奈良市和田町の集会所に集まった村の人たち。
子どもや孫も入れての家族ぐるみ。
それぞれの家族が輪になって会食をしている。
この日はイセキの集まり。
イセキと呼ぶ行事がある地域は県内東山中で散見する。
「イセキ」と呼ぶ地域に奈良市の別所町、南田原、日笠町、北野山町や山添村の切幡がある。
山添村の北野もかつてそう呼んでいたが行事は随分前に中断した。
また、「イシキ」と呼ぶ地域もある。
奈良市都祁来迎寺町だ。
「イセキ」を始めて聞いたときは「イシェキ」だった。
それは北野である。
「イセキ」から「イシェキ」。
それが訛って「イシキ」になったのだろうか。
「イセキ」や「イシキ」の本来は「エシキ」。
つまり「会式」である。
その名から伺えるのは仏寺行事。
寺で行われる処もあれば会所になった処もある。
「エシキ」の名で行われているのは天理市福住町の別所がある。
その殆どで聞かれた「イセキの盆踊り」。
村住民が寄ってきて夜中まで踊っていたと各地で聞いた。
村の楽しみだったイセキの盆踊りはいつしか消えていった。
和田町のイセキもそうであったようだが、昼間に集まって馴染みの顔が揃う会食の場に転じたのであろう。
現在は前月の風の祈祷の日に注文数を確認していたパック詰め料理であるが、かつては各家の献立料理を持ち込んでいた。
その日の会所は天神社の行事。
イセキの日は仏事のようで阿弥陀仏を安置している扉を開ける。
本尊であろう。
ローソクを灯して開放しているのだ。
その左側に安置されているのは如意輪観音の石仏。
そこにもローソクの火がある。
こうして仏さんの前で会食するのがイセキたつ由縁なのであろう。
和気あいあいと長らく歓談していた会場は仏さんの前を空けた。
婦人たちがその前に座って唱える十九夜さんに転じたのだ。
如意輪観音石仏が安置されている床の間に掲げたのは同じく如意輪観音の掛軸。
保管してあった和田町の和讃本を広げて唱える十九夜さん。
酒宴である会食の場で行われる十九夜和讃。
ざわめきの会場で唱える和讃は聞き取り難い。
そんな喧騒もお構いなしに唱えている婦人たち。
ゆったりとした調べで唱えた時間は7分間。
一同が手を合わせて終えた。
今では全員が同じ和讃本を唱えるが、かつては各家が持ち寄った和讃本であった。
古くは大正十年、十四年ものもあるが、昭和二十一年などもある。
如意輪観音石仏には赤いよだれ掛けがある。
子どもが生まれてほしいと願う人が掛けたという婦人たち。
願掛けのよだれ掛けは真新しい。
傍らに置かれた塔婆がある。
「奉高顕供養者為如意輪観世音菩薩十九夜講中家内安全祈攸 施主和田町講中」と願文を書かれたのは田原の里の十輪寺の住職。
こうした塔婆は奈良市大野町、南田原町とも同じだった。
和田町の十九夜さんは年に2回。
9月のイセキと正月の成人の日だ。
かつては毎月の19日に参っていた十九夜さん。
その日は村の集金日と兼ねていた寄合の場でもあった。
給与が銀行振り込みになった契機に集会をしなくなった。
そうした事情で9月と1月の村の行事に合わせて行うことにしたという。
(H24. 9. 2 EOS40D撮影)
<大正十年起の十九夜念佛本>
「きみよちよらへ 十九夜のう ・・・・(欠損)・・・
ゑかなるしんの くらきよも
ゑとわずたがわづ きだへなく
十九夜をどふをへまいるべし
とらの二月の十九日
十九夜ねんぶつ はぢまりて
十九夜ねんぶつ 申すなり
ずゑぶに あらたに しよじんし
をふしよしおじの ふだをうき
しゑしてじよどへ ゆき人は
みよほりんげのはなさきて
十ぼう はるかにしづまりて
ふきくる風もおだやかに
天よりによゑりんくわんぜおん
たまのてんがゑさし上げて
八万ゆじよの ちの池は
かるさの池と 見て通る
ろくわんおんの そのうちに
によゑりんぼさつの をんりひに
あまねきすじよを すくわんと
かなしきによにん あわりさは
きさまですみしが はやにごる
ずんざがしたの 池の水
すすゑで 子をすたつ時は
天もじゆじんも すゑじんも
