マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

十六夜の通夜

2016年06月07日 08時22分34秒 | ぽつりと
旧暦八月十四日。

彼岸明けのこの日の夕方に電話が鳴った。

架けてきたのは甥っ子の貴ちゃんだ。

一週前に見舞ったふーちゃんが入院していた病院で亡くなったという。

大腸がんを患っていたが、痛がることもなく眠り着くように静かに心音が途絶えたと伝える。

一週間前、声を架けて名前を呼んだら頷いた。

聞こえていたと思われる。

医師の診断によれば五分五分。

どっちに転げるか判らない状況であった。

体力は保たれるか。大腸がんを患ったことが発覚したのはほぼ一年前。

おそらく一年ももたないだろうと通告されていたようだ。

電話があった二日後がお通夜。

満月で光り輝く十六夜の日である。

通夜の会場は大阪市福島区にあるロイヤルシティホール野田。

株式会社ベルコが運営する葬儀会館である。

おふくろを迎える地は大阪市住之江区。

AKGコーポレーションから配車された代車で出かける。

見舞いに出かけたとこも代車だった。

住之江までは特に支障もなく走行する。

さてさて困ったのは葬儀会館がある地点である。

代車に搭載されているカーナビゲーションはやや古い。

会館の電話番号は受け付けない。

古いカーナビゲーションには登録されていない。

住所番地を入力するが、これもまた末端番地がない。

ここら辺りだと見当をつけて阪神高速道路を走る。

予め見ていたパソコンマップでは福島で降りれば良いと思っていた。

なんとなく不安であった。

それが的中して淀川の橋を渡りきって塚本で下りる。

柏里・野里の通りを抜けて淀川大橋を曲がる。

道中にあった柏里は我が家と同様に戦災にあった人たちのための市営住宅。

今では高層建ての住宅地で60年前の面影はひとつもない。

野里へ通じる通りを西南へ走っていた。

ここは大正金属があった処だという。

現地は思いだせないが親父が働いていた勤務先だ。

親父はそこで経理を担当していた。

それはともかくカーナビゲーションに入力した番地を手掛かりに梅田へ向けて走る。

野田駅近くまで行けばロイヤルシティホール野田の建物が見つかった。

警備員に誘導されて駐車場に車を停める。

エレベータに乗って案内される白と黒いドレス姿の職員さん。

エレガントな感じに受けた。

通された室内は親族集合室。

挨拶を済ませて通夜の会場に行く。

亡くなったふーちゃんはエンバーミングされて霊安室に納められた。

この日はお通夜。

葬儀フロアーに移送され、寝棺は真正面。

周りを囲む祭壇の洋風花が咲き誇っていた。

ふと気がついたものがある。

小豆餡餅、赤飯、ジュースにコーヒー豆など。

そこには揚げたて出来たて天ぷらがある。

パックに詰めた天ぷらは惣菜屋さんで買ったものだろう。

これは二人の息子が特別に供えたふーちゃんが好きだった食べ物だ。

こんな仕掛けは初めてだ。

二人の心遣いに感動する。

お通夜に出仕された僧侶は伊賀上野の九品寺の住職だ。

ふーちゃんよりも先に逝ってしまった旦那さんのイチローさんの墓がある。

九品寺には代々の墓もある。

先祖供養に何度か訪れたことがある。

息子は当時の城主の武将家来だった15代目。

分家である私は16代目だと聞いているが、特別なことは何もしてない。

享年87歳で逝ったふーちゃんを弔うお通夜はマクラ念仏に通夜回向だ。

お供えに好きだった熱々のコーヒーを手向ける。

こういうセレモニーも初めてだ。

セレモニーは続きがある。

お供えをした右側に白いバラで飾った花壇がある。

そこは少しだけ空間があった。

そこに喪主、参列者一人、一人が白いバラの花で埋める。

すべて揃えて86本。

満年齢の本数だったバラの花は故人に捧げた。

通夜の儀式が終われば別室に案内された。

お通夜の夜にいただく会食は丸テーブル。

喪主、親族一同が揃って食事をする。

丸テーブル席は椅子席。

これまで何度かお通夜に出かけたことがあるが、いずれも畳席だった。

和室にいただく通夜の会食は酒の肴のおつまみ程度の軽食だった。

これが洋風ともなれば感じ方がまったく違う。



寿司盛りは丸桶ではなく四角い盆皿だ。

料理すべてが洋風の通夜膳料理はおいしくいただいた。

ホウの葉に包んだ味噌和えの鶏肉もあった。

どれもこれも美味しい料理は「季彩菜」(SHIINA)のもてなし料理。

初、初づくしの十六夜通夜だった。

(H27. 9.28 SB932SH撮影)

