マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

長谷の植え初め

2013年09月10日 08時20分27秒 | 奈良市(東部)へ
天理市の山田町から福住町へ通り抜ける。

北へ向かう道中に出合った植え初めは奈良市の長谷町にあったウメゾメの姿。

おそらくTさんが挿したウエゾメの松苗にヤナギと幣だと思われるが、本人は居られず、判らずじまいだった。

そこから数百メートルも走れば畑作業をされていたN家に出合った。

Nさんの話しによれば長谷町ではいち早くされる農家は4月26日、27日辺り。

だいたいがゴールデンウイ-ク初めの5月3日にするそうだ。

(H25. 5.12 EOS40D撮影)

淡路島地震再来かと思えた大野町十輪寺落慶法要の日

2013年07月31日 06時58分46秒 | 奈良市(東部)へ
平成12年に発案されてから13年間。

紆余曲折を経て新しく建築された奈良市大野町の十輪寺。

昨日までは風が強く吹き荒れる日が続いていたがこの日は快晴。

念願の落慶法要に天の恩恵を受ける。

数年間の建築準備を経て実行委員会が組織されてこの日を迎えた。

元禄時代までは真言宗新義派で長谷寺の末寺だった十輪寺。

以後は法隆寺の末寺となっていたが昭和17年より真言宗東寺派である。

この日の朝起きにセットしていたタイマーは6時半だった。

そんなことは寝てしまえば忘れてしまう。

寝ているときのことだ。

雨戸がガタガタと音を立てる。

大風が吹いていたと思った。

であれば良いのだがガタガタと家が揺れる。

地震だ。

思わずガタっと起きた。

ゆっさ、ゆっさ揺れる横揺れはまぎれもない地震。

阪神大震災を思い起こす揺れ。

ふらふらと立ちあがり廊下をゆくも揺れている。

テレビをつけた瞬間に音声が流れたピロピロの警報。

5時33分だったと伝える映像は淡路島。

震源地だと伝える震度はマグニチュード6.3だ。

被災状況を市町村担当者に電話応答される。

それから1時間後に伝えた交通状況。

JR線は全線見合わせ。

不通になった地域もある。

そんな影響を受けた神戸の僧侶。

大幅に遅れて到着した落慶法要は既に進行中であった。

不謹慎ではなくこの日に起こった地震の影響であるが、被災した淡路市の状況を伝えるテレビのニュース。

余震はこの夜も続いている。

お稚児さんの練供養が出発した。



田んぼが広がる田原の里。

美しく着飾ったお稚児の行列が続く。

先頭は僧侶の会奉行に貝吹きが続く。

白装束の金棒引き、裃姿の檀家代表、大師講元・仏青会長、檀家総代。

赤い傘は職衆と呼ばれる僧侶たち。

東寺派真言宗の僧侶たちは各地からやってきた。

後列がお稚児さんだ。

参加人数は多く長い行列になった。

ひと目見ようと行列を見守る村の人たちも笑顔で迎える。

新しくなった大伽藍の本堂前で記念撮影。

人数が多いだけに時間もかかる。

そうして始まった落慶法要。

入堂された職衆たち。



始めにお稚児が献花をする。



檀家役員から菊の花を受け取って一人ずつ献じるお花がずらりと並んだ。

十輪寺に集まった人たちは田原の里人。

かつては添上郡田原村と呼ばれていた地区は茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村、中ノ庄村、誓多林村、横田村、大野村、矢田原村、和田村、南田原村、須山村、沓掛村、中貫村の十五ケ大字からなる。

(H25. 4.13 EOS40D撮影)

