で籠ることも聞いていたがそれも不籠りであった。

翌朝は村の長老たちがお参りをする。

早朝に集合場所としていた会所の前。

車に同乗して向った先はカイトノモリ。

漢字を充てれば垣内の森と思ったが、神社の年中行事表記には「かいとの守り」とある。

その地は別所町と杣ノ川町との境界の山中。

鬱蒼とする林の中に佇む社がある。

平成21年に氏神さんの金刀比羅神社の造営の際に新しくした。

同時に鳥居も新しくしたという。

尤も、昔は社もない「山がご神体で、山の神さんそのものだった」と話す。

カイトノモリの社は、桜井の大神神社から勧請した三輪大明神社というそうだ。

カイトノモリが鎮座する「カイト」名は山の地番。

隣村の奈良市の田原の里から別所町、杣ノ川町の境界とする山道を通って都祁に向かった。

かつては伊勢街道で賑わったそうだ。

街道は今でも歩くことさえ困難な山道。

それゆえ車を走らせて新道を回りここまで来たのである。

集まった人たちは社に手を合わせて境内をぐるぐる回る。

時計回りに12周するが、この年は閏年。

そうであれば周回を13回。

4年に一度は13周するというから新暦の閏年。

かつての旧暦閏の月数のあり様を残していると思われる。

お参りを澄ませると再び便乗して別所に戻った。



長老らは金刀比羅神社の境内でも同じように13周した。

同神社の境内には遥拝棚がある。

その方角にあるのがカイトノモリである

二か所に亘ってお参りを済ませた別所町の行事。

二老の話によれば「昔は風の祈祷やいうて御供もあった」という。

風の祈祷の所作にぐるぐる回る処がある。

隣村の長谷町や和田町。

回数や作法は若干異なるが、その様相は間違いなく風の祈祷である。

ちなみにカイトノモリでも籠りをするという。

真っ暗な中で境内に火を灯す焚火。

その灯りで会食を共につするというカイトノモリの籠り。

日程はマツリの日に決めるそうだ。

(H24. 9.16 EOS40D撮影)

南田原町イセキの祭文音頭

2012年11月18日 08時17分23秒 | 奈良市(東部)へ
9月8日に行われていたことから八日薬師のイセキと呼ばれる行事は村人が集まりやすい日曜日に替った奈良市の南田原町。

「イセキ」は「会式」が訛った仏事の行事。

薬師堂の行事として行われている。

本尊前にケト(ケイトウ)などのお花を飾る。

祭壇には特異な形のオソナエが並ぶ。

年番の「にんにょ(年用)」たちの手によるものだ。

造りもののお供えはベイナスに赤トウガラシとマメを挿した人の顔のような形をしている。

両脇には薄く切った5枚のパン。

本来はフ(麩)で飾りつけをするのだが、手に入らず仕方なくパンに切り替えた。

2年前に訪れたときもそうであった。

後方には大きなズイキとダイコンも立てている。

高く盛った仏飯に箸を立てる。

お賽銭を捧げて参る村人たち。

元は南福寺と呼ばれるお寺があった南田原。

明治時代までは南福寺に住職が居たそうだ。

菩提を弔うイセキはお参りを済ませれば集会所に集まって会食していた。

子どもも一緒になった家族ごとに飲食する。



それから1時間半後。

おもむろに始まった盆踊り。

数人が会所の中で列を作って踊っていく。



唄を歌う音頭取りは小学6年生。

3年間も練習してきた音頭取り。

茗荷町に住むOさんが指導してきた。

かつては東山中のそれぞれの村でイセキにつきものの盆踊りをしていた。

南田原をはじめとする田原の里では大野の十輪寺から始まって中之庄、矢田原、日笠、今井堂、長谷、別所などで次々と行われていた。

隣村の盆踊りを見にいったことを覚えている人は少なくない。

いつしか廃れていったイセキの盆踊りは語り草。

村起こしのきっかけに練習してきた祭文音頭はこの日初のお披露目。

後継者の育成の方向性が見えてきた。

田原の里が全域に亘って復活すればと願っての初披露は一曲で終えた。

Oさんの話によれば、長谷のイセキではかつて音頭取りに番傘をさしていたと云う。

音頭取りが3人なら三つの番傘。

足元には生タマゴと酒と湯のみが置かれたそうだ。

何故に生タマゴかと問えば「声が枯れてかすれたら湯のみに割った生タマゴを入れて飲みほした」と云う。

酒を飲むのも喉に良いからと飲んでいたそうだ。

番傘は何故に挿すのか。

この答えは「夜通し歌うから夜露に濡れたらあかん」と云うわけだ。

盆踊りは村人が溢れて二重にもなったそうだ。

続けて話すOさんの思い出。

「吉田踊りではちょんちょんと前に出るときに、前にいてる踊り子の娘さんのマタグラ辺りにちょいと足を出したんや」と奥さんが居る前でも話された。



ところで南田原のイセキはトーシミがつきもの。

会食を終えるまでは火を絶やすことはできない。

灯心の灯りは十三灯。

2年前に拝見した燭台は油でこてこて状態だった。

黒光りしていた燭台に歴史を感じたが、そうではなくなった。



お皿はそのままだが下部は竹製。

申しわけないがつり合わないように思える。

(H24. 9. 9 EOS40D撮影)