旧大阪厚生年金病院の独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院へ行く

2016年06月07日 08時11分25秒 | ぽつりと
叔母が入院している病院を探す。

昨年までは大阪厚生年金病院と呼ばれていた。

場所はといえば大阪市の福島区。

中之島からすぐ近くになるが、道路事情もさることながら市街地区域。

たぶんに彷徨うことになると思っていた。

車は先々日に借用した代車。

故障修理に日数がかかるということであてがってもらった。

慣れない車で大阪市内を走るのは気が重い。

運転走行に神経を集中しなければならないし、病院を探さなければならない。

この日は仕事休みだった。

午後におふくろを迎える。

朝はゆっくりしたい。

いつもの時間どおりにいただく家の朝食。

そこに電話が架かったと携帯電話を持ってきた次男。

送り主は相方の送迎ドライバーだった。

なにかが起った、と思って電話する。

慌てふためく声が聞こえる。

どうやら出勤途中の車道で事故に遭遇したようだ。

怪我はなかったが、警察の事故調査や保険会社手配で仕事先に向かうことはできなくなった。

ドライバーの交替要請である。

緊急なお願いに支度を調える。

慣れない代車を走らせて代行出勤する。

仕事が終わって自宅に戻った時間帯は午後1時。

かーさんが買ってきたのり弁当をがっつりいただく。

落ち着いたところで出発だ。

病院へ向かう道は前夜に調べていた。

ある程度は理解している。

福島辺りで降りる阪神高速道路。

出口を抜けたら市街地。

車道、信号、電車道、街が詰まっているように見えたネットマップ。

プリントしておいたが、だ。

よくよく見れば代車にカーナビゲーションが付いていた。

情報はたぶんに古いと思うが利用する価値はあるだろうと思って病院の電話番号をセットして地点登録する。

まずはおふくろが住む大阪市住之江区に行く。

急ぐときには高速道路。

第二阪奈道路に入って料金所。

支払いはETCでなく普通車の現金払い。

故障してなければETCクレジットの軽自動車運賃。お安くなる。

生駒山下を通るトンネルを抜けたら東大阪。

直進する水走から阪神高速道路へ。

ここでも現金払い。阪神高速道路は軽自動車であっても普通自動車扱い。

ところがだ。ETCなら割引がある。

現金払いはなにごとに置いても特典はない。

住之江でおふくろを乗せたら再び阪神高速道路。

出口はネットで見ていた福島。

ここら辺りだろうと車を走らせていた。

ふと、あそこではと思ったが、ときすでに遅しである。

淀川を越えて柏里に出る。

ここは叔母の住む街。

昔、親父が働いていた大正金属はここらあたりだったとおふくろが云う。

幼少のころに記憶にある大正金属。

事務服姿だった親父の姿を思いだした。

カーナビゲーションが案内する独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院所在地は福島区の福島。

ナビゲーションが案内する通りに走る。

途中でなんとなく違うような気がした。

それもそのはず、ナビゲーションは180度戻れと表示する。

ここら辺りだろうと思って病院を探すが見つからない。

表示するナビゲーション映像には玉川小学校がある。

すぐ近くである。

なにやら工事をしている処にでた。

話しを聞けば駐車場工事。

学校帰りの子供たちを誘導する男性に問うた病院。

ここではなくあっちに回った反対側だという。

充てにできないナビゲーションは諦めて、プリントしておいた印刷物で付近を探すが、その反対側が判らない。

方角が判らなくなった。

あっちへと云われた通りに車を走らせるが、電車が通る高架に出る。

そこは先ほど通ってきた道。

ぐるりと一周した。

信号付近にガソリンスタンドがある。

車を降りて周囲に建つビル群を見上げる。

そこにあった「大阪病院」。

あそこだ、と思うが道が判らない。

スタンドに居られた人に尋ねるが正確な情報は得られなかった。

ビルが近くに見える場所まで走らせたら、またもや駐車場工事中。

ここは迷路か。

警備していた人に道を尋ねる。

そこを右に曲がって二つある信号の二つ目を右折れ。

そこからしばらく走ってあみだ池筋の道にでる。

信号を右折れしたらすぐ判るという。

それに従った走行をすれば右に見つかった。

が、である。

病院の駐車場は工事中で停める場所はない。

