
春日大社と縁が深い夜都伎(やとぎ)神社は天理市乙木(おとぎ)町集落よりやや離れた北方に鎮座する。
山の辺の道を歩く人は必ず目にする神社である。

元々は夜都伎神社と春日神社の二社を祀っていたそうだ。
現在の本殿は明治三十九年に改築された春日造りの社殿は春日若宮社殿であった。
西の地に建つ朱塗りの大鳥居も春日若宮社から下げられたものだ。
拝殿は珍しい萱葺きの社殿建築。
元は神宮寺で十羅刹を奉っていたそうだ。
もしかと思って出かけた夜都伎神社の大鳥居には幣を括りつけたサカキを取り付けていた。
この日は朔座の神事と思われたのであるが、時間も判らずであった。
仕事を終えて着いた時間帯は夕刻間近。
夕陽が稲穂を美しく染めていた。
朱塗りの大鳥居は二の鳥居。
一の鳥居はこれより西方の地にあるらしい。
市川秀之論文の『民俗学から見た大和のムラ』によれば、この大鳥居とトンドバと呼ばれる地に頭屋がサカキを立てるとあった。
その存在を確かめたくて出かけたのである。
サカキ立ては神社階段下にある石造りの鳥居にもあった。
行事はどのような形式でされたのであろうか。
それを知りたくて集落を巡った。
屋外から声が聞こえた。
住民の姿を見かけて尋ねる神社行事。
この日は頭人頭屋・御供頭屋と呼ばれる二人の頭屋が早朝に立てたと云う。
その際に行われる神社の砂盛り。
そこには松・竹・梅の小枝を挿すというが、気がつかなかった。
夜都伎神社のヨミヤは12日、マツリは13日と決まっている。
昨今では土曜日曜、或いは祭日など集まりやすい日に移す地域は多いが、乙木町ではむかしも今もかわらない固定日。
今年はたまたまであるが、日曜と体育の日になった。
サラリーマンを勤めている人にとってはありがたい日である。
ヨミヤ前日の11日は千本杵のゴクツキがあった。
夜中の2時に搗くゴクツキではサラリーマンにとっては仕事に差し障る時間帯だ。
長老らは頑固として譲らなかったが、いつまでもそうするわけにいかなくなった現代。
ゴクツキはやむなく中断したという。
かつては長男男児が勤めていた頭人。
いつしか少子化となり、上は大学生であったが、下は小学生まで下がらずを得なくなった。
さらに進んだ少子化で勤めることもできなくなった頭人頭屋家。
仕方なく家廻りとする頭屋(トーヤ)家に移した。
頭屋家は御供頭屋(ゴクドーヤ)の2軒が勤める。
乙木町は四つからなる東・西・南・北垣内。西の垣内と東の垣内から始まった頭屋廻りに移したのである。
神社祭祀を勤めるのは一老、二老と呼ばれる長老と十人衆である。
家廻りとなったゆえ頭屋決め籤はしなくなったが、頭人頭屋・御供頭屋のいずれを勤めるかは一老が作法をする籤がある。
三方に載せた名前を記した紙片を拝殿で作法をする。
籤を引くというよりも手で摘まむような作法であるらしい。
話しの様相から乙木は宮座であるが、奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』には載っていない。
が、平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』によれば「満二十歳以上の男子、座中に一老、二老、おとな十人衆あり。10月13日の例祭の前日、押飯・御供搗をなし、宵宮渡御を行う。例祭渡御あり。当屋は抽籤で交替する乙木座」のことが書かれてあった。
大御幣を担ぐ両頭屋を先頭にイネカツギ、石上神宮の神官に白衣姿の一老、二老が続くお渡りは公民館付近の広場を出発して西のトンドバに向かう。
北上して大鳥居を潜って実り豊かな稲作田に挟まれた参道を東上して神社を目指すようだ。
ヨミヤもマツリも同時刻の出発と話す男性は元国立曽爾青少年自然の家が勤務地だった。
拝殿の萱葺きはずいぶんと傷んでいる。

瓦屋根に葺き替えるか、それとも今までと同様の萱葺きにするか決断を迫られていた。
が、結局は元通りの萱葺きに方向が定まった。
その萱を産出するのが太郎路の曽爾高原。
手配が済んでいると云う。
こうした乙木の在り方を聞いて再び夜都伎神社に向かった。
男性が話した砂盛りの確認であるが、どこを見渡しても見つからなかった。
(H26.10. 1 EOS40D撮影)
山の辺の道を歩く人は必ず目にする神社である。