北村町役の行者参り

2012年11月14日 06時45分53秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市北村町。

戸隠神社から西方400mの山を越えれば京都府の加茂町。

山は県境である。

その山にあった行者さんの石像。下山から土を採掘したことによって崩れそうになった。

それでは可哀そうだと移した地が会所の傍ら。

行者石像は周りも天井も石で覆われている。

風化を防ぐという意味であろうか。

その左横には石塔がある。

村の人たちが修行してきたという大峰山。

出かける際には田んぼに参って夕立ちをもらうようにと祈った。

石塔は「昭和22年9月8日 大峯山三十三度之供養」とある。

「ならとく」さんが寄進したと伝わっている。

その名が刻まれている。

そんな話をしてくれたD婦人によれば記念の石塔も村の西側(水道局)辺りにあったそうだ。

会所に集まってきたのは自治会長他当番の人や参拝者。

いつもなら大勢が参拝するのだが、稲刈りが始まった北村ではそれどころではないという。

この年の3月に訪れたときの会所前とは随分違う。

車も停められる場はアスファルトが敷かれて奇麗になった。

手すりもある。

雑草採りもしなくて済むようになったと喜ぶ参拝者。

会所のテーブルを斎壇代わりに置いて御供を供える。

今では自治会が用意するお菓子になったが、以前は参拝者が一品、一品を供えていた。

少しずつ品数が増えていった。

高騰する御供に困った村人たちは自治会運営に切り替えて適量にしたと話す。



行者さんに線香とローソクを灯してお参りする参拝者。

般若心経を一巻唱えてお参りを済ませた。

3月もそうだったがこの日も見られたパトロールカー。

盗人が出没するそうだ。

農作業に使うクワ、カマ或いはツッカケまでが盗られたと話す。

賽銭泥棒もいるらしい。

そういう事件があって巡回している警察官。

要請はしなくとも代々引き継がれた警察官が村を守ってくれるのだという。

そんな話題も出た直会。

昔はお酒もあったが今はお茶。

御供のお菓子を食べてしばらくの歓談で時を過ごす。

(H24. 9. 8 EOS40D撮影)

和田町イセキの十九夜さん

2012年11月12日 07時37分43秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市和田町の集会所に集まった村の人たち。

