マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

別所町の弁天さん

2012年09月07日 07時38分39秒 | 奈良市(東部)へ
ビヤビヤボヤと鳴くニホンアマガエルでもなく、コロコロコロと鳴くモリアオガエルでもない。

ピリピリピリと鳴くシュレーゲルアオガエルやギャギャギャと鳴くダルマガエルでもなく・・・。

ウガウガウガと鳴くヌマガエルとはまったく違う鳴き声。

キュルキュルと鳴く・・・おそらくニホンアカガエルであろうか。

キュウルキュルと鳴くヤマアカガエルとはほど遠い。

きちんとそれを収録しておくべきだったと悔やまれる別所町のカエルの姿は見えない。

この日訪れたのは奈良市の別所町で行われている弁天さんだ。

弁財天は各地に祀られている。

それらは決まって7月7日の日。

弁天さんの祭りはあちこちで行われているそうだ。

何故にこの日なのだろうか。

顔が映るという弁天池(防火用水)は前日に洗うと云っていた。

奇麗な水鏡に写った顔は「弁天さん以上になったらあかん」というが、前夜はカミナリが鳴り、突風が吹き荒れた大嵐だった。

家にいたらカミナリが光って家中の電気がバチバチと鳴った。

恐ろしくなって社務所に避難しようと思ったぐらいだと話す婦人。

とてもじゃないが、それはできなかったという。

7日の弁天さんはめいめいがお参りをする。



神事をするわけでもなく、めいめいだ。

別所町の弁天さんは本社金刀比羅神社の境内にある。

正式には弁財天女社だ。

そこには燈籠も立ててある。

「施主 当村 寶暦十一年(1761)五月吉日」と刻まれている年号。

御宝前の文字がある三大明神の燈籠は「享保九年(1724)」だ。

弁財天女よりも37年前。

いずれにしても古くから祀られている。

祭礼に来られる人たちの顔ぶれは変わりない。

いつもと同じように風呂敷に包んだ御供を持参する。

この日はいつ何時雨が降るやも知れないと、斎壇は社務所に設えた。

例年は神社鳥居の前に置くのだが、心配で仕方なくと話す。

まずはお参りやと弁天さんの前に並んで手を合わせる。

次に来た人たちもそうしている。

一斉に揃ってということなく、こうしてお参りを済ませて社務所にあがった。

いつもなら極楽寺の回廊に座ってだらだらしていると話す。

いつもの状況をこう話す。

現在の弁天池は防火用水。

かつて池であったときは真ん中に石で積んだ地に弁天さんのヤカタを祀っていた。

防火用水と化したらそこで祀ることはできない。

そういうことで境内に並べたという。

15年ほど前まではお供えにセキハン(赤飯)の突き出しがあった。

竹筒にセキハンを詰め込んで棒で突き出す。

それをするのは村神主(一老)の役目。

例年は12個だが、新暦の閏年は13個となるセキハン。

お盆に載せて弁天さんに供えたという。

突き出しのセキハンは参拝者にさしあげる。

村神主が一つずつ箸で摘まんで渡す。

参拝者は手で受けてよばれたとかつてのあり様を語る村人たち。

4月10日はコンピラサンだった。

そのときは白いゴハンを供えている。

昔はごっつおを重箱に詰め込んで参っていた。

最近は誰も来ないようになったという。

今年の8月5日は二日酒。

極楽寺で行われる行事である。

その日の朝は月並祭。

その日の晩はイセキで盆踊り。

太鼓を叩いていた。

櫓を立てた境内で踊っていた。

隣村からも大勢がやってきた。

踊る際にはゲタがへってもかなわんからと草鞋を履いてやってきた。

着物姿で踊るイセキの盆踊りはゲタでないと踊れないという。

そんな懐かしい話もでた弁天さん参り。

ほどよい時間に解散する。

(H24. 7. 7 EOS40D撮影)