誓多林萬福寺彼岸講のオコナイ

2013年07月08日 07時40分13秒 | 奈良市(東部)へ
早朝に集まった上と中誓多林の彼岸講の男性たち。

中誓多林にある萬福寺裏山の雑木林を伐採していた。

ギューンと唸るチェーンソーの音が遠くまで響かせる誓多林の里山。

毎年は彼岸近い中旬日曜に行われる萬福寺のオコナイであるが村の都合で一週間遅い日になった。

平成22年に落慶法要された萬福寺にはオコナイで作法されるウルシ棒を並べている。

先は斜めに切断され三つ又に割いている。

その形容はまるで牛の爪のように見える。

伐採作業は2時間かかった。

綺麗にさっぱりした面持ちはどことなく達成感があるようだ。

本堂の壁には大きな掛け図がある。

同年に新装された絹本の涅槃図である。

オコナイが行われるこの日に掲げられた涅槃図は異様に感じるが、これには理由がある。

オコナイと涅槃の日は別々の日に行われていた。

住民の減少などにより行事を行うことが困難になってきた。

そこで一日に纏めてすることにしたと話す。

彼岸の日に掲げていたのは涅槃の掛け図。

彼岸講の行事である。

オコナイは村の行事の初祈祷。

村の五穀豊穣や村中安全を祈る村行事が合わさって行われるようになったのであろう。

隣村の大野町にある十輪寺の住職がやってきた。

翌月の4月13日には本堂建て替えの落慶法要が営まれる予定だそうだ。

早速取りかかった住職の作業はウルシの棒に挟む祈祷札作り。

一枚、一枚、「牛王 萬福寺 宝印」と墨書する。書き上げられ都度、当番の人が朱印を押していく。

出来上がるたびに四角折りしてウルシ棒に挟む講中たち。

ウルシに負けるからと、一切触れない人も居る。

作った祈祷札は18枚。

上、中誓多林の家の数に十輪寺の分も加えた枚数である。

奈良市誓多林町は旧柳生街道沿いに連なる村々。

白砂川上流から上誓多林、中誓多林、下誓多林地区が東西に点在している。

行政割りで誓多林町に組み込まれた下誓多林地区は、その時代だけでなく昔から大平尾(おびらお)の括りであったと話す住職。

その大平尾は、忍辱山、大慈仙、大柳生括りの添上郡大柳生村であった。

誓多林は茗荷、此瀬、杣ノ川、長谷村、日笠村、中之庄、横田、大野、矢田原、和田村、南田原、須山、沓掛、中貫括りの添上郡田原村。

今では田原の里と呼ばれているこれらの地域では勧請縄は見られない。

ところが下誓多林では勧請縄掛けがある。

蛸の形をした房を下げる勧請縄は大柳生に見られる。

忍辱山にもあったが平成23年が最後になった。

地域は限定されるが田原の里にない勧請縄は大平尾に属する下誓多林であったことに納得するのである。

できあがった18本のウルシ棒は涅槃図の横に並べた。

平成23年では祭壇前であったがどうやら変化したようだ。



堂内に座ったのは半数の男性たち。

若い者は外で待つ。

住職のお経が始まった直後のことだ。

大きな声で「ラーンジョー」が発せられた。



すると堂外に居た人たちはウルシ棒を手に持って縁を叩き出した。

その数は十数回。

バタバタの音がなくなって、お経が再び堂内に流れる。

それから数分後のことだ。

再び、「ラーンジョー」が発せられた。

太鼓が打たれて縁をウルシ棒で叩く。

悪魔払いとされるランジョーはダンジョウとも呼ぶらしい。

叩き終わったウルシ棒は役目を終えて直ちにとんどで燃やされる。



その後はランジョーをされた人たちも本堂にあがって般若心経を唱えて真言で終える。

祈祷されたお札はウルシ棒ごと家に持ち帰る。



4月末から5月初めにかけての一粒万倍の日に田んぼに挿すそうだ。

土用の入り後の良い日に挿していたのはNさん。

煎ったハゼゴメを供えて花を飾っていた。

そこにはオンダの松苗も挿していた。

他にも数軒がしているらしい。

ちなみに平成25年4月以降の一粒万倍日は5月24日、6月9日、21日がある。

(H25. 3.24 EOS40D撮影)