子どもや孫も入れての家族ぐるみ。

それぞれの家族が輪になって会食をしている。

この日はイセキの集まり。

イセキと呼ぶ行事がある地域は県内東山中で散見する。

「イセキ」と呼ぶ地域に奈良市の別所町、南田原、日笠町、北野山町や山添村の切幡がある。

山添村の北野もかつてそう呼んでいたが行事は随分前に中断した。

また、「イシキ」と呼ぶ地域もある。

奈良市都祁来迎寺町だ。

「イセキ」を始めて聞いたときは「イシェキ」だった。

それは北野である。

「イセキ」から「イシェキ」。

それが訛って「イシキ」になったのだろうか。

「イセキ」や「イシキ」の本来は「エシキ」。

つまり「会式」である。

その名から伺えるのは仏寺行事。

寺で行われる処もあれば会所になった処もある。

「エシキ」の名で行われているのは天理市福住町の別所がある。

その殆どで聞かれた「イセキの盆踊り」。

村住民が寄ってきて夜中まで踊っていたと各地で聞いた。

村の楽しみだったイセキの盆踊りはいつしか消えていった。

和田町のイセキもそうであったようだが、昼間に集まって馴染みの顔が揃う会食の場に転じたのであろう。

現在は前月の風の祈祷の日に注文数を確認していたパック詰め料理であるが、かつては各家の献立料理を持ち込んでいた。

その日の会所は天神社の行事。

イセキの日は仏事のようで阿弥陀仏を安置している扉を開ける。

本尊であろう。

ローソクを灯して開放しているのだ。

その左側に安置されているのは如意輪観音の石仏。

そこにもローソクの火がある。

こうして仏さんの前で会食するのがイセキたつ由縁なのであろう。

和気あいあいと長らく歓談していた会場は仏さんの前を空けた。

婦人たちがその前に座って唱える十九夜さんに転じたのだ。

如意輪観音石仏が安置されている床の間に掲げたのは同じく如意輪観音の掛軸。



保管してあった和田町の和讃本を広げて唱える十九夜さん。

酒宴である会食の場で行われる十九夜和讃。

ざわめきの会場で唱える和讃は聞き取り難い。

そんな喧騒もお構いなしに唱えている婦人たち。

ゆったりとした調べで唱えた時間は7分間。

一同が手を合わせて終えた。

今では全員が同じ和讃本を唱えるが、かつては各家が持ち寄った和讃本であった。

古くは大正十年、十四年ものもあるが、昭和二十一年などもある。

如意輪観音石仏には赤いよだれ掛けがある。

子どもが生まれてほしいと願う人が掛けたという婦人たち。

願掛けのよだれ掛けは真新しい。

傍らに置かれた塔婆がある。

「奉高顕供養者為如意輪観世音菩薩十九夜講中家内安全祈攸 施主和田町講中」と願文を書かれたのは田原の里の十輪寺の住職。

こうした塔婆は奈良市大野町、南田原町とも同じだった。

和田町の十九夜さんは年に2回。

9月のイセキと正月の成人の日だ。

かつては毎月の19日に参っていた十九夜さん。

その日は村の集金日と兼ねていた寄合の場でもあった。

給与が銀行振り込みになった契機に集会をしなくなった。

そうした事情で9月と1月の村の行事に合わせて行うことにしたという。

(H24. 9. 2 EOS40D撮影)

<大正十年起の十九夜念佛本>
「きみよちよらへ 十九夜のう ・・・・(欠損)・・・
 ゑかなるしんの くらきよも
 ゑとわずたがわづ きだへなく
 十九夜をどふをへまいるべし
 とらの二月の十九日
 十九夜ねんぶつ はぢまりて
 十九夜ねんぶつ 申すなり
 ずゑぶに あらたに しよじんし
 をふしよしおじの ふだをうき
 しゑしてじよどへ ゆき人は
 みよほりんげのはなさきて
 十ぼう はるかにしづまりて
 ふきくる風もおだやかに
 天よりによゑりんくわんぜおん
 たまのてんがゑさし上げて
 八万ゆじよの ちの池は
 かるさの池と 見て通る
 ろくわんおんの そのうちに
 によゑりんぼさつの をんりひに
 あまねきすじよを すくわんと
 かなしきによにん あわりさは
 きさまですみしが はやにごる
 ずんざがしたの 池の水
 すすゑで 子をすたつ時は
 天もじゆじんも すゑじんも
 十九夜おどうへ いる人は
 ながくさんづの くわのがり
 ごくらくじよどへ いちらへず
 万ざかゑきの ななじようも
 ゑつか心も うかみきる
 きよ十九夜と ゑきとくに
 によらへ見えども ありがたや
 じしんのおやたち ありありと
 すくわせたまへ くわんぜおん
 しよくしんりょぶつ なむあみだ
 十九夜ねんぶつ なむあみだ なむあみだぶつ」

<大正十四の志ゅくねんぶつ本>
「十九夜念佛
 きみやう ちよらい 十九夜の
 ゆらいを くわしく たづぬれば
 によいりんぼさつの せいぐわんに
 あめのふる夜も ふらぬ夜も
 いかなるしんの くらき夜も
 いとわずたがわず きだいなく
 十九夜どうへまいるべし
 とらの二月十九日
 十九夜ねんぶつ はじまりて
 十九夜ねんぶつ もうすなり
 ずいふにあらたに しよじんせ
 おうしょしよじの ふだをうけ
 ししてじよどへいるときは
 みよほうれんげの はなさきて
 十ぽうはるかに しづまりて
 ふきくるかぜも おだやかに
 てんよりによいりん くわんせおん
 たまのてんがい さしあげて
 八まんよじうの ちのいけも
 かるさのいけと みてとほる
 六わんおんの そのうちに
 によいりんぼさつの おんぢひに
 あまねくすじよを すくわんと
 六とうすじよに おたちあり
 かなしきにょにんの あわれさは
 けさまだすみしが はやにごる
 ばんざがしたの いけのみづ
 すすいでこぼす たつときは
 てんもじしんも すいぜんも
 ゆるさせたまへや くわんぜおん
 十九夜みいどへ いるときは
 ながくさんずの くをのがれ
 ごくらくじょどへ いちらいす
 まんだがいけの なんじよも
 いつかこころも うつれける
 けふ十九夜と しきとくに
 によらいみいども ありがたや
 ずしんのおやたち ありありと
 すくわせたまへや くわんぜおん
 そくしんぢよぶつ なむあみだ
 十九夜ねんぶつ なむあみだ
 なむあみだぶつ なむあみだ」

