
mixiにはたくさんのアルバムを置いてある。
その中に「郷土遊覧記」があるが、結局はこの一冊に、他のすべてのフォトをぶちこんでもイイのである。そのことは以前にも書いた。
「夕景・空景」も「草木花伝」も「片隅の小さな世界」も、「郷土遊覧記」を形成する一章にすぎない。
「ネコの散歩道」にせよ、「ポートレイト&記念写真」にせよ、「夜への階段」にせよ、郷土遊覧記から派生したもの。やや大雑把に、単純化していえばそういうことになる。
ところでわたしには「フラグメント」と題するアルバムがある。タイトルは「一瞬のチャンスをとらえた街角スナップ」というほどのニュアンスをこめてある♪
そして、なにが特徴かというと、写真の大部分を、クルマの中から撮っている・・・ということ。
それをフラグメントと称している(^^)/
ところでトップにあげた一枚は、近ごろのお気に入り。
このフォトについて、マイミクtakkさんが、つぎのようなコメントを寄せて下さった。
《これはなんかいいです。女性の左手の先は影だけ見えている。右の窓は緑の装飾が施されていますが、そこに実際には見えない木の影がよりそっている。宅配の男性は家の主が出てくるのを待っているようですが、僕にはなんとなく不在の気配を感じてしまいます。夕刻(に見えますが)のなんとなく不思議な光景。》
これを拝見して、いささかびっくり(@_@)
takkさんは、深くこの一枚を読んで下さったのである。同じくマイミクあっCさんも、ときおりわたし自身が漠然と感じてはいても、もやもやしてよくわからないところにまで、ことばの触手をのばして下さる。
信号待ち、フロントガラス越しに撮影したので、画面の隅々までは視ていない(見えていない)のだ。パソコンのディスプレイに拡げ、はじめて「ほほぅー」となる(^^)/
takkさんの“読み”通り、夕刻の寸景。
その“読み”の深さ、正確さに、わたしは脱帽せざるをえない。こういう洞察力をもっておられる方はごくわずか、とても貴重な存在であると思う!(^^)!
ところで、「フラグメント」から、もう一つの状況が見えてくる。




こういったショットを、あなたはどう“読み”、そして感じるのだろうか?
たとえば、無関係な“関係”ということばを添えてみる。
するとこれらの断片(フラグメント)から、偶然性に支配されたリアルな現実があぶりだされる。
スナップショットは、まさにこの偶然性に、多くを負っている。それをつかまえるのが、スナップショットの醍醐味(^^;)
ひたすら街を歩く
ひたすら街を歩く
ひたすら街を歩く
しかし・・・ここで思い出すのはアンリ・カルティエ=ブレッソンやゲイリー・ウィノグランドの仕事。
彼らがいかに長いながい・・・気が遠くなるほどの時間をかけて、撮影という作業に携わったかを思いみるべきだろう。
その時間の大半を、彼らは、路上で過ごした、カメラを手にして。
わたしがもっているウィノグランドの写真集(英語版)は「FIGMENTS FROM THE REAL WORLD」(直訳すれば「現実の世界からの虚構」)と題されている。
最近の出来事でいえば、なんといってもヴィヴィアン・マイヤーの作品群が世にあらわれ
た衝撃!! が、わたしの頭の隅に存在する。
偶然の女神を味方につけると簡単に人は(わたしも)いうが、それがどれほど困難な作業
か、想像してみるのはムダではないだろう。
その中に「郷土遊覧記」があるが、結局はこの一冊に、他のすべてのフォトをぶちこんでもイイのである。そのことは以前にも書いた。
「夕景・空景」も「草木花伝」も「片隅の小さな世界」も、「郷土遊覧記」を形成する一章にすぎない。
「ネコの散歩道」にせよ、「ポートレイト&記念写真」にせよ、「夜への階段」にせよ、郷土遊覧記から派生したもの。やや大雑把に、単純化していえばそういうことになる。
ところでわたしには「フラグメント」と題するアルバムがある。タイトルは「一瞬のチャンスをとらえた街角スナップ」というほどのニュアンスをこめてある♪
そして、なにが特徴かというと、写真の大部分を、クルマの中から撮っている・・・ということ。
それをフラグメントと称している(^^)/
ところでトップにあげた一枚は、近ごろのお気に入り。
このフォトについて、マイミクtakkさんが、つぎのようなコメントを寄せて下さった。
《これはなんかいいです。女性の左手の先は影だけ見えている。右の窓は緑の装飾が施されていますが、そこに実際には見えない木の影がよりそっている。宅配の男性は家の主が出てくるのを待っているようですが、僕にはなんとなく不在の気配を感じてしまいます。夕刻(に見えますが)のなんとなく不思議な光景。》
これを拝見して、いささかびっくり(@_@)
takkさんは、深くこの一枚を読んで下さったのである。同じくマイミクあっCさんも、ときおりわたし自身が漠然と感じてはいても、もやもやしてよくわからないところにまで、ことばの触手をのばして下さる。
信号待ち、フロントガラス越しに撮影したので、画面の隅々までは視ていない(見えていない)のだ。パソコンのディスプレイに拡げ、はじめて「ほほぅー」となる(^^)/
takkさんの“読み”通り、夕刻の寸景。
その“読み”の深さ、正確さに、わたしは脱帽せざるをえない。こういう洞察力をもっておられる方はごくわずか、とても貴重な存在であると思う!(^^)!
ところで、「フラグメント」から、もう一つの状況が見えてくる。




こういったショットを、あなたはどう“読み”、そして感じるのだろうか?
たとえば、無関係な“関係”ということばを添えてみる。
するとこれらの断片(フラグメント)から、偶然性に支配されたリアルな現実があぶりだされる。
スナップショットは、まさにこの偶然性に、多くを負っている。それをつかまえるのが、スナップショットの醍醐味(^^;)
ひたすら街を歩く
ひたすら街を歩く
ひたすら街を歩く
しかし・・・ここで思い出すのはアンリ・カルティエ=ブレッソンやゲイリー・ウィノグランドの仕事。
彼らがいかに長いながい・・・気が遠くなるほどの時間をかけて、撮影という作業に携わったかを思いみるべきだろう。
その時間の大半を、彼らは、路上で過ごした、カメラを手にして。
わたしがもっているウィノグランドの写真集(英語版)は「FIGMENTS FROM THE REAL WORLD」(直訳すれば「現実の世界からの虚構」)と題されている。
最近の出来事でいえば、なんといってもヴィヴィアン・マイヤーの作品群が世にあらわれ
た衝撃!! が、わたしの頭の隅に存在する。
偶然の女神を味方につけると簡単に人は(わたしも)いうが、それがどれほど困難な作業
か、想像してみるのはムダではないだろう。