ホオノハベントウのホオの葉から

2012年08月09日 06時31分45秒 | 奈良市(東部)へ
度々訪れる誓多林のN家。

この日はミトマツリとサビラキ取材のお礼である。

お話を伺っていたところ、「ホオノハベントウ」の話題になった。

田植えが終わればホオの葉の若葉が出だす。

それがある場所は家の近く。

採ってきてはホオノハベントウを作っている。

ホオノハを十字に置く。

熱々のご飯を置いて、コンブ、(ハナ)カツオに醤油を垂らす。

ホオノハを折ってワラで十字に縛る。

それを持って田畑に出かける。

ケンズイの時間になればそれを食べる。

朝とか晩とか、ご飯が熱いうちに作っておく。

作っておけば、ご主人は朝な夕なに食べていると話す。

今でもいっぱいあるからと採ってくださった。

その間に婦人が話す子どもの涅槃。

「ネハンスズメ ジュッパトッテ ホーイ」と声を掛けてお米を貰いに村中巡った。

お金を貰う場合もあったという。

上のほうにはお店があった。

大きい子どもが仕切って、集めたお金でお菓子を買いに行っていた。

それをしていたのは中学生までの男、女の子だった。

親が連れてきた子どももおった。

当番の家ではオゼンをよばれていた。

膳の料理には椀に盛ったジャガイモ、アブラケ、センギリダイコンもあった。

ダイコンはワリボシダイコンとかワラボシダイコンとも呼んでいた。

水菜のおひたしもあったが、いつしかカレーライスになった。

トーフやカモボコが入ったすまし汁のオツユもあったが、子どもがおらんようになって中断したという。

それは50年も前のことだと婦人は話す。

子どもはちょちょと生まれたが、一旦、止めたら復活はしなかった誓多林の子どもの涅槃である。

当番の家のオゼンは吉野膳であった。

村の子どもの人数分を作った。

子どもと云っても赤ちゃんは食べられない。

残した膳は風呂敷に包んで持ち帰った。

持って帰って食べた膳は法要のときに返す。

それを「送り膳」と呼ぶ。

その当時に掲げられていたとされる涅槃の掛軸は春の彼岸のときに萬福寺で掲げて法要を営んでいる。

続けて話されたのは家の風習。

大晦日に作ったモチはエベッサン、アマテラスに供える。

ツキノカズノモチは例年なら12個だが、閏年は13個。

オオバン、コバンの重ねモチをウラジロの葉を広げて載せる。

今はマルモチになったが、お膳の前にはお金も並べた。

お金に不自由せんようにと、1円、5円、10円、50円、100円、500円、千円、5千円、一万円とそれぞれの貨幣を並べた。

お膳は「センマイ センマイ」と云いながら、頭の上にあげた。

向ける方向はアキの方。

家人一人ずつ、順にその行為をする。

男性が先で次に女性の順だ。

床の間の「トクトクシン」に向かって「いただきしょうか」と云って始める正月の作法である。

(H24. 5.27 EOS40D撮影)

