桜井市の山田にある東大谷日女命(やまとおおたにひめみこと)神社には宮座講があるらしい。
そう思って出かけたが、神社の所在地は判らない。
茶屋ノ前垣内に住むM婦人に尋ねた。
その結果は、右座・左座がマツリをしていると云うのである。
現在も行われている座中家を訪ねる前に探したⅠ区長家。
集落を巡っていたが見つからない。
集落の一角におられた数人の男性は水道工事の関係で業者と立ち話をしていた。
お声をかければそのうちの一人だったが、座中でないことから儀式のことは存知しない。
この人、あの人に聞けば判るであろうと案内してくださったU副区長について行く。
山田のことならFさんが史料を纏めるなどしているから声をかけたらどうかと、呼出のピンポンを押すも神社の行事なら区長に聞いてくれと云われて顔も見せない。
向かいに住む副区長にお礼のピンポンしていたときのことだ。
当主のFさんが門屋から顔を出されてびっくりする。
ご仁は桜井市地域の行事取材でときおりお会いするFさんだったのだ。
「もしかと思って出たら、やっぱりあんたやったんや」と云われてお互いが顔を合わせて笑顔になる。
「最近は鬱陶しい人がピンポンするんでやんわり断ったけど、名乗った名前はひょっとして」と思って門屋から顔を出したと話す。
久しぶりに顔を合わしたFさんは40年前までは右座の座中だった。
当時は学園の教師を勤めていた。
奥さんも教師であった頃、その年亡くなった親父さんの座を継ぐことは難しいと座中に伝えて退いたと云う。
そのことがきっかけになって、12軒もあった右座中は待っていたかのように一軒、一軒が辞めて残ったのは1軒。
その一軒は今でも座をしていると云うのである。
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F家の前庭には当時供えていたオナンジ参りの小石が残っていた。
オナンジでないのもあるらしいが、数個がトーヤ(当家)を勤めたときの模様である。
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当家の門屋には4年に一度の閏年の庚申さんの塔婆杖を掲げていた。
平成21年4月に実施された塔婆の祈祷文はFさんが書かれたそうだ。
桜井市の行事取材のおりには、そのような話題はまったく出なかった。
残されたF家の祭具にあらためて感動したのである。
Fさんが案内してくれた家はたった1軒で営みをされている右座のⅠ家。
この日の朝8時、東大谷日女命神社で神迎えをされた分霊の御幣はオカリヤ(御仮殿)に納められている。
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現在のオカリヤは一本脚で立つ木製の社であるが、かつては四方を丸竹で組んだ形態で、屋根に杉葉を覆っていた。
それも2階建ての様式だったと話すご両人。
当時の形態を示す記録写真はないようだ。
親父さんから引き継いで40年間も勤めてきた右座のⅠさんが「古いボロボロの文書があるけど」と持ち出した講箱。
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拝見した講帳には『當村宮座講 雑記』の書き出しは「享和三年(1803)九月二十四日」。
およそ210年前に書き記した講帳である。
記されていた宿主の名は昭和40年が最後であった。
その頃にたった一軒になったようである宿主の記帳にはFさんの名もある。
それを覚えていなかったFさんが驚くことも無理はない。
三人が目を凝らして拝見した『當村宮座講 雑記』には由来・御仮殿造り・一老二老の作法・御供・朝座・昼座献立の在り方を長々と書き記していた。
判読した文字にはシトギ、御湯釜もあった。
文中によれば、宮さんは八幡宮で末社は弁天社・牛頭天王社のようだ。
御仮殿を遷宮していたのは八月で、六尺六寸・六尺の高さ・幅寸法も記されていた。
Fさんも「初めて見たわ」という右座の文書は貴重である。
Ⅰさんが持ちだしたもう一つの箱。
おじいさんが、「これだけは処分せずに大切にせよ」と伝えられてきた本である。
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それは、なんと寛政三年(1791)五月に発行された『大和名所図会』であった。
七冊すべてが紐綴じの本物の初版が大切に保管されていたのである。
Fさんともども感動するが、当主にとっては何がなんだか、重要度に関心がないお宝よりも、「座は辞めたい」の一言である。
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山田の宮迎えのオカリヤは左座にもあった。
数年前までは4軒、それが1軒、1軒減って今では2軒だけとなった左座。
両座が平成21年10月1日に宮迎えをされた様子はFさんが撮っていた。
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『當村宮座講 雑記』によれば、羽織袴着用で出仕のこととあるが、4年前の宮迎えは普段着だ。
19日に行われる右座・左座の宮送りは是非とも取材をさせていただきたくお願いしたのである。