須山町子供の涅槃講

2013年07月07日 09時21分03秒 | 奈良市(東部)へ
2年前に訪れたときは冷え込みが厳しい朝だった。

この年は穏やかな朝を迎えた奈良市須山町。

子供のねはんこう(涅槃講)は春休みに入った頃に行われている。

2年前に訪れたときの子供は6人だった。

年長の中学生たちは卒業して残った子供が3人。

4月には小学1年生、3年生になる子供たちは3人ともⅠ家の子供たちだ。

13軒の須山町集落を巡ってお菓子を貰ってくる。



1軒、1軒巡る子供のねはんこうは子供たちの楽しみの一つ。

元気よく集落を掛け巡る。

巡る順は一昨年と同じだった。

かつては子供も多くいた。

西出、東出に分かれて競争をしていたと話すのは経験者たちだ。

それぞれの垣内には当番のトーヤ(当家)が存在していた。

いつしか子供も少子化となって数年前に一体化した。

保護者がついていくが本来的には子供だけで回るねはんこうである。

今ではお菓子貰いになったが50年ほど前はキリコやカヤの実だった。

煎った豆もあったが落花生に替った。

美味しい食べ物は当時のおやつである。

寒の入りともなればカンノモチを搗いた。

サイノメに切ったモチは乾かして座敷に広げた。

カンノモチを藁紐で編んでぶら下げた。

それがキリコと呼ぶおやつである。

そんな話をしてくれたのはⅠ氏のご両親。

懐かしそうに笑顔で話す。

お菓子貰いを終えれば円福寺があったとされる高台地へ向かう。

そこへ行くまでにトーヤから受け取ったご飯。

お皿に盛ったご飯を抱えて出かける。

高台地には地蔵さんと呼んでいる石仏群がある。

如意輪観音や行者石仏などだ。



授かったご飯を箸で摘まんで刷り付けるように塗る。

塗るというよりも置いているような感じだ。

子供が大勢いた時期は西出、東出のどちらが早く着いてご飯を塗り始めていた。

「負けたらあかんねん」と競い合ったのは随分と前のようだ。

「負ければ椀を洗わなければならない」と聞いたのは2年前の話者だ。

そのときにしていた子供たちは如意輪観音像や行者像の石仏に塗りたくっていた。



付き添ったⅠ氏は40歳。

「ご飯を塗るのは如意輪観音だけだ」と話す。

どうやら年代が経つにつれて作法が替っていったようである。

この日は先輩である父親の指図で如意輪観音像の石仏に塗りたくった。

Ⅰ氏が付け加えて話したご飯塗り。

昭和15年生まれのM氏の話によれば、当時は箸でなく手で直に塗っていたと話す。

60年も前のことだ。

先を越されたときには塗っていた子供に「どけ」と云って塗っていたそうだ。



こうしてご飯を塗り終えれば箸を折って如意輪観音像の石仏の肩に置く。

60年前のM氏の時代は手。

30年ほど前のⅠ氏の時代は箸である。

作法は手から箸に移り替っていたことが判明したのである。

手の時代には箸を折ることはなかったのである。

大きな変化が認められたが須山町の子供のねはんこうは今年も無事に終えた。

(H25. 3.24 EOS40D撮影)

中誓多林の十九夜さん

2013年05月27日 07時46分48秒 | 奈良市(東部)へ
昨日に降った雪が積もっている奈良市誓多林町。

平坦ではなく東の山中の村である。

田んぼは真っ白で街道もところどころ凍っている。

バリバリと車体を擦る音がする。

今年は積雪が多い寒い日が続く。

誓多林町は白砂川の上流から上誓多林、中誓多林、下誓多林地区が東西に点在している。

この日は中誓多林の十九夜さん。

本来なら19日であるが集まりやすいその日に近い日曜日にしている。

勤める婦人は4人。

随分と少なくなったが今でも続けていると云う。

かつては村のお寺の萬福寺でしていた。

八柱神社の社務所は村人が寄りあう公民館である。

施設ができてからは公民館に移った。

如意輪菩薩の掛軸を掲げるようにはできていない公民館。



窓側に寄せて掛けた掛軸は最近になって表装し直した。

美しい姿の如意輪観音菩薩の隣に掲げた掛軸がある。

平成21年4月にN氏が製作された自筆の観世音菩薩像に般若心経の唱文を添えた掛軸も掲げた。

二幅の如意輪観世音菩薩の掛け軸の前に机を据えて仏飯やお菓子などを供えた。

灯明に火を点けて唱える和讃は十九夜和讃。

板張りの広い室内に響き渡る女人の唱和。



およそ5分間の和讃は最後に南無観世音菩薩を三回唱えて手を合わせた。

それからの時間は婦人たちの会食の場になる。

以前はイロゴハンを炊いて食べていたが、頼んでおいたパック詰め料理に汁椀を配膳して席に着く。



一年に一度の十九夜さんの日は語らいの場である。

かつては12月にもしていたと云う十九夜さん。

場は畳敷きの座敷だった。

囲炉裏に入れた割木を燃やして暖をとっていた。

観音さんは子供の神さんでもあるからと云って、和讃を終えるころに子供が集まってきたそうだ。

一方、上誓多林の十九夜さんは平成23年2月に取材させていただいたことがある。

上誓多林も中誓多林と同様に19日に近い日曜日であった。

ここでは明治二十七年や昭和二十九年の十九夜和讃本が残されている。

中誓多林の和讃本は昭和30年と57年に記されたものである。

<昭和30年10月の十九夜和讃本>
「我昔所造諸悪業
皆由無始貪顚□
従身語意之□生
一切□今皆□悔
南無帰依佛
南無帰依法
南無帰依□」
「きいみよう ちよらい 十九夜に
由来を くわしく 尋ぬれぞ
によいりん ぼさつの せいがんに
雨めのふる夜も ふらぬ よも
いかなる眞んの くらき よも
いとはず たがわず きたいひなく
十九夜 み堂へ まいるべし
とらの 二月 十九日
十九夜 念佛 はじまりて
十九夜 念佛 もうすなり
南無阿彌陀佛 阿彌陀佛
ずいぶん あらたよ しよじんし
おうしょう しょうじの ふだをうけ
死して 浄土へ 行くさきは
妙法蓮華の 花 さきて
十方 はるかよ しずまりて
吹きくる風も おだやかに
天より 如意輪 観世音
玉のてんがい さしあげて
八萬余丈の 血の池も
かるさの 池と 見て とほる
六観音の そのうちに
如意輪ぼさつの 御慈悲よ
あまねく しゆじょうを すくわんと
六道 しやじやよ おたちあり
かなしき 女人の あわれさは
今朝迄 すみし 早やにごる
ばんぜが 下の 池の水
すすいで こぼす たつときわ
天も地神も 水神も
ゆるさや 給へや 観世音
十九夜 み堂へ いる人は
長がく さんずの 苦をのがれ
極楽浄土へ いちらいす
まんだが池の ななじよも
いつしか 心が 浮かみける
けふ 十九夜を しきとくよ
南無阿彌陀佛 あみだ佛
如意輪 めいども 有がたや
じしんの 親たち ありありと
すくわせ 給へや 観世音
即身成佛 南無阿彌陀
南無如意輪 観世音菩薩
種種 重罪 五逆 消滅
自他 平等 即身成佛
南無観世音菩薩」