誓多林のサビラキ

2012年07月08日 08時42分09秒 | 奈良市(東部)へ
4月17日にミトマツリを済ませた誓多林のN家。

4末から5月2日までにかけて「良い日」にするというサビラキは、できれば大安の日にしたかったが、今年は気候が不順。

ぎりぎりいっぱい待ってこの日となった。

ミトマツリから数えて丁度の2週間後だ。

「今日はサビラキやいうてお供えを寄せている」と話す。

豊作を願う家の風習は、子どものときから母親がしているのをずっと見ていたご婦人。

「母親がしてらんねん」と話しながらサビラキに祀る一本の笹の葉を採ってきた。

付近の山からフキの葉も一枚採ってきた。

笹にお手製の御幣を括り付ける。



フキの葉には洗い米とゴマメのタツクリ(田作り)を入れて俵形にする。

いわゆるフキダワラである。

ワラで十字に巻いて、これも笹の葉に括りつけた。

できあがった笹の葉を手にして田んぼに向かう。



供える場所はミナクチ(水口)だ。

ご主人は自宅の育苗器で育てた苗を田植え機に積んでサビラキを待っている。

今春の気候は異様に寒かった。

草も伸びないから「畦のいちばん上を刈っただけで、大掛かりな草刈りはせんかった」と話す。

この日の風も冷たい。

田んぼの水温も低いであろう。

ミナクチに着けば直ちに笹を挿す。



豊作の祈りを捧げて手を合わせるご婦人。

毎年されている農家の営みである。

その作法を見とどけたご主人は田植え機を動かし始めた。

機械は4条植えだ。

かつては手押しの2条植えだった。

田植えを手伝う人もいた。

村の手伝いさんは我がとこが早めに済めば手伝いをする。

村全部の田植えを終えたら荷車に着替えを数着載せて町へ下りていった。

そこでも手伝いをしていたという日数は3、4日だったそうだ。



田植え機を操作して苗を植えていく。

苗箱がなかなか滑らず、機械が噛んでくれない。

家の苗床で育てた苗は4月5日にタネマキをした。

一週間後にはハウスに移した。

例年よりも2、3日早いサビラキは田植え初めの儀式。

天候の加減もあって苗はそれほど育っていない。

それゆえ根に土が付いていないという。

JAの苗なら根が張って田植え機は掴みやすいが、「最初の田植えはこんなもんだ」と話す。

当家が育てるお米はキヌヒカリとヒトメボレ。

早稲の品種だそうだ。

平坦の盆地部ではヒノヒカリが多いという。

ご主人が勧めるキヌヒカリは、コシヒカリのようなブランドものでないから一般受けせず売れない品種。

市場には出回らないという。

ヒノヒカリや極早稲のアキタコマチよりも格段に美味いのがキヌヒカリ。

家で食べるのはこれに限るという。

田植え機の調子を見ながら植え付けする。

歯抜けができたらサシナエはするが端っこだけだという。

田植えが進むにつれて苗が植わる。

そうすれば機械の苗箱は減っていく。

当然な流れ。

その様子を見ながら苗箱をネコ車(一輪車)で運ぶ婦人。

夫婦二人の共同作業だ。

奥さんが祀られたサビラキを見ながら田植えをする。

婦人の話によれば上誓多林の人は笹ではなくクリの木を使っているという。

木の種類は異なるが、サビラキは代々の先祖さんから受け継いできた農家の在り方であろう。

(H24. 5. 1 EOS40D撮影)