近くの民間業者が運営するタイムパーキングの地図を大きく貼りだしていた。

すぐ傍だ。

ぐるりと回って停める。

ようやく着いた病院は平成27年5月に開業した独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院。

新築である。

これまでは新築されるまでは大阪厚生年金病院。

入口道路にある標識は「大阪厚生年金病院前」とあった。

病院は新しくなって名は替わったが、道路標識は馴染みのある名が残されていた。

住之江を出発してから1時間半後。

ようやく着いた。総合案内の受付嬢に伝えた面会。

それなら入院センターで問い合わせてくださいという。

そこにいた事務員に入院患者の名を告げたらエレベータまで案内してくれた。

病棟階は外科。

セキュリテイゲートを抜けてまたもや病棟の受付。

名前を書けば面会番号が付与された首吊りプレートが手渡される。

介護士だと思う女性が病室まで誘導する。

さっさと歩く介護士の速度についていけないおふくろを私。

案内する速度は面会者に合わせるのが当然だろと思っていたら、後ろを振り向いた。

おふくろの足音で気がついたのだ。

病棟の造りは狭苦しくない。

むしろ広々としたゆったり開放感だ。

こういう間取りの病院は初めてだ。

大部屋ベッドもゆったり感。

締め切られたような感じはまったくない。

四角いベースでなく斜め。

この配置が室内を明るくしているのだと思った。

叔母が寝ていたベッド。

付き添いに息子の甥っ子がいた。

母親想いの息子は毎日付き添い。

介護センターでお世話になっていたときはそこまでついていない。

昨年末に発症した大腸がん。

再発する恐れもあるといわれたが手術に耐えた。

季節は流れて春には介護センターのお世話になっていたが、私が入院する直前に再発した。

探し見つけた病院がJCHO大阪病院だった。

抗生剤、点滴処方をしてきたが、86歳の叔母の身体に挿す針位置が見つからない。

医師の話しによれば首から点滴をする予定にあるという。

横たえていた叔母の姿は数年前に見たときよりもさらに老婆になっていた。

美人だった叔母の姿をとらえた写真からは想定できない姿だ。



病室から遠くを眺める。

中之島のビル群の向こう側。

つんと突き出たビルはあべのハルカスになるという。

それから一週間経った。

9月25日の夕刻に静かに眠るように逝ったと息子の貴久から電話があった。

(H27. 9.18 SB932SH撮影)

ガス工事跡の本舗装

2016年05月15日 08時39分55秒 | ぽつりと
大阪ガス導管事業部から通知があった。

ガス工事跡の舗装を直すための道路工事である。

場所はといえば我が家の真ん前だ。

通知にある番地は横隣であるが実際は我が家の前である。

工事日は前日であったが天候不順の雨風。

強い横風が吹く雨天日。

そうであれば翌日になると案内されていた。

この日の朝8時半過ぎに呼び出しホンが鳴る。

工事を請け負った土木会社の人だ。

工事開始を伝えられて始まった。

仮アスファルトを剥がす機械が動き出す。

喧しいのは当然である。

通行道路の半分ほどを残して剥がしていた。

我が家の駐車場から車を発進するにはちょいと難しい。

この日は県立民俗博物館に出かける予定をしていた。

夏場に展示される暮らしの民俗企画展の掲示写真の相談だ。

前日に依頼された画像を洗い出して整備していた。

その画像を見ていただくことにしていた。

しばらくは出発することはできない。

工事が始まった1時間後には本舗装に移っていた。

これならなんとか出発できる。

そう思ってガードマンに誘導されながら発進した。

打合せを終えて戻った時間帯は12時。



本舗装は終わっていた。

道路からガス漏れが発生したのは平成25年12月4日のことであった。

緊急工事をされて道路は「仮 ホソウ」になった。

その後の12月11日にも緊急工事があった。

ガス漏れの場所はもう一か所あったのだ。

仮舗装状態はいつまで続くのか。

すっかり馴染んでいた道路は本舗装されることなくそのままだった先月の5月27日にはまたもやの緊急工事。

仮舗装を剥がして導管部を工事された。

再び続く仮舗装。

ずっとそのままになると思っていたところに本舗装の通知があったのだ。

実に19カ月ぶりの本舗装。

道路は綺麗になった。

(H27. 7. 2 SB932SH撮影)

