
(この本は単行本も手許にある。大型のクロス装で、持ち重りのする一冊)
内田樹さんの「下流志向」を読みおえたあと、三浦展さんの「下流社会 新たな階層集団の出現」を読みはじめた。
同じく“下流”ということばが使われているので、以前から気になっていた。
わたしは、高度成長期、そして一億総中流といわれた時代に自己形成した世代に属する。
しかし、そういう時代はすでに過去のものとなった。いまや低成長、あるいは成長なき時代といわれて久しい。
昭和から平成へ・・・政治的・経済的な要因がガラッと変わり、イデオロギーと革命の20世紀が終焉を迎えた。わりあいわかりやすい東西冷戦構造から、複雑怪奇な多極化の時代の到来である。
また近未来予測がたてにくく、不透明感が濃い時代でもある。
内田さんと三浦さんでは当然、論攷の根拠とするところがずいぶん違う。
三浦さんはマーケティング・アナリストと自称し、株式会社カルチャースタディーズ研究所代表である。
お二人が、過去の経歴や現実の社会のどこに軸足を置いているかで、現状分析が違うのも、また当然であろう。
「下流社会」はまだ読みはじめたばかりなので、内容には立ち入らない。
ところで、数週間前から気になっていて、読み返そうとしている本に、カフカの「変身」とカミュの「異邦人」がある。どちらもわたし的には「絶対名作」と評価している本である(^^)/
この二作をたとえば「家族をめぐる物語」として読んだらどうなるか?
そんな思念が昨日頭にひらめき、少し考え込んでいる。
毒虫に変身したグレゴール・ザムザは、その変身が原因で家族から追放された人間である。
一方「異邦人」の主人公ムルソーは、唯一の家族たる母が死に、たった一人でこの世に投げだされた人間。
内田さんの場合も、三浦さんの場合も、21世紀の若者たちを社会学的な視点から分析するのもいいけれど、その背後にある家族像にはほとんど顧慮していない・・・そういう観点が欠けていると思うからである。父と母がいなければ、子は生まれてこない。

(三浦展「下流社会 新たな階層集団の出現」光文社新書 2005年刊)

(カミュ「異邦人」新潮文庫版)
現代は、家族の崩壊の時代である。非婚率が上昇し、離婚が増え、国民の階層化がすすんでいる。
これを、いったいどういう観点から“現状分析”したらいいのか?
文学作品として味わうだけでなく、現状分析のための資料として読んだらどうか、ということである。
「異邦人」には、脇役としてサラマノ老人が登場する。
かさぶただらけのスパニエル犬を連れてよく散歩していて、ムルソーとたびたび出会う、作品中の「名脇役」といった人物。
このサラマノ老人を、カミュはなぜ、仔細に書き込んだのだろう・・・ということは、以前より気になっていた。
というもの、このサラマノ老人を彷彿とさせる、そういうタイプの老人を、あちこちで、よく見かけるようになったからである。
仕事をしながら見えてくる入居者や、撮影のため歩きまわる街角、あるいはスーパーでよくすれ違う買い物客の中に、サラマノ老人がいる。
また母子家庭が、以前では想像できなかったくらいふえている。男が家庭から逃走したのか、母子が夫・父を見捨てたのか(?_?)
いろいろなケースがあるので一概にはいえないが、いずれにせよ、崩壊する家族の一局面といっていいだろう。
崩壊または漂流する家族。
そういうものを考えるためのテキストとして、「変身」「異邦人」を読み返す。
そうしたら、いままで見えなかったある部分が、パッと見えてくるのではないか。
なぜ家族は、崩壊し、漂流するのだろうかと考えていたら、ある事件に遭遇した。
数ヶ月前、わたしが管理するアパートで、何が原因かはわからないが、母から、夫(同居人?)から姿を隠してしまった母子は、どこへ消えたのだろう。
守秘義務があるため、これ以上詳しくは書けない。むろん、こういったケースばかりでなく、昭和の常識では何とも見えにくい“事件”がわたしの身辺に渦巻いているのだ。
冒頭にあげた司馬さんの「草原の記」も、核心にあるのは、ある家族の物語。
わたしは「草原の記」を読みおえたとき、滂沱たる涙にかきくれたことを思い出す。
NHKでは「ファミリー・ヒストリー」が高視聴率をとっている。
時代をさかのぼることで見えてくる家族像もあるのだ。
ふうむ、何だか気の重い作業でもある。
家族・・・とは何か?
内田樹さんの「下流志向」を読みおえたあと、三浦展さんの「下流社会 新たな階層集団の出現」を読みはじめた。
同じく“下流”ということばが使われているので、以前から気になっていた。
わたしは、高度成長期、そして一億総中流といわれた時代に自己形成した世代に属する。
しかし、そういう時代はすでに過去のものとなった。いまや低成長、あるいは成長なき時代といわれて久しい。
昭和から平成へ・・・政治的・経済的な要因がガラッと変わり、イデオロギーと革命の20世紀が終焉を迎えた。わりあいわかりやすい東西冷戦構造から、複雑怪奇な多極化の時代の到来である。
また近未来予測がたてにくく、不透明感が濃い時代でもある。
内田さんと三浦さんでは当然、論攷の根拠とするところがずいぶん違う。
三浦さんはマーケティング・アナリストと自称し、株式会社カルチャースタディーズ研究所代表である。
お二人が、過去の経歴や現実の社会のどこに軸足を置いているかで、現状分析が違うのも、また当然であろう。
「下流社会」はまだ読みはじめたばかりなので、内容には立ち入らない。
ところで、数週間前から気になっていて、読み返そうとしている本に、カフカの「変身」とカミュの「異邦人」がある。どちらもわたし的には「絶対名作」と評価している本である(^^)/
この二作をたとえば「家族をめぐる物語」として読んだらどうなるか?
そんな思念が昨日頭にひらめき、少し考え込んでいる。
毒虫に変身したグレゴール・ザムザは、その変身が原因で家族から追放された人間である。
一方「異邦人」の主人公ムルソーは、唯一の家族たる母が死に、たった一人でこの世に投げだされた人間。
内田さんの場合も、三浦さんの場合も、21世紀の若者たちを社会学的な視点から分析するのもいいけれど、その背後にある家族像にはほとんど顧慮していない・・・そういう観点が欠けていると思うからである。父と母がいなければ、子は生まれてこない。