別所町極楽寺お大師さん

2012年06月25日 07時36分05秒 | 奈良市(東部)へ
番条町を含め大和では各地で弘法大師を奉る大師講やお大師さん参りが行われている4月21日。

その数は数え切れないほどに多い。

盆地平野部、山間などさまざまな土地で継承してきたお大師さん。

奈良市の別所町では7軒で営んでいる高野講がある。

弘法大師が開いた一大聖地の高野山。

それを信仰する別所町の高野講。

その夜は当番の施主家で掛軸を掲げて講中が手を合わせる。

念仏は唱えない。

それが始まるまでに前施主が新施主家に出向いて掛軸を引き継ぐ。

山をもっている高野講。

木を伐採してその代金で総まいりと云って高野山へ参るそうだ。

講中が亡くなったときは遺骨を高野山にもっていく。

奥の方にあるお寺だという。

そんな話をしてくれた講中の一人にOさんが居る。

その日の午後は極楽寺に集まる。

お堂の奥に入った人たちは3月のお釈迦さんのときと同じ顔ぶれ。

いつもそうなんだと話す。

そのときと同じように風呂敷に包んだ家のオソナエ。

古くから安置されているお大師さんは厨子の中。

手を合わせて席に着く。



本尊の木造阿弥陀如来坐像が安置されているお堂はとても狭い。

6人ほどで満席になる。

仕方なく廊下まではみ出した。



そこには威厳ある顔立ちの行者像もある。

中央の股ぐらに置かれたモノに目は届かない。

御供はヨモギモチやお菓子など。

ヨモギはこの季節もん。

ダンゴにする家もある。

田畑で摘んできたヨモギは米粉を混ぜて作った。

一斉に手を合わせて念仏を唱えることもなく、ただただお堂で語らい。

「何の秩序もなく、決まりもない。四月はお大師さんやいうて。集まってなんちゅうこともないダラダラと話しをしているだけだ」と話す村人たち。

お釈迦さんの日も同じような感じで、お堂の時間を過ごす。

こうしてひとときを過ごした人たちは供えたお菓子などを風呂敷に包んで持ち帰る。

御供のお下がりは家で食べるのだ。

「こんなことしかしていないのに何故か我が家に問合せの電話が架かってくる」というOさん。

息子さんがある参拝者に尋ねて判ったその秘密。

平成3年に偕成社から発刊された(吉野正美文・岡田栄一写真著の)『大和古寺めぐり』にその理由があった。

20年前の発刊だが本屋で売っていた。

ベストセラーだったのだろう。

頁をめくれば別所町の極楽寺が掲載してある。

そこには問合せの電話番号も。

名前はOさんの親父さんだ。

どういう経緯があったのか判らないが民家の電話番号を掲載してある本は珍しい。



謎が解けたOさん宅は萱葺き家。

高野講の当番家になる時期がくれば再訪したいものだ。

(H24. 4.21 EOS40D撮影)

誓多林のミトマツリ

2012年06月18日 07時33分52秒 | 奈良市(東部)へ
前月に八柱神社の造営上棟祭を営まれた奈良市の誓多林町。

氏子長老の奥さんは毎年の初春にミトマツリをしているという。

「4月初めの良い日にする」のだという。

「土用の入りに入ってしまえば土を触ったらあかんから」という。

今年の春土用の入りは4月16日。

その日から立夏までの期間は土を触らんというわけだ。

その期間中にミトマツリをするご婦人。

村で生まれ育った人だ。

母親のする仕草を真似て今でも続けている家のマツリごと。

随分前から村では苗代を作っていない。

本来のミトマツリは苗代に供えるのだがそれはない。

僅かではあるが、籾落としもしている。

それは家屋の中。

今年は3月20日ぐらいに籾を水に浸けた。

屋内の育苗器で育てていたが、今年は寒い日が続いて育ちは悪いという。

ミトマツリに奉るのは3月の彼岸講のオコナイで祈祷された「萬福寺牛王宝印」の書とウルシ棒。

それをごー杖と呼んでいる。

それに3月に田原の宮さんで行われた御田祭の松苗もだ。

田原の御田祭は毎年交替で茗荷町天満神社と日笠町今井堂天満神社で交互に行われている南田原町、誓多林町、此瀬町、中之庄町、矢田原町、中貫町、長谷町、和田町、須山町、杣ノ川町、横田町、日笠町の行事である。

今年は今井堂天満神社で行われたそうだ。

そこで祓った松苗は氏子総代が村に持ち帰って氏子の各戸に配られる。

その2本をハウス横に立てる。

書を挟んだウルシ棒。

その光景が似ていることから婦人はそれを「ハタタテ」と呼んでいる。



始めるにあたってそこに供えるハゼゴメを作る。

昨年に収穫したゲンマイ(玄米)を母親の代から使っているゴマ煎り器具で煎る。

ゲンマイは粳米。糠がついている玄米だ。

ゲンマイを入れて火で炙る。

蓋を締めているから煎り具合は判らない。



ときおり蓋を開けて焦げ具合の状態をみる。

ミュウ、ミュウという音が聞こえる。

爆ぜる音だという。

ちなみに餅米はフォン、フォンという大きな音がするらしい。

音は耳で、焼け具合は眼で確認されてできあがったハゼゴメは半紙に包んでおく。



自宅に咲いていたスイセン、アセビ、ツバキ、菜の花などを摘んでハウスへ持っていく。

ごー杖を立てて松苗を地面に挿す。



祈祷札がまるで旗のように見える。

まさに旗立てである。

お花も飾ってハゼゴメを置いて手を合わせる。



唱える詞はないが豊作を願うミトマツリの姿である。

ちなみに誓多林では毎月順番に交替するお灯明の板が回ってくる。



婦人の家のすぐ傍の八阪神社と本社の八柱神社の燈籠に火を灯す当番札だ。

昭和三十年四月吉日と書かれている。

かつては11軒で回っていたが今は6軒。

少なくなったという。

火を灯すのは毎日とされているが、風雨厳しい日はそれをしないから実質は月数より少ないらしい。

(H24. 4.17 EOS40D撮影)