ガス漏れ検知に緊急工事

2016年04月07日 08時37分06秒 | ぽつりと
仕事を終えて自宅に居るかーさんに連絡する。

いつものことである。

この日の返事はプラスアルファがあった。

帰宅しても我が家の駐車場に車は停められないという。

何故、と聞けば我が家の前の道路は工事の最中で停める状態ではないという。

工事は緊急だった。

なんでも大阪ガス職員がガス漏れを検知したといい、早急に手配されて緊急工事が始まったというのだ。

道路の下からガス漏れが発生したのは平成25年12月4日のことである。

緊急なガス漏れ対応工事をされて道路は「仮 ホソウ」。

その後の12月11日にも緊急工事があった。

それからずっとそのままであった。ガス漏れがまったく感知しない状況を確認していたのだ。

それは一か月どころか1年以上も対応されていた。

完全な状態を確認できなければ道路は元に戻す本舗装には移らない。

すっかり忘れていた1年6カ月である。

検査の結果、ガス漏れを検知した。

身体で感じる臭いはない。

検知器具が感じるということだ。

道路に穴を掘ることおよそ1m半。



夕方には工事が終わって再び「仮 ホソウ」が示された。

(H27. 5.27 SB932SH撮影)

御懐石の膳

2015年12月28日 08時15分01秒 | ぽつりと
朝一に電源をあげたパソコン。

なぜだかゲートウエイの文字が表示したまま動かない。

この日の葬儀は急がねばならないから諦めて電源を切って出かけた。

葬儀場は大阪・富田林市市営の葬儀場。

平成26年1月、母屋のおばちゃんの葬儀が行われた場である。

近くまで来ているのにさんざん彷徨った場は覚えているがどの道を行ったかまたもや失念。

頼りはカーナビゲーション。

葬儀場の地をセットして大阪・住之江に向かう。

いつものことだが阪神高速道路は長田辺りから混みだす。

仕事に出かける車でいつも渋滞する。

環状線に合流する辺りでやっと解放されて住之江へ。

おふくろを載せて出発だ。

堺市内中央を抜けて金岡経由で美原を目指す。

案内するカーナビゲーションは途中で右折れを伝える。

リルートを無視して東へまっしぐら。

三原JCで思い出しながら道を曲がる。

ここからが難儀した。

カーナビゲーションが案内する道が判らなくなっていた。

思っていた景観がまったく違うのだ。

ここら辺りは街になっていた。

立ち並ぶ工場やお店で方角が判らない。

こうなりゃ案内どおりに走らざるを得ない。

どこをどう曲がったのがさっぱり判らない土地。

どうやら309号線のようだ。

案内されるままに車を走らせる。

先は千早赤阪。このまま行けば違うと言い出したおふくろ。

そりゃそうだが道案内はそうなっている。

木材団地を抜けて新家・川西南。石川を跨ぐ橋を越えたら板持南。

見覚えがある景観だ。

この道路は河南赤坂バイパス。

昔はこんな道はなかったがもうすぐだ。

佐備を通過してたどり着いた葬儀場にいち早く到着していたいとこたちが待っていた。

一年ぶりの顔合わせだ。

亡くなったのは彼方(おちかた)のおばちゃん。

享年98歳。

久しぶり見る顔は遺影写真。

昨年のマツリに撮ったものだという。

錦織にある母屋近くの融通念仏宗の極楽寺住職が念仏を申される。

葬儀を終えてお棺に納めたおばちゃんに花飾り。

あまりの多さに花畑に包まれるようだった。

ご出棺は葬儀場奥にある火葬場へ男性が運ぶ。

最後のお別れに焼香をする。

骨揚げまでの待ち時間。

いとこが頼んでおいた膳につく。

おふくろの家や私の家に電話をしたが留守番電話。

どこか旅行へでも、と思っていたようだ。

たしか携帯電話の番号は知っているはずなんだが・・。



膳の料理は喪主が頼んでいた「御懐石」。

この料理は料理・仕出しもしている紅焔(こうえん)。

