二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

悪霊(下巻)   ドストエフスキー

2010年01月06日 | ドストエフスキー
やれやれ、「悪霊」を読みおえた。
いかにもドストエフスキーらしい、圧倒的なシーンがつぎからつぎへと展開するので、無知で怠惰な読者としては、ついていくのがたいへんである。関心をもって手にしても、ライトノベルとか携帯小説とか、はやりものの改行だらけの小説になじんでいる読者は、おそらく途中で投げ出してしまうだろう。
彼は数多くの長編小説を書いたが、そのうち4作は、いずれも「世界の十大小説」に名を列してもおかしくない作品。
ドストエフスキーを、人類が生み出した世界最大の小説家だというと、きっと、多くの反論が寄せられるに違いないが、わたしは、どうしても、いまはそういってみたい衝動を抑えることができない。
規格はずれの破天荒な人間もいれば、われわれ読者のような「なみの人間」もいる。
才能ある作家ならば、主要登場人物のうち、だれをつれてきても、その人間を主人公にした別な小説をつくれると思わせるところもすごい。わたしの乏しい経験をふりかえっても、T・ハリス、スティーヴン・ハンター、マイクル・コナリーなど、ミステリ・冒険小説の書き手のなかに、ドストエフスキーの作り出した人間像の反映をいくらでも指摘することができる。

姪のソフィアに宛てた手紙のなかに、つぎのような一節があるのはよく知られている。
「キリスト教文学にあらわれた美しい人びとのなかで、最も完成されたものはドン・キホーテです。しかし、彼が美しいのは、それと同時に彼が滑稽であるためにほかなりません。ディケンズのピクウィックも、やはり滑稽で、ただそのために人びとをひきつけるのです」
これは「白痴」構想中に書かれているので、その主人公ムイシュキン公爵を作り出す苦心談だと思われているだろうが、これはそのまま、「悪霊」のステパン先生その人に、ずばりあてはまる。つまり、本書の主筋は、このステパンと、ワルワーラ夫人の、奇妙奇天烈な愛の物語なのである。ねじくれた、滑稽かつ愚劣な愛。ステパン先生が、長いこと厄介になっていたワルワーラ夫人の邸宅から「家出」をし、病をおして短い放浪の旅に出ていくシーンは美しい。これこそ、ドストエフスキーによって構想された、ドン・キホーテの旅である。読みながら、わたしは涙をこらえることができなかった。いや、涙が光っているのは、むしろ、作者の筆のほうだろう。

この小説は、政治思想小説として読むことも可能だし、深遠な哲学小説として読むこともできる。そういったものへの、峻烈なアレゴリーとして。作者はどの登場人物に対しても、容赦しない。スタヴローギンも、ピョートルも、キリーロフも、構想された物語の一登場人物である。その全編をつらぬいているのが、形容を絶した、愚かしくも滑稽な、老いた男女の愛の物語であったとは! 以前、若いころ、わたしには「悪霊」は、ただだらだらと長ったらしいだけの、失敗作に映った。わたしは、思想小説として、いわば、エピグラムのようなものや、深淵なる哲学論議を期待していた、というわけである。
ドストエフスキーが生来もっていたセンチメンタリズムや抒情性は、経験や年齢によって鍛えられ、苦みや渋みがくわわり、成長をとげていく。繊細な無垢な魂が、・・・あるいは、そういったセンチメンタリズムや抒情性が、この過酷な世間のなかで、どのようないわば受難にさらされるかを、作者は執拗に描いていく。
満を持してのワルワーワ夫人の登場!
ここにある、愛。つまりほかのだれでもない、なぜ「あなた」が必要なのか?
それは、愛というしかないものなのか? ただの石ころと、どこが違うのか?
人は、結局のところ、なんのために生きる?

しかし、ドストエフスキーは、これだけでは終わらせない。
第8章「結末」の最後の数ページ。ネタばれともなるので、そこを引用するのはひかえるが、天才のみが洞察しえた、戦慄的なシーンであり、諧謔というか、ブラックユーモアというか、・・・あきれるばかりの見事なラストシーンである。
ここを読んで胸をゆさぶられない読者は、こういう質問をしたことがいのに違いない。
「人間とはなにか?」
小説を書くものにとって、これが最初の、そして最後の質問なのである。その質問をたぐりつつ、ドストエフスキーは、じつに遠くまで、もうそこからさきには、なにもない、真っ白な虚無しかないような場所まで、読者をつれていく。そして、そこまでいって、彼は引き返してくるのだ。ひとりの平凡な人間として、不幸が重なった家庭の父親=夫として、あまり理解者のえられない物書きとして、彼をつつんでいる日常のなかへ。われわれもまた、「そこ」へもどるべきときだろう。
しかし、わたしは本書を、まだ十分くみつくしてはいない。わたしの理解がおよばないところが、いくらでも出てくる。小説とは、そういったものなのであろうか?


評価:★★★★★

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