<昭和57年11月の十九夜和讃本>
「きみよぅちょうらい 十九夜の
ゆらいを くわしくたづぬれば
によいりんぼさつの せいぐわんに
雨のふる夜も ふらぬ夜も
いかなるしんの くらき夜も
いとわず たがわず きらいなく
とらの二月の 十九日
十九夜みどうへ まいるべし
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなり
南無あみだぶつ あみだぶつ あみだぶつ
ずいぶに あらたに しょうじんし
をしよう しよじの ふだをうけ
死して じょうどへ ゆくときに
みようほうれんげの 花咲きて
十方はるかに しづまりて
ふきくる風も おだやかに
天より によいりん くわんぜおん
たまの天がい さしあげて
八まんよじゅんの 血の池も
かるさの池と みてとおる
大くわんおんの そのうちに
によいりんぼさつの おじひにて
あまねくしゅじょうも すくわんと
六どしじうおうに おたちあり
かなしき によにんの あわれさは
けさまですみしは はやにごる
南無あみだぶつ あみだぶつ あみだぶつ
ばんじがしたの 池の水
すすいでこすは たつときは
天も 地神も 水神も
ゆるさせたまえや くわんぜおん
十九夜 みどうへ 入る人は
長く三づの 苦をのがれ
ごくらく浄土へ 一らいす
まんだら池の ないしよも
いづるこころも うかれける
今日十九夜と しきとくに
によがみ いとも ありがたく
自身の おやたち あれありと
即身成佛 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛」

(H25. 2.17 EOS40D撮影)

大野町のケッチン

2013年04月22日 07時47分56秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市大野町は田原の里の一角。