(三浦展「下流社会 新たな階層集団の出現」光文社新書 2005年刊)

(カミュ「異邦人」新潮文庫版)
現代は、家族の崩壊の時代である。非婚率が上昇し、離婚が増え、国民の階層化がすすんでいる。
これを、いったいどういう観点から“現状分析”したらいいのか?
文学作品として味わうだけでなく、現状分析のための資料として読んだらどうか、ということである。
「異邦人」には、脇役としてサラマノ老人が登場する。
かさぶただらけのスパニエル犬を連れてよく散歩していて、ムルソーとたびたび出会う、作品中の「名脇役」といった人物。
このサラマノ老人を、カミュはなぜ、仔細に書き込んだのだろう・・・ということは、以前より気になっていた。
というもの、このサラマノ老人を彷彿とさせる、そういうタイプの老人を、あちこちで、よく見かけるようになったからである。
仕事をしながら見えてくる入居者や、撮影のため歩きまわる街角、あるいはスーパーでよくすれ違う買い物客の中に、サラマノ老人がいる。
また母子家庭が、以前では想像できなかったくらいふえている。男が家庭から逃走したのか、母子が夫・父を見捨てたのか(?_?)
いろいろなケースがあるので一概にはいえないが、いずれにせよ、崩壊する家族の一局面といっていいだろう。
崩壊または漂流する家族。
そういうものを考えるためのテキストとして、「変身」「異邦人」を読み返す。
そうしたら、いままで見えなかったある部分が、パッと見えてくるのではないか。
なぜ家族は、崩壊し、漂流するのだろうかと考えていたら、ある事件に遭遇した。
数ヶ月前、わたしが管理するアパートで、何が原因かはわからないが、母から、夫(同居人?)から姿を隠してしまった母子は、どこへ消えたのだろう。
守秘義務があるため、これ以上詳しくは書けない。むろん、こういったケースばかりでなく、昭和の常識では何とも見えにくい“事件”がわたしの身辺に渦巻いているのだ。
冒頭にあげた司馬さんの「草原の記」も、核心にあるのは、ある家族の物語。
わたしは「草原の記」を読みおえたとき、滂沱たる涙にかきくれたことを思い出す。
NHKでは「ファミリー・ヒストリー」が高視聴率をとっている。
時代をさかのぼることで見えてくる家族像もあるのだ。
ふうむ、何だか気の重い作業でもある。
家族・・・とは何か?