喪主の実家である彼方にある。

骨揚げを済ませて初七日法要。

宴の場は転じて法要の場となる。

四十九日は4月半ば。

錦織の甘山(つじやま)墓地に埋葬する。

子供の頃は母親に連れられてお盆に出かけていた。

母屋に集まったいとこは十数人。

高校生ぐらいまではいつも集まっていた。

軽トラに乗って畑の野菜を取りに行く。

運んだスイカを落として真っ赤に割れたこともあった。

母屋の叔父に連れられて石川へ鮎取り。

竹の棒で追い込んで手で掴んで取っていた。

懐かしい子供の頃は今でも思い出す。

早めに終わった葬儀に集まったいとこたち。

おふくろも連れてお茶にしようということになった。



目指す喫茶店は甘山墓地向かいにあるカフェテラス蘭館。

ケーキが売り物らしい。

(H27. 3.13 SB932SH撮影)

安価な扇風機

2014年12月25日 08時37分35秒 | ぽつりと
高級品でなくていい、近未来的な奇抜なものでなくていい。

とにかく安い扇風機であったらいい。

3台あるうちの1台が壊れてしまった古い扇風機。

風が無ければ眠れないと云うかーさんの要望にこたえた価格の扇風機がチラシに出ていた。

帰り道に立ち寄ったジョーシン郡山インター店。

昨今は大和郡山のイオンモールのジョーシンで買うことが多くなったが、店で売っているのは同じ価格。

そこまで行く必要もない途中の帰り路。

お目当ての扇風機が棚にあった。

製品はユアサプライムス株式会社。

会社案内によれば創業は寛文六年(1666)のユアサ商事が本社である。

寛文年間の屋号は「炭屋」。

徳川4代将軍の家綱時代である。

京都で開いた木炭商は江戸に出店した。

文明開化を経て釘鉄銅物を主に扱い金物・鉄鋼の御三家に数えられるまで飛躍した歴史がある会社。

そりゃ知らなんだ、である。

買った扇風機はYT-3205RR-WH。

税込みでなんと2462円であるにも拘わらず、リモコンが付いている。



静かな音に5段階レベルの風量調節。

寝苦しい夜も身体を休ませてくれる。

溜まっていたジョーシンポイントを利用して実際に払った2062円で購入した。

(H26. 6.14 SB932SH撮影)

水漏れ散水栓

2014年12月21日 08時37分34秒 | ぽつりと
金属製納屋の扉が外れている。

下部が錆び腐って外れてしまったのだ。

錆びるほどであるから症状は随分前からのようだ。

納屋には腐葉土、蘭土、小ジャリ石、軽石、富士砂、水ゴケにセメントまである。

中には肥料や薬剤も入っている。

扉が丈夫だが、下部のレールが朽ちて納められない状態だ。

今では園芸に費やす時間はとれない。

放置のままである。

申しわけないが、大型ゴミの際に捨てるしかない。

そう思って設置してあった背面下の地面を見た。

水浸しである。降った雨が溜まったのか、それとも炊事場の導水が破損して漏れているのか・・・。

炊事場に設置した床下倉庫。

外して床下を見たが、乾燥している。

どうやら原因は外にあるようだ。

専門家の工事業を営む地元業者に電話をして来てもらった。

スコップで掘っていけば水でジュクジュク状態。

周りを掘れば散水栓が出てきた。

住んでから30年以上も経過しているが、その存在を初めて知った。

というよりも忘れていたのである。

外エントランスには電気コンセントもある。

建てたときには必要だと思って設備しておいたが、散水することもなく、すっかり失念していた。

「使われますか」の答えは、速攻で「不要」である。

蛇口も不要となれば止水するしかない。

水回りの業者のおじさんは手慣れたもの。

わずかな時間で作業を終えた。

パーツ代を含めて工賃は3千円。素早い対応にも感謝した。

(H26. 6.10 SB932SH撮影)