<十九夜念佛巻本>
「きみよちよらへ 十九やのー
 ゆらへを くわしく たづぬれば
 にょゑりんぼさつの せいぐわんに
 あめのふる夜も ふらぬ夜も
 いかなるしんの くらき夜も
 いとわずたがわづ きたへなく
 十九夜をうとへまへるべし
 とらの二月の十九日
 十九夜ねん佛 はぢまりて
 十九夜ねん佛 もうすなり
 ずいぶに あらたに 志ようじんし
 をうしょしょじの ふだをうき
 しゑしてじょうどへ ゆく人は
 みよほりんげの花なさけて
 十ぼう はるかにしづまりて
 ふきくる風もをだやかに
 天よりにょいりんくわんぜをん
 たまのてんがいさしあげて
 八万ゆぅよの ちの池を
 かるさのいけと みてとふる
 六わんおんの そのうちに
 にょいりんぼさつの をんりひに
 あまねきすじよを すくわんと
 かなしきによにんの あわりさは
 きさまですみしが はやにごる
 ばんざがしたの 池の水
 すすゑでこぼす たつときは
 天もじゅしんも すゑじんも
 十九夜をどへ いるひとは
 ながくさんずの くわのがれ
 ごくらくじようどへ いちらへす
 まんざかいきの ながじょも
 いつか心も うかめきる
 きよ十九夜と しきとくは
 によらへみゑども ありがたや
 じしんのをやたち ありあれと
 すくはせ給へや くわんぜおん
 しょくしんりょぶつ なむあみだ
 十九夜ねん佛 なむあみだっ なむあみだ」

<昭和二十一年十九夜念佛帳>
「きみやちょらい 十九夜の
 ゆらいを くわしく たづぬれば
 によいりんぼさつの せいぐわんに
 雨の降る夜も 降らぬ夜も
 いかなるしんの 暗き夜も
 いとわずたがわず きだいなく
 十九夜お堂へまいるべし
 寅の二月十九日
 十九夜ねんぶつ 初まりて
 十九夜ねんぶつ 申すなり
 ずいぶに新に しよじんし
 おうしょしよじの ふだを受
 ししてじょどへ入る時は
 みよほうれんげの 花さきて
 十ぽうはるかに しづまりて
 吹きくる風も をだやかに
 天よりによいりん くわんぜをん
 玉の天がへ さし上げて
 はちまんすじょうの 血の池も
 かるさの池と 見て通る
 六わんおんの 其の内に
 にょいりんぼさつの おんじひに
 あまねくすじょうを 救わと
 六堂すじよに お立ちあり
 かなしきによりんの あわれさは
 けさまだすみしが 早やにごる
 晩ざが下の 池の水
 すすいでこぼす 立つ時は
 天もししんも 水神も
 ゆるさせたまへや くわんぜおん
 十九夜みいどへ 入る時は
 長く三寸の くをのがれ
 ごくらくじょどへ いちらいす
 まんだが池の ながじょも
 いつか心も 移りける
 きょ十九夜と しきとくに
 によりんみいども ありがたや
 じしんの親たち ありありし
 救わせたまへや くわんぜおん
 そくぜんじょぶつ なむあみだ
 十九夜念佛 なむあみだ なむあみだぶつ なむあみだ」

<昭和二十一年九月十九日十九夜念佛紙>
「きみようちよらい 十九夜の
 ゆらいをくわしく 尋ねれば
 によいりんぼさつの せいぐわんじ
 雨の降る夜も 降らぬ夜も
 いかなりししんの 暗き夜も
 いとわずたがわず きらいなく
 十九夜御堂へ 参るべし
 寅の二月十九日
 十九夜念 初まりて
 十九夜念佛 申すなり
 随分改め しよじんし
 おうしよしよじの 札を受け
 しして浄土へ入る人わ
 妙法れんげの 花咲いて
 十方はるかな 鎮まりて
 吹きくる風も をだやかに
 天よりによいりん 観世音
 玉の天がい 差し上げて
 八まんすじょうの 血の池も
 かるさの池と 見てとをる
 六わんおんの 其乃内は
 にょいりんぼさつの 御じひん
 あまねきすじよ すくわんと
 六どすじよの おたちあり
 かなしき女人の あわれさわ
 きさまだすみしや 早やにごる
 ○○わしたの 池の水
 すすいでこぼす 立つ時わ
 天もぜぜんも すいぜんも
 ゆるさせ給へや 観世音
 十九夜御堂へ 入る人わ
 永くさんづの 苦をのがれ
 ごくらくじょどへ いちらいす
 まんだら池の ながじよも
 いつか心が うかめける
 今日十九夜と しきとくる
 めわかめいどの ありがたき
 じしんの親たち ありありと
 すくわせ給いや 観世音
 しよくせん成佛 南むあみだ佛」