元々は夜都伎神社と春日神社の二社を祀っていたそうだ。
現在の本殿は明治三十九年に改築された春日造りの社殿は春日若宮社殿であった。
西の地に建つ朱塗りの大鳥居も春日若宮社から下げられたものだ。
拝殿は珍しい萱葺きの社殿建築。
元は神宮寺で十羅刹を奉っていたそうだ。
もしかと思って出かけた夜都伎神社の大鳥居には幣を括りつけたサカキを取り付けていた。
この日は朔座の神事と思われたのであるが、時間も判らずであった。
仕事を終えて着いた時間帯は夕刻間近。
夕陽が稲穂を美しく染めていた。
朱塗りの大鳥居は二の鳥居。
一の鳥居はこれより西方の地にあるらしい。
市川秀之論文の『民俗学から見た大和のムラ』によれば、この大鳥居とトンドバと呼ばれる地に頭屋がサカキを立てるとあった。
その存在を確かめたくて出かけたのである。
サカキ立ては神社階段下にある石造りの鳥居にもあった。
行事はどのような形式でされたのであろうか。
それを知りたくて集落を巡った。
屋外から声が聞こえた。
住民の姿を見かけて尋ねる神社行事。
この日は頭人頭屋・御供頭屋と呼ばれる二人の頭屋が早朝に立てたと云う。
その際に行われる神社の砂盛り。
そこには松・竹・梅の小枝を挿すというが、気がつかなかった。
夜都伎神社のヨミヤは12日、マツリは13日と決まっている。
昨今では土曜日曜、或いは祭日など集まりやすい日に移す地域は多いが、乙木町ではむかしも今もかわらない固定日。
今年はたまたまであるが、日曜と体育の日になった。
サラリーマンを勤めている人にとってはありがたい日である。
ヨミヤ前日の11日は千本杵のゴクツキがあった。
夜中の2時に搗くゴクツキではサラリーマンにとっては仕事に差し障る時間帯だ。
長老らは頑固として譲らなかったが、いつまでもそうするわけにいかなくなった現代。
ゴクツキはやむなく中断したという。
かつては長男男児が勤めていた頭人。
いつしか少子化となり、上は大学生であったが、下は小学生まで下がらずを得なくなった。
さらに進んだ少子化で勤めることもできなくなった頭人頭屋家。
仕方なく家廻りとする頭屋(トーヤ)家に移した。
頭屋家は御供頭屋(ゴクドーヤ)の2軒が勤める。
乙木町は四つからなる東・西・南・北垣内。西の垣内と東の垣内から始まった頭屋廻りに移したのである。
神社祭祀を勤めるのは一老、二老と呼ばれる長老と十人衆である。
家廻りとなったゆえ頭屋決め籤はしなくなったが、頭人頭屋・御供頭屋のいずれを勤めるかは一老が作法をする籤がある。
三方に載せた名前を記した紙片を拝殿で作法をする。
籤を引くというよりも手で摘まむような作法であるらしい。
話しの様相から乙木は宮座であるが、奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』には載っていない。
が、平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』によれば「満二十歳以上の男子、座中に一老、二老、おとな十人衆あり。10月13日の例祭の前日、押飯・御供搗をなし、宵宮渡御を行う。例祭渡御あり。当屋は抽籤で交替する乙木座」のことが書かれてあった。
大御幣を担ぐ両頭屋を先頭にイネカツギ、石上神宮の神官に白衣姿の一老、二老が続くお渡りは公民館付近の広場を出発して西のトンドバに向かう。
北上して大鳥居を潜って実り豊かな稲作田に挟まれた参道を東上して神社を目指すようだ。
ヨミヤもマツリも同時刻の出発と話す男性は元国立曽爾青少年自然の家が勤務地だった。
拝殿の萱葺きはずいぶんと傷んでいる。

瓦屋根に葺き替えるか、それとも今までと同様の萱葺きにするか決断を迫られていた。
が、結局は元通りの萱葺きに方向が定まった。
その萱を産出するのが太郎路の曽爾高原。
手配が済んでいると云う。
こうした乙木の在り方を聞いて再び夜都伎神社に向かった。
男性が話した砂盛りの確認であるが、どこを見渡しても見つからなかった。
(H26.10. 1 EOS40D撮影)