テンノウザン(天王山)の地に点在する集落は14軒。

早朝にやってきたのはマツリトーヤ(当家)のご主人。

数日間に亘って刈り出したケッチンの材料。

ススダケ(ススンボとも)と呼ばれる長い竹、松、シキビ、ヤマザクラの材料は山へ登って確保してきた。

山の方には数多くの寺院があったと話す長老の一老。

石垣が残っている地は「ボウズキリ」の地名がある。

東大寺の所領地の一つにあたる農林の地だったそうだ。

大野町には明治の頃まで神社があった。

それは隣接する日笠町の今井堂天満神社に合祀したというかつての宮さん大野町の公民館にあったと話す。

今井堂天満神社は鎮座する日笠町、大野町、沓掛町の三町の氏神さんである。

明治43年には沓掛町にあった白山神社を、その後の大正6年に大野町の八阪神社が合祀されたのである。

マツリのトーヤは1月から一年間。

秋のマツリの宵宮には素襖を着用してお渡りをしていると話すのは今井堂天満神社の秋祭りではなく大野町のマツリであるようだ。

そのような話題をしてくれた六人衆の一老と二老。

この日は大野町の行事であるケッチン。

製作した鬼の的をススダケで作った矢で射る正月初めの行事である。

ケッチンを充てる字は結鎮。

一般的にはケッチン或いはケイチンとも呼ばれる正月の初祈祷行事であるが大野町ではキッチンとも呼ぶことがある。

ケッチンに用いられるものを作るのは一老と二老、トーヤと翌年にトーヤを勤めるミナライである。

各々の役割で作業を進める人たち。

桜の木で弓を作る人。

ススダケを割いて矢を作る人。

洗い米を包んで奉書で巻きつけた松の芯。

鬼の的となるカゴを作る人それぞれが分担する作業である。

カゴのススダケは皮を残して中の節を取る。



相当な数の本数を割っていく。

編み方は隙間を開けて7、8本で編む。

四隅は外れないように麻紐で縛る。

矢は半紙を切って矢羽根を付ける。

本数は松の芯と同様に村の戸数分を作る。

その本数すべてを鬼の的を目がけて矢を射るのは十輪寺の住職だ。

公民館に祀られた毘沙門天像の両側に設えた葉付きのススダケ。



藁で編んだ綱を張って鬼のカゴを吊るす。

間には青竹がある。

鬼の的がずれないように工夫したのであろう。

鬼の的は住職が予め書いてきた。

およそ1時間半の作業を終えて設えた鬼の的に向かって座る住職。

囲むように4人も着座する。

両脇にはシキビも飾られた。

立ちあがった住職は弓を持って矢を射る。

祈祷することなくおもむろに始まったケッチンの鬼打ち。



「やっ」の掛け声とともに矢を射る。

鬼の真正面目がけての鬼打ちは14本。

鬼はずたずたになった。

村人たちが畏れる鬼は悪霊。

矢を射ることによって退治された。

村の安全を願って追い払ったのである。

祭壇のローソク灯明に火を灯して香を焚く。

おんさらばと真言を唱える。



ランジョーの詞も混じる真言おんそわか。

鬼を成仏させて村人の安全祈願に般若心経を唱和する。

ケッチンに供えた松の芯は村人に配られる。

かつては田原の里一帯で苗代が作られていた。

JAから購入するようになった現在は3町の宮さんのオンダ祭で配られる松苗をともにサブラキ(田植え初め)のときに花を添えて奉ると云う。

(H25. 1.12 EOS40D撮影)