<十九夜念佛本>・・・印刷した和讃本を念仏
「十九夜念佛
 きみやうちよらい 十九夜の
 ゆらいをくわしく たづぬれば
 によいりんぼさつの せいぐわんに
 あめのふる夜も ふらぬ夜も
 いかなるしんの くらきよも
 いとわずたがわず きだいなく
 十九夜おどーへまいるべし
 とらの二月十九日
 十九夜ねんぶつ はじまりて
 十九夜ねんぶつ もうすなり
 ずいぶにあらたに しよじんし
 おうしよしよじの ふだをうけ
 ししてじよどへいるときは
 みよほうれんげの はなさきて
 十ぽうはるかに しづまりて
 ふきくるかぜも おだやかに
 てんよりによりん くわんぜおん
 たまのてんかい さしあげて
 八まんすじようの ちのいけも
 かるさのいけと みてとほる
 六わんおんの そのうちに
 によいりんぼさつの おんじひに
 あまねきすじよを すくわんと
 六とうすじように おたちあり
 かなしきによにんの あわれさは
 けさまだすみしが はやにごる
 ばんざがしたの いけのみづ
 すすいでこぼす たつときは
 てんもじしんも すいぜんも
 ゆるさせたまへや くわんぜおん
 十九夜みいどへ いるときは
 ながくさんずの くをのがれ
 ごくらくじよどへ いちらいす
 まんだがいけの ななじよも
 いつかこころも うつりける
 きよ十九夜と しきとくに
 によいりんみいども ありがたや
 じしんのおやたち ありありと
 すくわせたまへや くわんぜおん
 そくしんじょぶつ なむあみだ
 十九夜ねんぶつ なむあみだ なむあみだぶつ なむあみだ」





終止符を打った大柳生の太鼓踊りは有終の舞い

2012年10月31日 06時43分33秒 | 奈良市(東部)へ
集会所に集まってきた村の人たち。

この日は最後となった大柳生の太鼓踊り。

会所の前に立てたシナイは11本。

踊り子たちが背中に括りつける飾りだ。

大柳生の太鼓踊りは三つの垣内、それぞれが毎年交替しながら行われてきた。

踊りの演目は上出が「大ジュンヤク(大神踊か)」、「大ゼンオドリ」、「シノビオドリ(忍び踊)」。西は「屋敷踊り」、「山伏踊り」、「若武者踊り」で、塔坂は「大神踊り」、「忍踊り」、「小ジュンヤク」であった。

シナイの形は垣内によって微妙に形が異なる。

この日は6本の西垣内シナイと5本の上出垣内シナイが用意された。

西垣内のシナイはカラフルな切り紙の飾りで、下部を三段組みにしたヒノキの削り。

上出垣内のシナイは紅白の花飾りで二段である。

7月から毎週のように練習してきた太鼓踊り。

最後の演武に磨きを掛ける。

一人の高校生が初参加した太鼓踊り。

最初で最後の演者である。



衣装を身につけた踊り子たちは村人らによって白いサラシでシナイを身体にしばりつける。

出発の支度を整えたころには天空が怪しい雰囲気になってきた。

真っ黒な雲が立ち込める。

雨が降りだした。

今後も降るのか。それとも止むのか。

決断を迫られる。

ピカっと光る稲妻。

ゴロゴロの音も聞こえだした。

昨日も同じような状況であった県内東部。

天気予報は見事にあたり最後の出番は足止めをくらう。



小止みになった状況を判断されて出発した。

道中においても雷が鳴り続ける。

なんとか辿りついた披露の広場。

着いたとたんに雨は激しくなった。

無情の雨は激しさを増す。

最後となった太鼓踊りにやってきた大勢の人たち。

傘をさして拝見するが、演者にはそれがない。

いつものように挨拶と口上を述べられて始まった。



踊り子は背中に大御幣を付けた四人の大太鼓打ち。

その一部の御幣には「第四号 大正拾年五月二日五十三連隊 渡満凱旋記念軍旗祭奉献 なにがし」とある。

調べてみれば、歩兵第五十三連隊は大正8(1919)年4月29日にシベリア出兵。

同年の6月15日にはスリランカで共産ゲリラと戦い、19日には寛城子で支那軍と交戦したとある。

2年後の大正10(1921)年4月5日において歩兵第十七旅団と守備を交代した上で同月の16日に奈良へ凱旋したようだ。

その後に大柳生へ戻ってきた凱旋兵を迎えたのであろう。

記念した御幣を肩に挿していたのである。

戦記と太鼓踊りの関係は判らないが、言い伝えに出陣、凱旋踊りともある大柳生の太鼓踊りには違いない。

胸に「カッコ(鞨鼓)」と呼ばれる小太鼓は「中踊り」とも呼ばれる踊り子だ。



シナイを背中に括りつけて踊る姿は最後の雄姿。

そうして始まった最初の踊りは「ジュンヤク」。

2曲目は「しのび踊り」だ。

雨が降り続けるなかでの披露は小休止もなく連続で行われる。

ピーヒャラリー、ピーヒャラリー、ピーヒャラピーヒャラピーヒャラ、ピーヒャラリーとともに鉦の音も聞こえてくる。

踊り続けた演者も一旦は身体を休めなくてはもたない。



十数分の休憩を挟んで最後の踊りは「ヤシキ踊り」。

羽織姿で棒状のサイハイを振るのは師匠。

踊り全体の調子をとる。

およそ一時間の太鼓踊りは拍手喝さいで会場を退けた。

やり遂げた踊りに笑みがこぼれる演者たち。

記念写真を撮って解散する。

打上花火に「おおやぎゅう」の歓声もあがって幕を閉じた。

(H24. 8.18 EOS40D撮影)