筍贈りに見かけた行為

2014年11月08日 07時46分21秒 | ぽつりと
3月末に早々といただいたタケノコ。

早採りのタケノコはありがたく食卓を春の香りに包まれた。

そんな話しをしたおふくろは食べたいと云っていた。

その後の一週間後にはお店でも売るようになっていた。

大和小泉の「よってって」で購入したタケノコは500円ほど。

これも美味かった旬の味わい。

この到着した贈りものは京都産のタケノコ。

物集女の筍。

届いた数十分後にはまたもやタケノコをいただいた。

3月末にいただいた近所のご主人からだ。

一度に集まった旬のもの。

旬をまだ味わっていないおふくろに届けようと、大急ぎで支度をして借りものの代車で出かけた。

大阪は住之江。

一週間前はスクラムバスターだった。

エンジン故障でえらい目に合わせた西名阪国道。

前回と同様に香芝ICから入った。

代車のダイハツタントはよく走る。

料金所で停止することもなくスムーズな走行。

松原で下りて長居公園通りを西進する。

数十メートル先で道路を渡る婦人がいた。

信号も横断歩道もない場所をとことこ渡る。

こういう人の行動が事故を誘発するのだと思った。

それからしばらく走った長居公園通り。

たかだか数キロメートルの場所で目撃した男性。

さきほどと同じように信号も横断歩道もない場所で道路を横切った。

その後も見かけたもう一人の男性。

大阪はこういうことがあまりにも多いと認識させられた行為。

中央分離帯のところをふらふらしている。

見かけは酒飲みではないようだ。

住之江に着いた信号待ち。

青になったと思って発進しかけたときのことだ。

交差点の左から自転車が横切った。

手には携帯電話。

自転車からいえば信号は赤である。

安全運転を心掛けていてもこのような行為でしたくもない事故に陥ってしまう。

生まれてから30年間も暮らしていた大阪が怖くなった。

待っていたおふくろにタケノコを贈った復路で見かけたバイク運転者の行為にも驚かされた。

南北に走るチンチン電車こと阪堺電車の踏切で目撃したバイクは一旦停止するどころか突っ切った。

「なんちゅうことをするねん」と呟いた。

それから東進めば南海高野線の踏切もある。

ここでも目撃した自動車運転手の行為。

バイクよりは少しマシだと思うが、同じように一旦停止せずに踏切を通り過ぎた。

交通ルール違反の行為を二度も目撃するということはもっと多くあるのだろう。

事故多発地帯にいずれあげられるのでは、と思った。

(H26. 4.20 SB932SH撮影)