上誓多林家の注連縄張り

2013年03月15日 07時59分35秒 | 奈良市(東部)へ
カラスドンノモチの風習を拝見して上流の上誓多林に向かった。

ここでは家のぐるりを囲むように長い注連縄を張っていた。

間隔をあけてウラジロとユズリハを取り付けていく。

交互に七、五、三の注連縄飾り。

例年の場合は午前中。

この年は夕方近い時間になったと話す。

大きな形のウラジロは先ほど採ってきたという旧柳生街道挟む2軒の家。

挨拶をすれば存知している両家であった。

両家とも家の端から端まで長い注連縄を張る。

長さは25mにもおよぶ。

かつてはもっと長くて家の周りまで張っていたそうだ。

今では2軒になったが昔は付近の家々がしていた注連縄張り。

街道沿いの家ではみなそうしていたという。

北側家屋のⅠ家の玄関にあった道具。



古そうに見えた道具を拝見した。

それには「安政五年(1858)平時五月龍集日 和州石切飯倉彌正次」の記銘があった。

木製の木箱のような道具は江戸時代の消防ポンプ。

「龍吐水(りゅうどすい)」と呼ぶ手押しの消防用具である。

日本における消防ポンプの始まりが龍吐水。

手押しポンプで放水する様子が龍の口から水を吐くように見えることからその名が付いたようだ。

一説によれば享保年間(1716)にオランダから渡来したとされる。

確か同じような龍吐水と思われる道具を山添村の切幡で見たことがあるような記憶がある。

探してみれば他の地域でも見つかるのではと思った道具である。

ちなみに下流の中誓多林ではそれほど長くない注連縄を掛けるがある家では前庭辺りの樹木に掛けている。



集落或いは家によってそれぞれの飾り方である。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

中誓多林テンノウサンのカラスドンノモチ

2013年03月14日 06時53分36秒 | 奈良市(東部)へ
誓多林町では大晦日に八阪神社へカラスドンノモチを供えるというN家の風習がある。

テンノウサンとも呼ばれる八阪神社に垂らす注連縄と共にツツジの木の枝にモチを付けて供える。

閏年のときは13個にするという。

テンノウサンと呼ぶ八阪神社は小社。

かつては牛頭天王社と呼ばれていたのであろう。

誓多林町は旧柳生街道沿いに連なる村々。

白砂川上流から上誓多林、中誓多林、下誓多林地区が東西に点在している。

カラスドンノモチを供えるN家は中誓多林だ。

ここの本社は永正11年(1514)に創建された八柱神社である。

八阪神社はそこより数十メートル離れた地に鎮座する。

家からは目と鼻の先だ。

前日に搗いた正月のモチ。

カガミモチはエベッサン、アマテラスに供える。

他にも一年の月数とするツキノカズノモチもある。

それは例年であるなら12個だが閏の年は13個だ。

オオバン、コバンの重ねモチはウラジロの葉を広げて載せる。

それらをお膳に乗せて前にお金を並べる。

不自由せんようにと、1円、5円、10円、50円、100円、500円、千円、5千円、一万円とそれぞれの貨幣を並べる。

「センマイ センマイ」と云いながら、頭の上にあげるお膳は正月の膳である。

奉る方角はアキの方角。

家人一人ずつ、順にその行為をする。

男性が先で次に女性の順だ。

床の間の「トクトクシン」に向かって「いただきしょうか」と云って始める正月の作法である。

それら正月のモチを搗いたときに残りの柔らかいモチをツツジに挿したカラスドンノモチ。



輪っかにしたウラジロの〆縄とともに持ってお参りをするご主人。

〆縄は小社の中に納めてカラスドンノモチは前に立てる。

手を合わせて拝むテンノウサン。

そうした風習をされているのは我が家だけのようだと話す。

しばらくすればカラスが飛んできた。

お参りしていたのをじっと見ていたのであろうか。

毎年のお参りに必ずといっていいほどやってくるカラスドンは人が去るのを待っているようだ。

こうした風習は奈良市長谷町の住民N家でもされていたが供えたのは前庭の樹木。

藁棒の内部にモチを詰め込んで樹木にぶら下げる。

山に住む野鳥が食べるというカラスノモチであった。

一方、天理市の藤井町でも行われている。

宮本六人衆の一人であるNさんの外庭で見られたカラスノモチである。

30日に搗いた正月のモチ。

その残りを小さくちぎって木の枝の先に挿す。

モチの数は12個だ。

四角い升に入れて庭に出る。

そして「カラコ カラコ モチやるわ ザクロ三つと替えことしょ」と言って枝に挿す。

閏の年はカラスドンノモチと同様に13個にする。

山の鳥獣らに施しをするモチは主にカラスが食べにくると云っていた。

供えたときの台詞にザクロがある。

何故にザクロを交換するのか意味は判らないと話していた。

奈良市都祁の小山戸で聞いたカラスノモチにも台詞がある。

クワの上にモチを12個入れて、クリの木かカキの木の下に置いた。

その際に唱えた台詞が「カラスコイ モチヤルゾ ジャクロミッツト カイコトショ」である。

正月用のモチを搗いたときにしていたそうだ。

「ジャクロ」はザクロ。

ここでも三つ交換する。

なにかのまじないではないだろうか。

カラスのモチは平坦盆地部においてもその風習があった。

天理市の楢町である。

『楢町史』によれば、昭和初期までは正月のモチに「カラスノモチ」があった。

13個作るというから閏年の月の数であろう。

「カラスノモチ」は「カラスこい、カラスこい」と云って、ゴンゲンさまの使いのカラスにモチをやっていようだ。

(H24.12.31 EOS40D撮影)