和田町天神社風の祈祷

2012年10月14日 06時38分38秒 | 奈良市(東部)へ
14時からは村の寄合をしている奈良市和田町の集会所。

25軒の人たちが集まった。

来月に行われるイセキで食するパック料理の数を確認するなど村の議事を進行する。

会式が訛ってイセキと呼ばれる行事に盆踊りがつきものだった。

その多くは東山中の村々で行われていたと各地で聞く。

エシキ(会式)がイシキ(稀にそう呼ぶ地域もある)となって、やがてイセキと訛った。

と、考えられるが、いつしか村中の人たちが楽しみにしていた盆踊りは各地から消えていった。

それはともかく、諸行事日程の議事を終えた村人たちは会所を出る。

これから始まるのは天神社の風の祈祷だ。



お参りする前に裸足になった村人たち。

手水で洗い清めて境内にあがっていく。

境内中央にサカキを立てている。

そこを中心に本殿まで歩く村人たち。

本殿に手を合わせてくるりと向きをかえる。

そうして時計回りにぐるぐる、ぐるぐる回る。



社務所にある太鼓を長老が打ってドン、ドン、ドン・・ドン、ドン、ドン・・。

打ち終えるまでサカキ周りを黙々と裸足姿でぐるぐる、ぐるぐる回る。

その間およそ10分。

裸足で歩くだけにゆっくりと歩む。



太鼓の音が鳴りやむまで続けられる作法は風の祈祷。

村の豊作を祈願するとともに村人にご利益を授けてくれるそうだ。

かつては「デーン デーン デーン(田原の里の史料によればデーンデーンデンデコデン)」と云いながら太鼓の音に合わせながら周回していたと、後日に訪れたときにN氏が話していた。

稲の収穫前、台風がやって来ないよう、大風で農作物が被害に遭わないように祈る風の祈祷を行っている地域が県内東部山間に点在する。

和田町と同じように境内を回る作法を行っている奈良市長谷町の日吉神社上深川の八柱神社別所町のカイトノモリ・金刀比羅神社、山添村切幡の神明神社がある。

また、ローソクを百灯明のように火を灯す作法もある。

風に煽られて火が消えれば再び点ける。

消える、点けるの繰り返し作法が見られるのは天理市苣原町の惣社九頭神社下仁興の九頭神社・上仁興の四社神社、藤井町の三十八神社、福住町の闘鶏氷室神社、桜井市の修理枝(しゅりえだ)の八王子神社瀧倉の瀧ノ蔵神社である。

他にも清流の川原から持ってきた小石を神社に並べるオコリトリの作法もある。

各地域で行われている風の祈祷のあり方は様々である。

(H24. 8.12 EOS40D撮影)

別所町の史跡巡り

2012年10月07日 07時01分10秒 | 奈良市(東部)へ
別所の山や田地は別所宗治一族の財産。

息子の名は半衛門でその息子を幾千代だと云う。

かつての殿さんを偲んで営んだ二日酒は殿さんの供養である。

殿さん三代の墓地が今もあると案内された山の中。



鬱蒼とした林の中に佇む墓石は四柱。

暗がりの中では文字は見えない。

右端の墓石には「慶長十九年(1614)三月二十日 清西禅定門」とある。

その左横には「○○宗治 七月二日 真○治三年正門」だ。

その左横は「明暦二年(1656)十二月七日」。

左端の墓石は「万治元年(1658)」。

永禄年間(1558~1570)に辰市の役で活躍した山田道安の弟一族の墓だとされるが、慶長十九年(1614)、寛永七年(1630)、明暦二年(1656)であるだけに時代関係は整合しない。