長谷町新暦閏年の初庚申

2012年05月06日 08時42分23秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市長谷町では庚申さんを祀る庚申講がある。

峯出、清水、西谷、奥ケ谷、垣内それぞれの5垣内である。

新暦の閏年の初庚申の日には5垣内の講中がそれぞれの庚申石などに参る。

今年はその年にあたる。

4年に一度の庚申参りには塔婆を用意する。

その場所といえばヤドの家。

垣内を除く4垣内は初庚申にあたる2月29日に参るというが、実際は講中が集まりやすい29前後の日曜日のようだ。

講中が話すには清水と奥ケ谷は中旬に済ませたそうだ。

その名残が清水垣内の庚申塚にあった。

杉葉付きの塔婆を横に立て置いて中央には鳥居と花立てである。

ローソクを灯した痕がある。

4軒の講中が参ったとTさんは話す。

古い塔婆は傍らに捨ててある。

新しくした塔婆には文字が書かれている。

上のほうには梵字が五文字。

専門家でない私は判読できようがない。

その下に書かれていたのは「奉顕供養者為青面金剛庚申講中 家内安全五穀成就祈攸也 長谷講中」であった。

5垣内で用意した杉の塔婆は揃えて十輪寺の住職に書いて貰って祈祷したそうだ。

それゆえ全ての塔婆は同じ書であるという。

Tさんの話では塔婆の杉は植えてから5年ものがいいという。

太さがそれぐらいで丁度いいそうだ。

ちなみに昔は「ならまち」の庚申さんに参ったそうだ。

厄年のときは松尾寺にも参った。

随分前には簪(かんざし)も売っていたが、それはなかったという。

どうやらお店がなくなったようだ。

それはともかく、本来は旧暦の閏年に行われる庚申参り。

3年、2年、それとも4年間隔でやってくる旧暦閏年。

ややこしいから新暦に替えたそうだ。

今年は旧暦と新暦が重なった閏年であるだけにややこしい。

事情があって前月に行うことができなかった垣内の垣内。

9軒の講中の営みである。

かつては12軒だったそうだが、10軒になってとうとう9軒に減ってしまったという。

この日は昼過ぎにヤドの施主家に集まった9人。



手分けして庚申塚に奉る鳥居と花立てを作る。

前回に奉られたものを参考にしながら作っていく。

太い竹を切断して見本通りの長さにする。

サシガネで測ってノコギリで切る。

花立てはそうでもなかったが鳥居は複雑なだけに組み立てが難しい。

微調整をしながら2時間かけて作られた。

一息つけて山の上のほうにある庚申さんに向かう講中。

その場所はN家の奥のほう。



一人だけでは迷いそうになる山道だ。

「南無青面金剛」の文字がある庚申塚に立てた鳥居に花立て。

傍に塔婆も立てる。

洗い米、塩を供えてお神酒を注ぐ。

ローソクに火を灯して最初に参るのはヤドの施主だ。



場所が狭いだけに一人ずつ交替して手を合わせる。

こうして閏年の庚申参りを済ませた。

庚申塚には供えた鳥居、花立て、塔婆はそのままにしておく。

清水垣内もそうであった。

戻る道中に見つけたローソク立て。

そこには小さな藁束があった。

N家が毎年の12月31日に行っている「フクマン」の痕だ。

正月を迎える直前の24時ころ。

ここで「フクマン」をするという。



ローソクに火を点けて「フクマン」を呼ぶ。

ドグラ(土蔵)の扉を開けて「福」を呼び込むのだ。

昨今は危ないからとローソクをせずに懐中電灯が替りを勤めるそうだ。

その「フクマン」、清水垣内のT家では門やの前辺りで藁松明に火を点ける。

ここでは「フクマン」と呼ばずに「フクマロ」と云う。

「フク」は「福」だ。

「福」を迎える作法の呼び方があるという。

その場で「フクマルコイコイ」と3回呼ぶのだという。

家によっては細かな部分が異なる県内東山間等で見られる「フクマル」。

服忌のときはしないとTさんは言った。

ひと月遅れで閏庚申を参った垣内の垣内では伊勢講もあるという。

ヤド家に掛け図を掲げて行う伊勢講。

6月と12月にしているそうだ。

(H24. 3.17 EOS40D撮影)