丹生町丹生神社宵宮田楽

2012年12月28日 08時01分41秒 | 奈良市(東部)へ
2年前までのお旅所は当家の前庭だった。

負担を避けて経費の上限を決めた奈良市丹生町の秋祭り。

お旅所の場はふれあい会館に移すことにしたという丹生神社の祭り。

かつての祭りは10月15日、16日だったが、現在は16日に近い土、日曜。

宵宮の前日までに注連縄を張りかえる。

縄を結うのは高齢者たち。

紅白のモチもこしらえた。

手の掛かる部分は今でもこうしていると話す氏子。

若い人に継いでいきたいと云う。

宵宮は籠りの夜。

ひとときの夜を過ごすのは家から持ちこんだ布団。

何人もの人が泊られるようだ。

籠りと称していても泊りを止めた地域が多い。

東山間ではこのように布団を持ち込んで今尚籠りをしている。

隣村の水間町や山添村の的野で拝見したことがある。

夜も19時になれば子供たちもやってきた。

賑わいが増してくる丹生町の夜更け。

炊き出しに煮込まれたおでんに心が温もる。

おでんは神さんと共によばれる神振りで実行委員会が奉仕する。

村を巡行する子供御輿が置かれた丹生神社の境内。

曳行するのが楽しみだとFさん一家も勢ぞろい。

イッショウモチ背負いのハツタンジョウイタダキの膳三日地蔵などの家の行事を取材させていただいたご家族だ。

初誕生の祝いを受けた子供も大きくなった。

家族に今年も一子が誕生した。

子守に忙しいからと両親は家で待機しているという。



それはともかく宵宮の神事が始まった丹生神社。

宵宮に参集した当家と渡行人(とぎょうにん)は19時に入斎する。

侍烏帽子を被って黒色の素襖姿の着替えた渡行人が並ぶ。



9月1日に執行される八朔祭のフリアゲによって神意が下った7人だ。

神事を終えた一行は田楽舞いを演じる舞殿に登る。



8年前は茅葺きだった舞殿は建て替えられて総ヒノキ造り。

四方で支える構造は開放的で、神さんに見てもらう舞台空間である。

登壇すれば時計回りに一行が周回する。

先頭は大御幣を持つ氏子総代長。

宮司、紺色のソウ(素襖)を着用する当家に続いて渡行人。

ジャラジャラとも呼ぶササラ、鼓、二人の太鼓に三人の横笛役は年齢順で役目が決まっている。

そうして始まった田楽舞は丹生の里人たちが見守るなかで行われる。

舞台中央に登場したササラ役。

ジャラジャラをそうっと置いて立てる。



そして扇子で扇ぐ大きな仕草の作法。

その間に奏でる鼓と太鼓の音色。

ピュー、ピュー、ドン、ドン、ドンと囃子たてる。

右回りに一周して拝礼する。

再び煽いで回る所作はもう一回繰り返して三回廻った。

その作法の際には渡行人たちがササラ役のお尻を押しだしたりして所作の邪魔をする。

舞台床をドンドンさせて立てたササラを倒す。

これは遊びでもなくいじりでもない。

舞いの所作のあり方なのである。

笑いが溢れるなかのササラ役の田楽舞は立てたジャラジャラを前にして右、左、右に横へ跳ぶ。

廻りの作法は三度跳んで一周する三角跳び及び横跳びを総称して丹生町では「横跳び」と称する。

扇を両手で挟んで一礼すれば次の演者に移った。

同じように拝礼して所作をするが中央に立てて置くのは鼓。

ササラと同じように三角跳びで一周する。

この際にも邪魔が入る。

鼓を蹴飛ばすのである。

稲に見立てた楽器を蹴飛ばす、或いは演者のお尻を押しだすのも一連の作法。

扇で楽器を煽ぐのは大風の表現。

育った稲が大風に吹かれる様相を表しているという。

風雨に耐えて稲はすくすくと立派に育つありさまは豊作願いの所作。

神さんとともに祭りを楽しんでいるとも云う。



3人目は太鼓役の登場。

同様に田楽舞の所作を演じた一行は登壇した際と同じように一団となって舞殿を右に周回する。

宵宮ではこのあとにスモウが演じられる。



扇を持つ行事役と二人の力士が舞台に立った。

呼出があったかどうか記憶がないが取り組みが始まった。

「のこった のこった」と行司の台詞も覚えていないが大相撲の取り組み。

舞台の土俵で右や左に寄る力士。



技がかかって上手投げ。

見ていた村の観衆も拍手喝さい。

行司が勝ち伝えてスモウを終える。

実はスモウの勝ち負けは予め決められている。

力士は演者。勝負の取り組みを面白おかしく真剣に演じる。

神さんに喜んでもらう所作なのである。

宵宮の田楽舞いを終えた渡行人は社務所で籠って一泊。

翌日の朝は神社に備え付けのお風呂で入浴する。

身を清める禊の入浴は年長者からの年齢順でつかる。

最後のほうになれば汚れも目立ってくると云う。

シラムシの斎食を済ませてから衣装を身につける。

そして本殿で例祭が行われる。

その後にお旅所に向かう渡行人たち。

2年前のお旅所は当家の前庭だった。

当家の接待を受けて会食する直会の場もふれあい会館に移った。

会食の数時間後には渡行人たちが出発する。

旧社のハチマン、モリヤマ、フルシロの3か所跡へ向かって遥拝しながら本社へお渡り。

横跳びの田楽神事を終えてお渡りを納める。

(H24.10.20 EOS40D撮影)