十九夜おどうへ いる人は
ながくさんづの くわのがり
ごくらくじよどへ いちらへず
万ざかゑきの ななじようも
ゑつか心も うかみきる
きよ十九夜と ゑきとくに
によらへ見えども ありがたや
じしんのおやたち ありありと
すくわせたまへ くわんぜおん
しよくしんりょぶつ なむあみだ
十九夜ねんぶつ なむあみだ なむあみだぶつ」
<大正十四の志ゅくねんぶつ本>
「十九夜念佛
きみやう ちよらい 十九夜の
ゆらいを くわしく たづぬれば
によいりんぼさつの せいぐわんに
あめのふる夜も ふらぬ夜も
いかなるしんの くらき夜も
いとわずたがわず きだいなく
十九夜どうへまいるべし
とらの二月十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなり
ずいふにあらたに しよじんせ
おうしょしよじの ふだをうけ
ししてじよどへいるときは
みよほうれんげの はなさきて
十ぽうはるかに しづまりて
ふきくるかぜも おだやかに
てんよりによいりん くわんせおん
たまのてんがい さしあげて
八まんよじうの ちのいけも
かるさのいけと みてとほる
六わんおんの そのうちに
によいりんぼさつの おんぢひに
あまねくすじよを すくわんと
六とうすじよに おたちあり
かなしきにょにんの あわれさは
けさまだすみしが はやにごる
ばんざがしたの いけのみづ
すすいでこぼす たつときは
てんもじしんも すいぜんも
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九夜みいどへ いるときは
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじょどへ いちらいす
まんだがいけの なんじよも
いつかこころも うつれける
けふ十九夜と しきとくに
によらいみいども ありがたや
ずしんのおやたち ありありと
すくわせたまへや くわんぜおん
そくしんぢよぶつ なむあみだ
十九夜ねんぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ」
<十九夜念佛巻本>
「きみよちよらへ 十九やのー
ゆらへを くわしく たづぬれば
にょゑりんぼさつの せいぐわんに
あめのふる夜も ふらぬ夜も
いかなるしんの くらき夜も
いとわずたがわづ きたへなく
十九夜をうとへまへるべし
とらの二月の十九日
十九夜ねん佛 はぢまりて
十九夜ねん佛 もうすなり
ずいぶに あらたに 志ようじんし
をうしょしょじの ふだをうき
しゑしてじょうどへ ゆく人は
みよほりんげの花なさけて
十ぼう はるかにしづまりて
ふきくる風もをだやかに
天よりにょいりんくわんぜをん
たまのてんがいさしあげて
八万ゆぅよの ちの池を
かるさのいけと みてとふる
六わんおんの そのうちに
にょいりんぼさつの をんりひに
あまねきすじよを すくわんと
かなしきによにんの あわりさは
きさまですみしが はやにごる
ばんざがしたの 池の水
すすゑでこぼす たつときは
天もじゅしんも すゑじんも
十九夜をどへ いるひとは
ながくさんずの くわのがれ
ごくらくじようどへ いちらへす
まんざかいきの ながじょも
いつか心も うかめきる
きよ十九夜と しきとくは
によらへみゑども ありがたや
じしんのをやたち ありあれと
すくはせ給へや くわんぜおん
しょくしんりょぶつ なむあみだ
十九夜ねん佛 なむあみだっ なむあみだ」
<昭和二十一年十九夜念佛帳>
「きみやちょらい 十九夜の
ゆらいを くわしく たづぬれば
によいりんぼさつの せいぐわんに
雨の降る夜も 降らぬ夜も
いかなるしんの 暗き夜も
いとわずたがわず きだいなく
十九夜お堂へまいるべし
寅の二月十九日
十九夜ねんぶつ 初まりて
十九夜ねんぶつ 申すなり
ずいぶに新に しよじんし
おうしょしよじの ふだを受
ししてじょどへ入る時は
みよほうれんげの 花さきて
