大和郡山市の井戸野町を経て天理市を南進する。
櫟本町、喜殿町、前栽町、東井戸堂町、備前町、武蔵町を貫く真っすぐな道を抜けると田原本町になる。
そこは村屋神社が鎮座す藏堂町。
さらに南進して東味間を抜ければ橿原市の太田市(おだいち)町に入る。
この道は古代の官道の一つに挙げられる中ツ道である。
その地を南下する道はない。
どうやら中ツ道はそこで消えているらしい。
それはともかく寺川流域になる鏡川(かがり)川の西側にあるのが天満神社だ。
一段と高い地に鎮座しているのは、かつてそこが古墳であったのだとT総代が話す。
いつの頃か判然としないが前方後円墳だったそうだ。
前方墳は削られて残された後円墳に神社が祀られたという。
昨年に立ち寄ったときの神社の社そうは鬱蒼としていた。
本殿後方にあった樹木が奇麗に刈りとられていやにすっきりしている。
総代の話によれば白いサギが住みついて樹木が白い糞だらけになったという。
その糞は本殿屋根にも広がってきた。
それ以上の影響はご免こうむりたいと枝を掃ったそうだ。
ご神木であるだけに宮司に祓ってもらってから刈ったという。
どうりで。
明るく開放的になった境内には村人30人ほどが集まって鳥居に掛ける綱を結っている。
この日はツナクミの日で村人総出の作業。
村入りするにつれて増えていった太田市は45戸。
かつては30軒の農村だったそうだ。
旧村にあたる家の代表者がワラスリ、ワラウチ、ツナクミなど作業を分担して進められる。
ツナクミは正月明けの成人の日の前日。
5、6年前までは8日と決まっていたが集まりやすい日に移したという。
ワラスリ、ワラウチとも回転式の機械を使って作業する。
ツナクミの日程が変更される前まではヨコヅチ(槌)でモチワラを叩いて藁屑を取っていた。
手がかかるからと言って機械化された。
藁はワラスリと呼ぶ回転筒式の機械に当てて屑を取る。
筒には尖がったクギのようなものが付いているからそれに当てるとさばかれるのだ。
度々目にするイネコキの道具。
手で藁をひっかくようにして藁屑を取る道具だ。
それが回転式になった。
その効率は大幅にあがった。
次にローラー型の機械に藁を通す。
ローラーの圧力をかけて何度も通していく。
ベルトで動くハンマーだと言っていたワラウチの機械だ。
かつては石にバシバシと打って藁を強くしたワラ打ち作業は短時間で、しかも労力がかからずラクになったと話す。
こうして出来上がった藁は綱を組む人たちに渡していく。
太い藁束を継ぎ足して三本撚り。
張りを得るために男3人が力を合わせて結っていく。
力仕事であるが掛け声もなく淡々と作業を進める。
女性たちは出来上がった綱をハサミで奇麗にしていく。
太田市の綱はそれだけで終わらない。
県内の注連縄や勧請縄に特異な形の房をぶら下げる地域が散見される。
特異としたのは男陰、女陰と呼ばれる両房を綱に取り付けるのだ。
男陰は他所でも見られるようなフングリとよく似ている。
表現しづらいがタマタマと呼ぶそうだ。
さて、女陰といえば、7品種の木の枝を束ねて綱に取り付ける。
松、竹、梅、椿、樫、杉や境内に生えるつる(蔓)性植物である。
つるはつる状であればどのような品種でも構わないそうで、つた(蔦)でも構わない。
雌雄両陰の房は総代や長老らの手によって作られる。
こうして出来上がった綱はとぐろ状に巻いて本殿前に供えられる。
その上には男陰、女陰が置かれた。
そして総代は前に立ち村人たちが並ぶ。
手を合わせて綱が出来上がったことを神さんに報告する。
ツナクミは神事であろう。
こうしてようやく綱が掛けられる。
綱を掛けるのは神社両端にある大木のムク。
南側のムクは甘い実ができる。
熟した実は皮がシワシワ。
その頃が美味しいのだ。
味といえば干し柿のような甘さだ。
北側のムクは羽子板の羽根に使われたと言う。
羽根の下にある黒い堅い玉である。
昨年に聞いたIさんによればその木はゴボゴボの木だという。
ゴボゴボは泡。であるとすれば石鹸の木。
そうであれば北側がムクロジで南側はムクノキだと思われるがどちらも現地では「ムク」と呼んでいる。
その木にアルミの梯子を掛けて綱を巻きつける。
まずはムクロジの木だ。
昔は木の梯子で3間もあったそうだ。
それを登って掛けるのはとても怖かったと年配の総代は話す。
ほぼ中央辺りに男陰と女陰を括りつける。
それらには紙垂れと細い藁を挿し込む。
そうして南側のムクノキに巻きつける。
そろそろと引き上げて丁度、鳥居前に落ちついた男陰と女陰。
こうしてツナクミを終えた村人たちは会所でささやかな直会。
慰労会のようだった。
総代の了解を得て合祀されている子安神社を拝見した。
とは言っても本殿内である。
案内されたのはその下に置かれている砂。
それは安産祈願をする砂であった。
お腹が孕んだ家では、その砂を半紙に包んで神棚に供える。
子供が無事に生まれればその砂を返す。
「そんな風習がある村なのです」と、直会を婦人たちも話していた。
その砂は「安産祈願御授砂」。
砂を扱う風習はここにもあった。