興ヶ原町天満神社宵宮祭の翁舞

2012年12月27日 06時43分10秒 | 奈良市(東部)へ
茅葺き屋根をもつ舞殿がある奈良市興ヶ原(おくがはら)町の天満神社。

布目川沿いに鎮座する。

昭和10年4月吉日、昭和30年5月参日、昭和50年4月20日、平成7年にも正遷宮されてきた舞殿で翁舞を奉納する神事が行われる。

茅葺きの舞殿は能舞台である。

20年おきに造営をしてきた建物は3年後の平成27年には正遷宮を行う予定だと話す氏子総代たち。

天理市福住に住む萱葺き職人にカヤサシを頼むことになるだろうという。

舞殿には神輿が置かれている。

先ほどに行われた神遷しを終えて神さんは神輿に坐ましていると云う。



神さんは衣笠(ヒトガキ;人垣とも呼ぶ・伊勢はキヌガキと呼ぶ)と呼ばれる白い布で覆い隠して遷したそうだ。

天満神社の祭礼は10月16日、17日であったが現在は第二か第三土曜、日曜に替った。

氏子総代は3年任期。

3人の総代が入れ替わりながら勤める村神主(禰宜とも)。

つまり一斉にかわるのではなく一年ずつ繰り上がるのである。

2年目にあたる総代が行事進行役になると話す。

祭典の段取りから諸々の手配などがあり、なにかと忙しく気を配ることが多いと云う。

翁舞はオトナ衆によって演じられる。

オトナ衆は終身制の年齢順。

最年少者でも70歳過ぎで引退する人もおられて現在は9人。

一老を勤めているのは神社宮司の筒井一雄氏。

しかもこの年は当家にあたり、一人で三役を勤める。

筒井氏からは何年か前に是非来てほしいと云われて数年。

今年になってようやく訪れることになった。

久しぶりに元気なお顔を拝見させていただいた。

筒井氏は東山間で度々お会いした。

山添村の春日、中峯山、菅生に吉田などである。

兼務社は多く高齢になられた現在も各地を飛び回っている。

数年前にはお身体に支障がでたと聞く。

代役を勤める神職もまた馴染みのある方ばかりだ。

総代、オトナ衆に自治会長ら参列者はスーツ姿。

かつては和装だったようだ。

舞殿の前には子供御輿もある。

担ぐことはなく村を曳行する翌日の秋祭りに繰りだされる。

かつての興ヶ原は60戸。

徐々に減って今は40戸になったという御輿の巡行である。

神遷しを終えた宵宮神事が始まった。

一同は社務所にあがる。

座敷には当家の御幣などを立て掛けている。



席に着いて祓えの儀。

村神主が斎行される。

座中には村神主と同じような衣装も身につけている男性も座っている。

翁舞の演者である。

かつてはオトナ衆が勤めていた翁役。

継承することが難しくなって6年前の平成19年に保存会を立ち上げた。

その年より若い人が勤めることになったという翁舞は山添村春日の春楽社の指導を受けて今日に至る。

祓えの儀を終えれば斎場は舞殿に移る。



神さんを遷しましされた神輿に向かって宮司が拝礼する。

一同揃って頭を下げる。

祝詞の奏上、神饌の献上、玉串の奉奠と祭祀を執り行う。

舞殿向こうには提灯を掲げている。

屋外の屋根下に注連縄を飾った屋形がある。



それは祓い戸社。

明日の祭りの際にはここに向かって祓えの儀が行われるようだ。

神事を終えれば翁舞。

三方に盛られたオヒネリが数個。



かつては一人ずつ差し出すオヒネリだった。

オヒネリが挿しだされる度に翁が舞ったという。

現在は効率化を考えて三つのオヒネリで一舞を演じる。

面箱から慎重に取り出す翁の面。



踊り子の顔に装着する。

賑々しく行われる。そうして始まった式三番の翁舞。

シテの「とうどうたらり たらり ら たらり ららり ららり どう」。

地謡が詠う「ちりや たらり たらり ら たらり ららり ららり どう」。

陽がときおり挿し込む舞殿の翁が静かに登場する。

シテの「所千代まで おわしませ」。
地 「われらも 千秋さむら う」。
シテ 「鶴と亀との よわひ にて」。
地 「幸ひ 心 に まかせたり」。
シテ 「とうどう たらり たらりら (たらり ららりららりどう)」。
地 「ちりや たらり たらり ら たらり ららり ららりどう」。
シテ 「あげまきや とんどうや」。
地 「ひろばかりや とんどうや」。
シテ 「さかりて ねたれども」。
地 「まろびあいにけりや とんどうや」。
シテ 「千早振る 神のひこじの 昔より 久しかれとぞ 祝い」。
地 「そよや りちやん とんどうや」。
シテ 「およそ 千峯の鶴は 万歳楽 とうとうたり」。
地 「また 万代の 池の 亀は 甲に 三玉を いただきたり」。
シテ 「滝の 水れいれいと 落ちて 夜の月 あざやかに 浮かんだり」。
地 「渚の砂 さく さく として あしたの 日の色 おろす」。
シテ 「天下泰平 国土 安穏の 今日の 御祈祷 なり 有原や なじよの 翁ぞ」。
地 「あれは なじよの 翁ぞや そや いづくの 翁どうどう」。
シテ 「そよや 千秋 万歳の よろこにの 舞なれば ひとまい 舞おう 万歳楽」。
地 「万歳楽」。
シテ 「万歳楽」。
地 「万歳楽」。
シテ 「長久円満 息災延命の 今日の 御祈祷なり」。
地 「これも 当社に たてたまう 願なれば 今日吉日をもって すませ 申す」。
シテ 「五穀成就 息災延命 一切諸願 かいろう満足 何れの 願か 成就せざらん これよろこびの 万歳楽」。
地 「万歳楽」。
シテ 「万歳楽」。



地 「万歳楽」で舞いを一曲終えれば長老の一老がひと声を掛ける。

「もう一番」の掛け声で再び演じる翁舞。

「これも 当社に たてたまう 願なれば 今日吉日をもって すませ 申す・・・「五穀成就 息災延命 一切諸願 かいろう満足 何れの 願か 成就せざらん これよろこびの 万歳楽・・・万歳楽・・・万歳楽の一節を舞う。

詠い仕舞いの万歳楽は「もう一番」、「もう一番」を繰り返してこの年は3回も舞った。

オヒネリはその舞いを望む志納料。

一包みの志納額は決まっている。

宵宮祭の翁舞を終えた人たちは再び社務所に登って直会。

下支えの手伝いさんによって宴が行われる。

(H24.10.20 EOS40D撮影)