かつての北村町に

2012年05月04日 08時23分04秒 | 奈良市(東部)へ
3月の社日の日は「ヒトツボマンバイ」と云って供える人も居るらしい。

一坪が満杯。

それほどたくさん実成りがいいということだ。

御田祭に供えた松苗サカキは苗代や田んぼに奉ってミトマツリ。

元は正月1日に参っていた年始参りは三日に移ったが、公民館で版木を刷ってお札を作った。

観音さんに寄ってみなで作ったという。

4月21日にはその観音堂でお大師さんもしている。

そこには「嘉永六年(1853)」に高井観音講中が寄進された鰐口(わにぐち)もある。

東京浅草にある観音さんは北村の観音だという。

真偽を確かめようと訪ねていったが断られたそうだ。

そんな話題が出た奈良市の北村町。

Tさんの母親が云うには御田祭の前日は村総出で東大寺二月堂に参ったそうだ。

二月堂を17へんも回った。

回る回数を示すのは竹の串。

受付に置いてあるのでそれを手にして回る度に置く。

すべてなくなれば17回も回ったことになる。

おじいさんやおばあさんが孫を連れて参った。

大勢だったからバスを借りて出かけた。

御田祭の前日といえば十一面観音悔過法要をされてきた二月堂修二会の結願の15日。

お堂にはだったん(韃靼)帽を被る式典があったが、それを横目に見ながら回ったという。

40年ほども前のことだと話す。

「お百度参りのような感じやった」というが、なぜに17回なのか、御田祭とどういう関係があるのか判らないと話す。

「17」の数字を考えてみた。

二月堂の盆踊りは9月17日(旧暦8月17日)で「十七夜」の盆踊り。

各地で行われている観音講の営みは17日。

観音さんの縁日・功徳の日だとされる17日に関係する数ではないだろうか。

二月堂修二会の満行に合わせてお堂を17回回る北村町の風習だったと考えたい。

(H24. 3.16 EOS40D撮影)

