
「ある時、自分の書いた記事を読みながら、ふと考えた。
-どうして私の文章はちっとも上達しないのかしら?」
という書き出しの丸山あかね氏の著書「耳と文章力」
をリハビリ中に読んでみました。
“絶対音感”ならぬ、“絶対文章感”はあるのかというテーマで、
冒頭のような書き出しですが、とても読みやすく、解りやすい文章です。
冒頭の言葉は、本当に私が感じていることで、リハビリにはもってこいの読み物
になりました。
生まれ付いての文章の達人はいるのかという問題に関しては明快ではないものの肯定的な感じです。
文書上達について、著名人のいろいろな解釈が書かれています。
天才の存在は解らないものの、テクニックは必ず磨かれるというのが大半です。
中国の政治家であり文学者だった欧陽脩という人が文章上達の秘訣として「文章を作るには三多がある。看多、作多、商量多である。」という教えを説いたそうです。
「看多」とはたくさん読む、「作多」とはたくさん文章をつくる、毎日作るのだそうです(ギァー)「商量多」とは書いた文章について推敲を重ねる意味だそうです。(アーア)
きちんとした文章のblog記事を毎日UPさせることじゃないですか。
これってこの本の著者も感じていますが、ジレンマです。(どうしたらいいんだろう。)
そしてなぜ書けないという問いに、一刀両断したのが『書く技術 なにをどう文章にする』という本を上梓なさっている森脇逸男さん。本の帯には「『書きたいけど書けない』」
と思っている人の為の書く技術指導という文字があります。
これってまるで私の話です。
そして思い切り良い一言は「書きたいことがない人に文章が書けるはずがありません。」でした。
書けないと悩んでいる人には、『書きたいことを探すことから始めてください』とアドバイスするそうです。つまり、著者いわく『書くために必要な才能というのは、文法的なことより、むしろ感じる才能、観察する才能とおもうわけ。』
と書かれています。
まことに明解、私もそのことを意識して今後も書いていこうと、これって復帰宣言でした。
この本の後半“聴覚と文章”はあまり理解できないのですが、ここまでは同感、納得でとても悩んでいた部分が癒えたように思います。