山田道安は順貞(天正元年・1573年没),順清(永禄十二年・1569年没),順知の三代に亘って「道安」の号を用いたとされる。

どの人物が別所と関係するか。

考えられるに別所の殿さんは山田道安に仕える与力の一人ではなかろうか。

「和州衆徒国民郷土記」によれば「別所監物 別所宮内少輔」の名があるそうだ。

永禄十年(1567)作の「別所郷ヨサメ帳」には「別所対馬守宗久」の名があり、墓地がある地の山に築いた別所城の城主だとされる。

もしかとすればだが、宗治は山田氏一族の分かれになる別所宗久の後継一族ではないだろうか。

ただ、そうであっても墓石に刻まれた時代年記とは大幅な誤差が生じる。

村の伝えによれば別所の殿さん一族は兵庫県の三木に移ったという。

三木の別所は名高い別所長治。

百年後の寛文元年(1661)に書き記された覚え書によれば、別所の殿さんの始祖は山田庄主の次男だったとされる。

その人物は山田庄から分かれて別所に移った。

書き遺した人物は別所半右衛門で宗久の末裔。

百年間の期間でなんらかの誤証が生じたのではないだろうか。

一族が残した財産は別所の山や田地。

杣ノ川の峠を越えた山は念仏山と呼ぶ。

そこにも田んぼがあるという。

そこへは行かなかったが村の墓地へ参った。



そこは別所の旧墓地があるあんのんやま(安ノ山)。

5体並ぶ石塔群がある。中央の石塔には「○○(あんじゅ?)山 実○大僧正 寛永七年(1630)」と読みとれたが関係は判らない。



最後に案内された地は地蔵尊。

ヤマザクラやムロノキ(ヒノキかも)の大樹下に安置されておる地蔵尊は「ぬくんど地蔵」と呼ばれている。

前月の24日は地蔵さんを掃除していたという。

ぬくんど地蔵は足を守ってくれる地蔵さん。

ここは田原の里から抜ける伊瀬街道。

お伊勢さんに参る際に拝んだ地蔵さんに草鞋を置く。

無事に歩き続けるようにと願った願掛けだ。



この旧街道は車で通り抜けることはできない。

数年前から始まったトンネル工事は中之庄町に抜ける。

ここら辺りは砂地。

ところが田原の里は堅い岩盤だと話す茗荷のO主人。

冬場になれば急坂の水間峠を越えるトンネルは出入り口が積雪で凍ってしまうらしい。

それを避ける道造りだ。

それはともかくこの日の朝は七日盆の井戸浚えをしていたという。

お大師さんも行者さんも祀っているという。

標高485メートルの山々に囲まれた別所の地は涼しい。

心地よい風が吹いていく。

地区には数軒の茅葺き家がみられる。

O家もそうだ。

話によれば茗荷町に居住するM家もあるというし、隣村の水間町にも点在する。

かつて別所には子供の涅槃講があった。

秋の涅槃だったそうだ。

イノカミさん(おそらく亥の子であろう)を祀って藁製のサンダや農作業に使われる道具を模したモノを作っていた。

その道具は奈良県立民俗博物館での「日々のくらし―子育ての民俗―」企画展(平成22年9月18日~11月23日)などで展示されたこともある。

そのときのメモを残しておいた。

それによれば「別所町には秋のねはんがある。旧暦の10月亥の日でイノコ祭りとも。オガラで作った模擬ミニ農具、サントクやカリヤもある。サンダワラをサントク(三本足の藁製五徳)に乗せていた。ホウダイはイノコ神に供える」であった。

(H24. 8. 5 EOS40D撮影)

別所町極楽寺二日酒

2012年10月06日 07時58分24秒 | 奈良市(東部)へ
金刀比羅神社の月次祭を終えれば社務所で直会。

2時間ばかりの宴である。

おもむろに極楽寺にあがった寺三役。

マツリのトーヤ4人もあがって席に着いた。

三役の前には大きな太鼓と鉦が置かれる。

トーヤ衆が手を合わせて拝む先は別所の殿さんの墓とされる方向だ。

二老であるO氏が語った別所の殿さんの謂れ。

殿さんと呼ばれる人は山田道安の弟にあたる別所宗治。

その息子は半衛門で、その息子を幾千代だと話す。

殿さんが居た時代は戦いに巻き込まれた騒乱の時代。

いつしか別所を離れることになった。

その際に殿さん一族が残した財産は別所の山や田地。

それを元に供養をしてくれと村人に頼んだ。

八月二日は殿さんが亡くなった日と伝えられて毎年供養を営む「二日酒」。

財産とされる田地は耕して収穫する。

作物は年貢。

替金流用して酒を買った。

その酒をトーヤが供えて始まった二日酒のナンマイダ。

直前に花を飾った吊り燈籠に火を灯す。

ローソクと線香に火を点けた。

殿さんの墓に向かって「ナムアミアダッ」と唱えながら二老が打つ太鼓のドンに合わせて一老がチャンと鉦をひと叩き。

次に「ナムアミアダッ」と唱えて太鼓と鉦を二つ叩き。

最後に「ナムアミアダッ」と唱えて太鼓と鉦は三つ叩き。

三仏(さんぶつ)を申した二日酒は12秒間。

こうして殿さんの供養を終えたのである。

それと同時に直ちに吊り燈籠の火を消された。

それでお終いかと思えば、打った太鼓をゴロゴロと境内に転がしていく。



営みを終えるのを待っていた子供らは太鼓を打つ。

なんとも素朴な行事である。

かつては二日酒の夜はイセキの盆踊りがあった。

戦前のことだと云う。

当日の朝は井戸浚えをしていたという。

本来ならば7日の井戸浚え。

集まりやすいこの日に行われたという七日盆の井戸浚えだ。

吊り燈籠の刳り抜き穴は日に月。

イセキ(会式が訛った)の盆踊りがあったというから「殿さん供養」とも呼ぶ二日酒は法要も兼ねた盆の行事であったと思われる。

(H24. 8. 5 EOS40D撮影)

