中沢新一さんの「日本の大転換」を、8月17日の発売日に買ってきたので、卒読した印象を少しだけ書いておこう。
わたし自身が2011.3.11の東日本大震災を、日本の転換点となるだろうととらえているので、彼の発言に、耳を傾けてみたくなったのである。
これはご本人が書いているように「マニフェスト」である。日本人として、日本人へ呼びかけ、根底からエネルギー革命(彼は第八次といっている)をおこなわないかぎり、日本社会に未来はないとまでいっている。むろんそこには、中沢さんの文脈に沿った言語がある。
たとえば《燃え盛るあでやかな火の色から、緑の植物への色彩変化》といった表現ひとつ取り上げてもそうである。
現代の高度資本主義の象徴を、原子力エネルギーにもとめ、いずれ金融資本が支配する市場が、社会そのものをのみこむだろうと、警告する。なるほど、そういった経済社会学的な視点から「原発」を告発する方法があったのか。彼は「エネルゴロジー」という新たな概念を提案している。
《原核生物の「発見した」光合成こそ、来るべき時代の「中庸なエネルギー技術」のひながたとなるものである》
どういうわけか、読みにくくて、その主要著作をほとんど読んでいないわたしが評するのはおかしいが、あえていえば、随所に「中沢さんならでは」の発想が鏤められていて、それが目が覚めるように清新なものに映る。
「いったい中沢さん、ずばりなにをいいたいのだろう?」
勉強の産物ではなく、ナイフを刺したら、どんな色の血がながれるのかを、わたしは、この種の書物にもとめている。
そして、つぎのようなことばに注目する。
《第八次エネルギー革命は、一神教から仏教への展開として理解することができる》(本書66ページ)
中沢さんのご専門は宗教学だと、わたしは理解しているのだが、この種の隻句の中に、わたしはその思想の本領を察知したいとおもう。彼の思想には、折口信夫さんや、網野善彦さん、吉本隆明さんの精神が流れ込んでいる。
しかし、宗教学者としての本領が、その奥に潜んでいるのである。彼の「宗教学」は、むしろ「宗教社会学」といったほうが、見当をつけやすいのだろう。
出版界、教育界、言論界の一部から強い関心が寄せられ、評価が高まっている内田樹さんにも、新時代を撃つ新鋭の社会学者としての風貌がある。だが、中沢さんがはじめに出会ったのは、チベット密教である。そこから学者としてスタートを切ったのだろうし、いまでは、思想の骨格は、「学者」としての範疇を、大きく超えてしまった。そして、わたしの視るところ、知の冒険者として、現在、日本の思想界の第一線に立っている。チベット密教は、日本の真言宗とは、双子の関係にある。その中核思想は、ひとことでいえば「生命哲学」である。
資本主義の閉塞状況がここ数年、いろいろと明らかになっている。中沢さんは、その打破を、宗教社会学的な観点からもくろんでいる。彼の宗教社会学は、人間学である。われわれ日本人は、どういった近未来を拓り開こうとするのか? それはいまこのとき、選択的意志決定の重要課題として噴出している。
中沢さんは、3.11以降のいまこそ、マニフェストを提起するときであると、決断したのである。マニフェストであるため、多少の粗漏はあるだろう。だが、日本の「思想界」(そんなものがあるとして・・・)から、中沢さんのようた人が樹って、これまでの業績のすべてを賭けるような発言をおこなった勇気に、率直なエールを送りたいとおもう。
既得権にしがみつき、ことなかれ主義に汲々としているのではなく、社会のいわば底辺で右往左往している人びとに、この本は一縷の光明となるだろう。わたしが詩を書きながら眺めている方向と、中沢さんのそれが、案外近いのを確認できたのも、ひとつの収穫であった。
その考え方の原形に、「臨床の知」が深く根を下ろしていると、わたしは想像してきた。つまり観念論的な書斎の人ではなく、フィールドワークを不可欠とする現実家なのである。
どちらか一方の比重が高くなりすぎると、彼はバランスをとるために、書斎をあとにして「現実」へと歩き出す。あるいはその逆の方向へ。補足として追加収録されている「太陽と緑の経済」(元来は講演記録らしいが)を読んでいると、中沢さんのそういった思考のダイナミズムがうっすらと見えてくる。だから、これを読んで、彼が「社会運動家」へと転身していくと想像するのは、やや早計だろう。いずれにせよ、この人の行動や発言からは、しばらく眼がはなせないと、わたしは考えている。