消費税が上がる前に壊れた炊飯器

2014年08月21日 09時27分11秒 | ぽつりと
4月から消費税が8%になる。

上がる前に買っておかねばと思っていた電化製品。

アナログテレビは買い替えたいが故障もしない。

無理に買う必要はない。

電灯なら買い置きもできるがわざわざ買うこともない。

壊れてから考えようと話していた前日。

炊飯器は炊いた直後に「F2」の表示を出力して壊れた。

エラー「F2」はなべ温度センサーの不良。

壊れたら主食のご飯を口にすることができない。

緊急を要する。

うどんを食べた大和郡山イオンモールにはジョーシン電気がある。

移動する時間はそれほどかからない。

郵送されていた割引サービス券の有効期間はまだある。

これまで使っていた炊飯器はマイコン付き。

これまで美味しく炊けていた五合炊き。

喰いぶちの息子は不在がち。

炊いても余る。

いっそのこと三合炊きにしようとあれこれ品定め。

高いモノでは7万円、5万円。

美味しくできあがると宣伝されている炊飯器が並ぶが、目線は1万円前後の三合炊き。

蓋を開けるボタンは上蓋で慣れてきた。

何種類かはボタンがない。

ないのではなく前面になっているのだ。

慣れない指はどうも使い難い。

内釜の厚さが旨みを引き出すのではと思って重たいモノを探した。

釜の厚さは1mmが最低ランク。

1.7mmもあるが薄さが気になる。

選んだのは3mm。

高級品では5mmもある厚さは品それぞれ。

メニュースイッチがある箇所は上部か前面か。

前面であれば腰を落としてみなければならない。

上部の方が見やすい。

結局、デザイン、操作面などで選んだ商品は東芝製。

そういえば東芝製品が少ない。

ほとんどが象印製かシャープ、ナショナル。

三菱は画期的な製品を出しているが高級品。

日立もあるが東芝のにしたが、これで良いのか。

帰ってこれまで使っていた製品を見れば、なんと東芝製。



我が家にはこれが似合うのかも知れない壊れた東芝製の型番はRC-10JM(平成15年販売)。

色はホワイトだったが、長年使い続けてきたので黄色に変色していた一合~五・五合炊きの東芝保温釜。

内釜の厚さは4mm。

炊飯器の名称ではなく「保温釜」だったのだ。

購入した東芝炊飯器の型番はRC-5SG。

同じく色はホワイトだ。

値札は8,980円だった。

品物を手にしてサービス券を提示する。

5千円以上であれば500円の割引。

帰宅してから見たレシートの値段は7,980円。

なんとジョーシン会員割引で千円も下げてくださっていた。

(H26. 2.21 SB932SH撮影)
(H26. 2.22 SB932SH撮影)

瀬音の膳

2014年07月06日 08時17分50秒 | ぽつりと
母家のおばちゃんが亡くなった。

幼児のころから成年になるまで毎年のようにでかけては世話になっていた。

いつもにこにこ笑顔で応えてくれた。

葬儀の場は何年か前にも出かけた富田林。

母屋は錦織。

駅から東に向かえば滝谷不動がある。

斎場はそれよりさらに東に行ったところまでは覚えている。

左折れの処に道案内の札があった。

矢印に沿って行った先は佐備の信号。

そこにも道案内の札。右とある。

右折して車を走らせた。

どこまで行っても斎場の標識が見当たらない。

間違ったと思ってUターンした。

佐備の信号を今度は右折れした。そこでも見当たらない。

もしかとすれば矢印は来た道ではないだろうかと思って戻った。

矢印は左折れだ。真っすぐ向かうが見当たらない。

それどころか建水分神社が鎮座する千早赤阪村まで行ってしまったのである。

ひょっとすればメモリアルホールかと思ったが違った。

富田林斎場であることをいとこに電話して大きな勘違いを知る。

佐備に戻って東に行けば、そこは白木南。

行きすぎたどころか反対側に向かっていたのだ。

住之江に住むおふくろを乗せてあっちへ行ったり、こっちへ行ったりでロスタイムは40分。

道案内通りに左折れしたカ所よりほんの少しにあった斎場の行先。

見落としていたのだった。

葬儀が始まる5分前。

ようやく到着した斎場にはいとこたちが集まっていた。

僧侶は母家の前にあるお寺さんの融通念仏宗派の極楽寺だ。

子供の頃の遊び場だった。

骨揚げをする時間までは新族一同の会食。

「瀬音の膳」をいただく時間は懐かしい話しで盛り上がる。

母家はたしか萱葺き家だったと思う。

竃もあったしツルベで汲む井戸もあった。

お風呂と云えば五右衛門風呂だった。

浮いた板を沈めながら縁に当たらないようにそろそろ入った。

実成りがよかったザクロもあったが、ウスラウメもあったという。

それは覚えていない。

母屋は金魚すくいを営んでいた。

いとこはやりたい放題。

何度破れてもお金を払った記憶がない。

水槽にはワニもいた。

庭にはアヒルもいた。

生んだタマゴを食べようとしたら臭かったという。

それも覚えていないし、飼っていたヤギの存在も、だ。

おふくろはそこで生まれ育った。

出征した兄じゃたちが一人、一人と戻ってきたことを覚えている。

男兄弟は5人。

女姉妹は3人の末っ子だった。

おふくろの母親が亡くなったときの葬儀は丸棺。

今でも座していたおばあさんの姿が頭の中にある。

いとこ兄ちゃんたちが三角頭巾を見につけて棺桶を担いでいたことも覚えている。

話しによればおばあさんの出里は狭山。

かつては狭山藩に属していたらしい。

いとこ兄ちゃんのお嫁さんの出里は五島列島。

そこには墓がある。

一度見にいこうと出かけたそうだ。

そこで見た墓石に丸の十字の紋があったと云う。

丸に十字であれば島津藩。

かつては藩の御殿医。

御下命を受けて船に乗ったが難破した。

行きついた先が五島列島だった。

そこに住みついた先祖さんだったそうだ。

長崎には、熊本・佐賀・福岡・対馬・小倉・平戸・薩摩・久留米・柳川・島原・唐津・大村・五島・長州の14藩の蔵屋敷があっただけに少なからずの関係もあったのであろう。

(H26. 1.21 SB932SH撮影)