別所町金刀比羅神社の月次祭

2012年10月05日 08時26分22秒 | 奈良市(東部)へ
「お殿さんの花や」と云って燈籠とも呼ぶ木製の吊り燈籠に飾った奈良市別所町の極楽寺。

それは家型の吊り燈籠。

両側に丸と月の形が抜いてある。

抜き穴の大きさは異なるが同じような形の吊り燈籠を見たことがある。

思い出したのは川上村の高原。

法悦祭の営みを終えた後は祭文踊りなどの盆踊り。

踊り子たちが集まる薬師堂に吊るされていたのであった。

この日の別所町では神事と寺行事が行われる。

始めに祭典されたのは六社権現を祀る金刀比羅神社の月次祭だ。

毎月の月初めの日に行われている。

例月であれば1日であるがこの日は2日。

お寺行事の「二日酒」に合わせて2日に行われている。

集まった村の男性たちは12人。



村神主が登場すれば社務所から手渡しで神饌を献じる。

拝殿に登った氏子たち。

六社権現のマツリの当家らも登壇して祓えの儀式。

いつもの月次祭のお勤めである。

普段着で参拝する姿や献饌など別所はヒグラシ蝉が鳴く。

ゆったりとした空間に包まれる。



極楽寺の蔵には二枚の棟札が残されている。

一枚は「奉修造 六社権現宮國家安全五穀成就村中繁栄如意所 満足 (右)聖主天中天 迦陵類伽肇 大梵天王 辯財天女宮 (左)哀怒衆生者 我等今敬禮 帝釈天王 金剛童子宮 元治二丑年(1865)四月六日 (右下)神野寺法印快寶 極楽寺□居照圓 神主 庄右衛門 長右衛門」とある。

裏面には「當寺極楽寺畄主居照圓 庄屋當邑中岡利兵衛 年寄重三良 年預新六烝 善五良武助」 大工棟梁新之烝 喜蔵 喜七 松吉」である。

棟札はもう一枚ある。

「奉遷宮 六社権現宮國家安全五穀成就村中繁栄 祈所 (右)聖主天中天 迦陵類伽肇 大梵天王 辯財天女宮 (左)哀怒衆生者 我等今敬禮 帝釈天王 金剛童子宮 (右下)大阿闍梨憲達 神主儀右衛門 善右衛門」だ。

裏面には「弘化二巳年(1845)九月十四日 年寄重三郎 年預新七 善□ 新兵衛 善四郎 大工上津村栄三郎 菅生村□□ □□門」であった。

かつては真言宗豊山派だった極楽寺。

僧侶名と神主名が連名で記されていることから神仏混合による造宮行事が行われていた。

四国のコンピラサンを祀ったのは後年のことだと話す。

(H24. 8. 5 EOS40D撮影)

別所のかつての風習

2012年09月08日 08時34分04秒 | 奈良市(東部)へ
「春の日やった。先に十字にこしらえて花を付けた長い竿を立てた。そこに籠を取り付けていた」。

三本足のアマガエルが入っておればめでたいことだったと話す二老のOさん。

実際には見たことがないが、入った家があったということを聞いたことがあるという。

それは「オツキオカ」と呼んでいた風習だが、長い竹竿の名はなかったそうだ。

別所町では一軒、一軒とそこらじゅうの家が揚げていたそうだ。

花を括って十字に縛るのは、今でもその仕方を覚えているそうだ。

19歳で兵隊いっていたときの頃の話というから、およそ70年も前の風習だった。

その村に住むO婦人も覚えており、同じく「オツキオカ」と呼んでいたようだ。

「オツキオカ」はおそらく「オツキヨウカ」であろう。

「ヨウカ」が訛って「オカ」になったと考えられる。

春の日というのは4月の八日。

4月は、十二支を月で数えると、子、丑、寅、卯、辰、巳・・・。

つまり4月は卯月にあたる。

「卯月」は「ウツキ」。

それがなまって「オツキ」になった。

そうして呼ばれた別所の風習名称が「オツキオカ」となったのであろう。

O婦人は続けて話された家の風習。

正月七日の七草の日だった。

一人の子どもがカキの木にナタをチョンとして「なるかならんか」と発した。

そうするともう一人の子どもが「なります なります」と云った。

親が「なるかならんかをしてこい」と云うのでそうしていた。

その際には、木の下にオモチやホシガキ、ミカンを供えたという。

(H24. 7. 7 EOS40D撮影)