わたし自身が2011.3.11の東日本大震災を、日本の転換点となるだろうととらえているので、彼の発言に、耳を傾けてみたくなったのである。
これはご本人が書いているように「マニフェスト」である。日本人として、日本人へ呼びかけ、根底からエネルギー革命(彼は第八次といっている)をおこなわないかぎり、日本社会に未来はないとまでいっている。むろんそこには、中沢さんの文脈に沿った言語がある。
たとえば《燃え盛るあでやかな火の色から、緑の植物への色彩変化》といった表現ひとつ取り上げてもそうである。
現代の高度資本主義の象徴を、原子力エネルギーにもとめ、いずれ金融資本が支配する市場が、社会そのものをのみこむだろうと、警告する。なるほど、そういった経済社会学的な視点から「原発」を告発する方法があったのか。彼は「エネルゴロジー」という新たな概念を提案している。
《原核生物の「発見した」光合成こそ、来るべき時代の「中庸なエネルギー技術」のひながたとなるものである》
どういうわけか、読みにくくて、その主要著作をほとんど読んでいないわたしが評するのはおかしいが、あえていえば、随所に「中沢さんならでは」の発想が鏤められていて、それが目が覚めるように清新なものに映る。
「いったい中沢さん、ずばりなにをいいたいのだろう?」
勉強の産物ではなく、ナイフを刺したら、どんな色の血がながれるのかを、わたしは、この種の書物にもとめている。
そして、つぎのようなことばに注目する。
《第八次エネルギー革命は、一神教から仏教への展開として理解することができる》(本書66ページ)
中沢さんのご専門は宗教学だと、わたしは理解しているのだが、この種の隻句の中に、わたしはその思想の本領を察知したいとおもう。彼の思想には、折口信夫さんや、網野善彦さん、吉本隆明さんの精神が流れ込んでいる。
しかし、宗教学者としての本領が、その奥に潜んでいるのである。彼の「宗教学」は、むしろ「宗教社会学」といったほうが、見当をつけやすいのだろう。
出版界、教育界、言論界の一部から強い関心が寄せられ、評価が高まっている内田樹さんにも、新時代を撃つ新鋭の社会学者としての風貌がある。だが、中沢さんがはじめに出会ったのは、チベット密教である。そこから学者としてスタートを切ったのだろうし、いまでは、思想の骨格は、「学者」としての範疇を、大きく超えてしまった。そして、わたしの視るところ、知の冒険者として、現在、日本の思想界の第一線に立っている。チベット密教は、日本の真言宗とは、双子の関係にある。その中核思想は、ひとことでいえば「生命哲学」である。
資本主義の閉塞状況がここ数年、いろいろと明らかになっている。中沢さんは、その打破を、宗教社会学的な観点からもくろんでいる。彼の宗教社会学は、人間学である。われわれ日本人は、どういった近未来を拓り開こうとするのか? それはいまこのとき、選択的意志決定の重要課題として噴出している。
中沢さんは、3.11以降のいまこそ、マニフェストを提起するときであると、決断したのである。マニフェストであるため、多少の粗漏はあるだろう。だが、日本の「思想界」(そんなものがあるとして・・・)から、中沢さんのようた人が樹って、これまでの業績のすべてを賭けるような発言をおこなった勇気に、率直なエールを送りたいとおもう。
既得権にしがみつき、ことなかれ主義に汲々としているのではなく、社会のいわば底辺で右往左往している人びとに、この本は一縷の光明となるだろう。わたしが詩を書きながら眺めている方向と、中沢さんのそれが、案外近いのを確認できたのも、ひとつの収穫であった。
その考え方の原形に、「臨床の知」が深く根を下ろしていると、わたしは想像してきた。つまり観念論的な書斎の人ではなく、フィールドワークを不可欠とする現実家なのである。
どちらか一方の比重が高くなりすぎると、彼はバランスをとるために、書斎をあとにして「現実」へと歩き出す。あるいはその逆の方向へ。補足として追加収録されている「太陽と緑の経済」(元来は講演記録らしいが)を読んでいると、中沢さんのそういった思考のダイナミズムがうっすらと見えてくる。だから、これを読んで、彼が「社会運動家」へと転身していくと想像するのは、やや早計だろう。いずれにせよ、この人の行動や発言からは、しばらく眼がはなせないと、わたしは考えている。