(H24. 1. 8 EOS40D撮影)
櫟本町、喜殿町、前栽町、東井戸堂町、備前町、武蔵町を貫く真っすぐな道を抜けると田原本町になる。
そこは村屋神社が鎮座す藏堂町。
さらに南進して東味間を抜ければ橿原市の太田市(おだいち)町に入る。
この道は古代の官道の一つに挙げられる中ツ道である。
その地を南下する道はない。
どうやら中ツ道はそこで消えているらしい。
それはともかく寺川流域になる鏡川(かがり)川の西側にあるのが天満神社だ。
一段と高い地に鎮座しているのは、かつてそこが古墳であったのだとT総代が話す。
いつの頃か判然としないが前方後円墳だったそうだ。
前方墳は削られて残された後円墳に神社が祀られたという。
昨年に立ち寄ったときの神社の社そうは鬱蒼としていた。
本殿後方にあった樹木が奇麗に刈りとられていやにすっきりしている。
総代の話によれば白いサギが住みついて樹木が白い糞だらけになったという。
その糞は本殿屋根にも広がってきた。
それ以上の影響はご免こうむりたいと枝を掃ったそうだ。
ご神木であるだけに宮司に祓ってもらってから刈ったという。
どうりで。
明るく開放的になった境内には村人30人ほどが集まって鳥居に掛ける綱を結っている。
この日はツナクミの日で村人総出の作業。
村入りするにつれて増えていった太田市は45戸。
かつては30軒の農村だったそうだ。
旧村にあたる家の代表者がワラスリ、ワラウチ、ツナクミなど作業を分担して進められる。
ツナクミは正月明けの成人の日の前日。
5、6年前までは8日と決まっていたが集まりやすい日に移したという。
ワラスリ、ワラウチとも回転式の機械を使って作業する。
ツナクミの日程が変更される前まではヨコヅチ(槌)でモチワラを叩いて藁屑を取っていた。
手がかかるからと言って機械化された。
藁はワラスリと呼ぶ回転筒式の機械に当てて屑を取る。
筒には尖がったクギのようなものが付いているからそれに当てるとさばかれるのだ。
度々目にするイネコキの道具。
手で藁をひっかくようにして藁屑を取る道具だ。
それが回転式になった。
その効率は大幅にあがった。
次にローラー型の機械に藁を通す。
ローラーの圧力をかけて何度も通していく。
ベルトで動くハンマーだと言っていたワラウチの機械だ。
かつては石にバシバシと打って藁を強くしたワラ打ち作業は短時間で、しかも労力がかからずラクになったと話す。
こうして出来上がった藁は綱を組む人たちに渡していく。
太い藁束を継ぎ足して三本撚り。
張りを得るために男3人が力を合わせて結っていく。
力仕事であるが掛け声もなく淡々と作業を進める。
女性たちは出来上がった綱をハサミで奇麗にしていく。
太田市の綱はそれだけで終わらない。
県内の注連縄や勧請縄に特異な形の房をぶら下げる地域が散見される。
特異としたのは男陰、女陰と呼ばれる両房を綱に取り付けるのだ。
男陰は他所でも見られるようなフングリとよく似ている。
表現しづらいがタマタマと呼ぶそうだ。
さて、女陰といえば、7品種の木の枝を束ねて綱に取り付ける。
松、竹、梅、椿、樫、杉や境内に生えるつる(蔓)性植物である。
つるはつる状であればどのような品種でも構わないそうで、つた(蔦)でも構わない。
雌雄両陰の房は総代や長老らの手によって作られる。
こうして出来上がった綱はとぐろ状に巻いて本殿前に供えられる。
その上には男陰、女陰が置かれた。
そして総代は前に立ち村人たちが並ぶ。
手を合わせて綱が出来上がったことを神さんに報告する。
ツナクミは神事であろう。
こうしてようやく綱が掛けられる。
綱を掛けるのは神社両端にある大木のムク。
南側のムクは甘い実ができる。
熟した実は皮がシワシワ。
その頃が美味しいのだ。
味といえば干し柿のような甘さだ。
北側のムクは羽子板の羽根に使われたと言う。
羽根の下にある黒い堅い玉である。
昨年に聞いたIさんによればその木はゴボゴボの木だという。
ゴボゴボは泡。であるとすれば石鹸の木。
そうであれば北側がムクロジで南側はムクノキだと思われるがどちらも現地では「ムク」と呼んでいる。
その木にアルミの梯子を掛けて綱を巻きつける。
まずはムクロジの木だ。
昔は木の梯子で3間もあったそうだ。
それを登って掛けるのはとても怖かったと年配の総代は話す。
ほぼ中央辺りに男陰と女陰を括りつける。
それらには紙垂れと細い藁を挿し込む。
そうして南側のムクノキに巻きつける。
そろそろと引き上げて丁度、鳥居前に落ちついた男陰と女陰。
こうしてツナクミを終えた村人たちは会所でささやかな直会。
慰労会のようだった。
総代の了解を得て合祀されている子安神社を拝見した。
とは言っても本殿内である。
案内されたのはその下に置かれている砂。
それは安産祈願をする砂であった。
お腹が孕んだ家では、その砂を半紙に包んで神棚に供える。
子供が無事に生まれればその砂を返す。
「そんな風習がある村なのです」と、直会を婦人たちも話していた。
その砂は「安産祈願御授砂」。
砂を扱う風習はここにもあった。
(H24. 1. 8 EOS40D撮影)