(H25.10. 1 EOS40D撮影)
そう思って出かけたが、神社の所在地は判らない。
茶屋ノ前垣内に住むM婦人に尋ねた。
その結果は、右座・左座がマツリをしていると云うのである。
現在も行われている座中家を訪ねる前に探したⅠ区長家。
集落を巡っていたが見つからない。
集落の一角におられた数人の男性は水道工事の関係で業者と立ち話をしていた。
お声をかければそのうちの一人だったが、座中でないことから儀式のことは存知しない。
この人、あの人に聞けば判るであろうと案内してくださったU副区長について行く。
山田のことならFさんが史料を纏めるなどしているから声をかけたらどうかと、呼出のピンポンを押すも神社の行事なら区長に聞いてくれと云われて顔も見せない。
向かいに住む副区長にお礼のピンポンしていたときのことだ。
当主のFさんが門屋から顔を出されてびっくりする。
ご仁は桜井市地域の行事取材でときおりお会いするFさんだったのだ。
「もしかと思って出たら、やっぱりあんたやったんや」と云われてお互いが顔を合わせて笑顔になる。
「最近は鬱陶しい人がピンポンするんでやんわり断ったけど、名乗った名前はひょっとして」と思って門屋から顔を出したと話す。
久しぶりに顔を合わしたFさんは40年前までは右座の座中だった。
当時は学園の教師を勤めていた。
奥さんも教師であった頃、その年亡くなった親父さんの座を継ぐことは難しいと座中に伝えて退いたと云う。
そのことがきっかけになって、12軒もあった右座中は待っていたかのように一軒、一軒が辞めて残ったのは1軒。
その一軒は今でも座をしていると云うのである。
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F家の前庭には当時供えていたオナンジ参りの小石が残っていた。
オナンジでないのもあるらしいが、数個がトーヤ(当家)を勤めたときの模様である。
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当家の門屋には4年に一度の閏年の庚申さんの塔婆杖を掲げていた。
平成21年4月に実施された塔婆の祈祷文はFさんが書かれたそうだ。
桜井市の行事取材のおりには、そのような話題はまったく出なかった。
残されたF家の祭具にあらためて感動したのである。
Fさんが案内してくれた家はたった1軒で営みをされている右座のⅠ家。
この日の朝8時、東大谷日女命神社で神迎えをされた分霊の御幣はオカリヤ(御仮殿)に納められている。
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現在のオカリヤは一本脚で立つ木製の社であるが、かつては四方を丸竹で組んだ形態で、屋根に杉葉を覆っていた。
それも2階建ての様式だったと話すご両人。
当時の形態を示す記録写真はないようだ。
親父さんから引き継いで40年間も勤めてきた右座のⅠさんが「古いボロボロの文書があるけど」と持ち出した講箱。
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拝見した講帳には『當村宮座講 雑記』の書き出しは「享和三年(1803)九月二十四日」。
およそ210年前に書き記した講帳である。
記されていた宿主の名は昭和40年が最後であった。
その頃にたった一軒になったようである宿主の記帳にはFさんの名もある。
それを覚えていなかったFさんが驚くことも無理はない。
三人が目を凝らして拝見した『當村宮座講 雑記』には由来・御仮殿造り・一老二老の作法・御供・朝座・昼座献立の在り方を長々と書き記していた。
判読した文字にはシトギ、御湯釜もあった。
文中によれば、宮さんは八幡宮で末社は弁天社・牛頭天王社のようだ。
御仮殿を遷宮していたのは八月で、六尺六寸・六尺の高さ・幅寸法も記されていた。
Fさんも「初めて見たわ」という右座の文書は貴重である。
Ⅰさんが持ちだしたもう一つの箱。
おじいさんが、「これだけは処分せずに大切にせよ」と伝えられてきた本である。
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それは、なんと寛政三年(1791)五月に発行された『大和名所図会』であった。
七冊すべてが紐綴じの本物の初版が大切に保管されていたのである。
Fさんともども感動するが、当主にとっては何がなんだか、重要度に関心がないお宝よりも、「座は辞めたい」の一言である。
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山田の宮迎えのオカリヤは左座にもあった。
数年前までは4軒、それが1軒、1軒減って今では2軒だけとなった左座。
両座が平成21年10月1日に宮迎えをされた様子はFさんが撮っていた。
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『當村宮座講 雑記』によれば、羽織袴着用で出仕のこととあるが、4年前の宮迎えは普段着だ。
19日に行われる右座・左座の宮送りは是非とも取材をさせていただきたくお願いしたのである。
(H25.10. 1 EOS40D撮影)