十ぽうはるかに しづまりて
吹きくる風も をだやかに
天よりによいりん くわんぜをん
玉の天がへ さし上げて
はちまんすじょうの 血の池も
かるさの池と 見て通る
六わんおんの 其の内に
にょいりんぼさつの おんじひに
あまねくすじょうを 救わと
六堂すじよに お立ちあり
かなしきによりんの あわれさは
けさまだすみしが 早やにごる
晩ざが下の 池の水
すすいでこぼす 立つ時は
天もししんも 水神も
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九夜みいどへ 入る時は
長く三寸の くをのがれ
ごくらくじょどへ いちらいす
まんだが池の ながじょも
いつか心も 移りける
きょ十九夜と しきとくに
によりんみいども ありがたや
じしんの親たち ありありし
救わせたまへや くわんぜおん
そくぜんじょぶつ なむあみだ
十九夜念佛 なむあみだ なむあみだぶつ なむあみだ」
<昭和二十一年九月十九日十九夜念佛紙>
「きみようちよらい 十九夜の
ゆらいをくわしく 尋ねれば
によいりんぼさつの せいぐわんじ
雨の降る夜も 降らぬ夜も
いかなりししんの 暗き夜も
いとわずたがわず きらいなく
十九夜御堂へ 参るべし
寅の二月十九日
十九夜念 初まりて
十九夜念佛 申すなり
随分改め しよじんし
おうしよしよじの 札を受け
しして浄土へ入る人わ
妙法れんげの 花咲いて
十方はるかな 鎮まりて
吹きくる風も をだやかに
天よりによいりん 観世音
玉の天がい 差し上げて
八まんすじょうの 血の池も
かるさの池と 見てとをる
六わんおんの 其乃内は
にょいりんぼさつの 御じひん
あまねきすじよ すくわんと
六どすじよの おたちあり
かなしき女人の あわれさわ
きさまだすみしや 早やにごる
○○わしたの 池の水
すすいでこぼす 立つ時わ
天もぜぜんも すいぜんも
ゆるさせ給へや 観世音
十九夜御堂へ 入る人わ
永くさんづの 苦をのがれ
ごくらくじょどへ いちらいす
まんだら池の ながじよも
いつか心が うかめける
今日十九夜と しきとくる
めわかめいどの ありがたき
じしんの親たち ありありと
すくわせ給いや 観世音
しよくせん成佛 南むあみだ佛」
<十九夜念佛本>・・・印刷した和讃本を念仏
「十九夜念佛
きみやうちよらい 十九夜の
ゆらいをくわしく たづぬれば
によいりんぼさつの せいぐわんに
あめのふる夜も ふらぬ夜も
いかなるしんの くらきよも
いとわずたがわず きだいなく
十九夜おどーへまいるべし
とらの二月十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなり
ずいぶにあらたに しよじんし
おうしよしよじの ふだをうけ
ししてじよどへいるときは
みよほうれんげの はなさきて
十ぽうはるかに しづまりて
ふきくるかぜも おだやかに
てんよりによりん くわんぜおん
たまのてんかい さしあげて
八まんすじようの ちのいけも
かるさのいけと みてとほる
六わんおんの そのうちに
によいりんぼさつの おんじひに
あまねきすじよを すくわんと
六とうすじように おたちあり
かなしきによにんの あわれさは
けさまだすみしが はやにごる
ばんざがしたの いけのみづ
すすいでこぼす たつときは
てんもじしんも すいぜんも
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九夜みいどへ いるときは
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじよどへ いちらいす
まんだがいけの ななじよも
いつかこころも うつりける
きよ十九夜と しきとくに
によいりんみいども ありがたや
じしんのおやたち ありありと
すくわせたまへや くわんぜおん
そくしんじょぶつ なむあみだ
十九夜ねんぶつ なむあみだ なむあみだぶつ なむあみだ」