北村町戸隠神社御田祭

2012年05月03日 06時44分21秒 | 奈良市(東部)へ
2月3日の節分には煎った豆を持参して氏神さんに供えた。

次に来た人は豆を供えて置いてあった豆を持ち帰る。

ここにも節分豆の風習があった奈良市北村町の戸隠(とがくし)神社。

「享保元年(1716)十一月吉日」とある燈籠には「九頭大明神」。

「享保十九(1734)甲庚天五月吉日」も見られる灯籠。

その他に「明治三十七年七月七日 戸隠神社」や「昭和六年 戸隠神社 道具市次郎寄進」なども。

明治時代以前は九頭神社と呼ばれていたのだろう。

この日は氏神さんの御田祭。

御田祭(おんださい)には松苗だという人もおられたが、この日に作られたのは松とサカキの木。

サカキは常緑性の葉をもつだけにツバキと間違って採ってくることもあるそうだ。

2本の松とサカキに数粒の稲籾を半紙に包んで括りつけて20本ほどこしらえた。

神饌はサイラと呼ぶサンマの開き。

海の産物であれば、サバ、アジなど何でも構わないという。

野菜も祭り時期に採れるものなら何でもいいと言って今年はミブナ。

いずれもマツリの座の大座がこしらえる。



それを本殿に供えた村神主。

五穀豊穣を願って祝詞を奏上する。

秋のマツリは氏神祭り。

三つの座のマツリであるが御田祭は村行事。

座とは関係なく営まれる。

それを済ませた人たちは公民館に上がる。

当番の人が作ったおつゆとともにテーブルで直会だ。

この日から勤めることになった村神主の挨拶で始まった。

昨年まではトウキダイコン(干しダイコンのこと)を輪切りにして味噌汁に入れた。

トウキダイコンは寒干し。

正月祝いの木に吊るして、大座が作ったそうだ。

今年は即席の味噌汁。形式を替えずに手間を省いた。

行事の在り方は年々変化するそうだ。

かつては団子を搗いて奉っていた。

それはお菓子になった。

お菓子は封を開けてバラバラにしていたが面倒になり一袋。

一世帯に一つとした御供の数。

それは交換して持ち帰るようになった。

節分の豆と同じ形式である。

昨年まではキジのタマゴと呼ばれるお供えもあった。

粳米が7合で餅米が3合。

6:4の割合でも構わないと云う。

それを粉にして水で溶いてオニギリにする。

白粉(しろこ)を塗して卵の形。

それをワラで作った巣のようなものに置く。

まさにキジのタマゴである。

ワラの巣は正月参拝に作っておくという。

オニギリにキナコを塗したときもあった。

形式は徐々に変化してオハギになったこともあったと話す。

猿が出没している。

その数は50匹にもおよぶ。

三つぐらいのグループが居る。

それが集まるとまるで猿山のような光景だったと口々に話す。

「青いウンコ」もあったという。



そんな村の会話をしながら食べるオハギはとても美味しかった。

(H24. 3.16 EOS40D撮影)

別所町極楽寺お釈迦さん

2012年04月29日 06時24分55秒 | 奈良市(東部)へ
3月第一日曜に弓の的が行われた奈良市別所町の金刀比羅神社。

六社権現を祀る。

そこには神宮寺と思われる極楽寺がある。

昭和52年に県文化財に指定された本尊の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。

ときおり寺を訪ねる人がいるという。

前もって参拝を願われる人には用意しておいたご朱印が授けられる。

地蔵菩薩立像と不動明王立像も配置したありがたいご朱印だ。

普段は一般公開をせず閉扉しているお堂。

厳重なセキュリティで守られている。



そのお堂の回廊に置かれていたヤマダケの矢と竹で編んだ的は弓の的行事の名残。

鬼の的は見られないが竹が残されている。

竹はウラとオモテを交互に編んでいる。

それを貰って帰る村人たち。

味噌とか醤油樽の上に置いておくと美味くなるという。

お札を括ったサカキもある。

それは行事に供えられた祈祷札でオンダ苗とも呼ぶが墨も朱印も滲んでいて判読できない。

「頭」の文字だけが読めた。

おそらく牛頭天王の文字ではないだろうか。

弓の的は最初に長老が矢を射る。

矢の数は12本。子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の方向を時計回りに射る。

それは12神。

最後に鬼の的を射るのだが、閏年は閏月があるだけに1本を増やすから一年の月数だ。

その様子は平成17年に拝見したことがある。

太鼓を打って長老から4人の当家衆に替わる。

それぞれが代わる代わるに鬼を射る。

それが弓の的の行事である。

それはともかくお堂には涅槃の掛け図が掲げられる。

めいめいは風呂敷包みを抱えてお堂に上がる。

中身は涅槃さん供えられる御供だ。

持参したお盆に乗せたまま供える。

数年前(5、6年)に表具した掛け図の前に供えてお堂に座る。



ローソクに火を灯すが村人は座ったままだ。

念仏を唱えるわけでもなく談話する。

温かいストーブがお堂を包む。

この日に集まった人は8人。

村の行事などを話している。

ひとときのお釈迦さんと呼ばれる涅槃会を過ごした人たちは供えたお菓子などを風呂敷に包んで持ち帰る。

御供のお下がりは家で食べるのだ。

(H24. 3.15 EOS40D撮影)

中(ノ)川寺跡五輪塔

2012年04月08日 07時33分37秒 | 奈良市(東部)へ
興福寺領であった奈良市中ノ川。

平安時代末期、中川寺成身院によって戒律復興を唱えていたという所縁の跡地。

県道脇から下っていけば五輪塔がある。

実範上人廟塔と伝承されるそうだ。

周囲は奇麗に清掃されてお供えもあった。

石塔巡りをされている人がときおり訪れるらしい。

五人衆の話ではここを「牛塚」と呼ぶそうだが共同墓地であったかも知れない。

そこにも五輪塔があるという。

(H24. 2.18 EOS40D撮影)