「自己と他者」と日本語で書くと、とても重たくなってしまう。
だけど、これは、写真の本質のようなものを、ずばり一言で衝いた表現ではないか・・・と、ずっと考えていた。
アマチュアで、「その人固有のまなざし」をもっている人は、そう多くはない。
お手本を引きずっていたり、なにかありきたりのフィルターで風景を眺めたり、
すでにある美の形式をなぞったりしているだけ。わたし自身をふくめて。
「SELF AND OTHERS」とはまた、36歳でこの世を去った、牛腸茂雄さんの写真集のタイトルでもある。
「おれはこういう写真が好きなんだよね」
写真集団「はぐれ雲」をやっていたころ、友人が持ってきて見せてくれたその一冊の本は、そのころ、日光や忍野や裏磐梯の有名な撮影地写真に惹かれていたわたしには、よくはわからなかった。いまでも、その世界を、ほんとうに理解できていると、いえるのかどうか?
SELF AND OTHERS――この語は、胸椎カリエスで身体に障害を負い、36歳でこの世を去らねばならなかった牛腸さんにとっては、自己や他者への重い問いかけになっている。
その人固有のまなざしとはなんだろう?
見ると、見つめ返してくる。
その力に、一つひとつ、たえて、こちらも見つめ返さなければならない。
「おれはこういう写真が好きなんだよね」といったとき、Aさんは、わたしになにをつたえたかったのだろう。17、8年もたって、そのことが気になる。
人には人の苦しみなんてわからないのかもしれないね。
手をのばせば届く距離に立っている人間までの、遠いとおい旅程。
カメラはその像を一瞬でつかまえるけれど、意識は、あるいは認識は、はるか遅れてついてくる。
人は人を見ることによって、己を認識する。
外界とは窓であり、鏡である。
そこには他者がいるが、人間は「自己」という環境にしばりつけられている。
自己という、小さな節穴を通して世界を見ている、否応なしに、ね。
牛腸さんは、“SELF”と“OTHERS”をなぜANDでむすんだのだろう。
そのとき、ある意味で、割に合わない、不公平な自己の運命を肯定し、受容したのだろうか?
それとも、否定も肯定もできぬまま、「見る者」の判断にゆだねたのだろうか?
写真集は持ってはいないけれど、「SELF AND OTHERS」に収録された、牛腸さんが撮った牛腸さんの母の表情を、いまでも忘れることができない。穏やかな笑みをたたえた、母のあの顔。それはむろん、障害をかかえて生きねばならない息子茂雄に向けられた、ひとりの母の顔である。
昨日、伊勢崎市のカメラ散歩を終え、帰宅途中のクルマのなかで、しきりにそんなことを考えた。
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アルバム「季節風」はこちら。(mixi会員用)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000017750212&owner_id=4279073
※牛腸茂雄
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4RNWN_jaJP322JP334&q=%E7%89%9B%E8%85%B8%E8%8C%82%E9%9B%84&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi
だけど、これは、写真の本質のようなものを、ずばり一言で衝いた表現ではないか・・・と、ずっと考えていた。
アマチュアで、「その人固有のまなざし」をもっている人は、そう多くはない。
お手本を引きずっていたり、なにかありきたりのフィルターで風景を眺めたり、
すでにある美の形式をなぞったりしているだけ。わたし自身をふくめて。
「SELF AND OTHERS」とはまた、36歳でこの世を去った、牛腸茂雄さんの写真集のタイトルでもある。
「おれはこういう写真が好きなんだよね」
写真集団「はぐれ雲」をやっていたころ、友人が持ってきて見せてくれたその一冊の本は、そのころ、日光や忍野や裏磐梯の有名な撮影地写真に惹かれていたわたしには、よくはわからなかった。いまでも、その世界を、ほんとうに理解できていると、いえるのかどうか?
SELF AND OTHERS――この語は、胸椎カリエスで身体に障害を負い、36歳でこの世を去らねばならなかった牛腸さんにとっては、自己や他者への重い問いかけになっている。
その人固有のまなざしとはなんだろう?
見ると、見つめ返してくる。
その力に、一つひとつ、たえて、こちらも見つめ返さなければならない。
「おれはこういう写真が好きなんだよね」といったとき、Aさんは、わたしになにをつたえたかったのだろう。17、8年もたって、そのことが気になる。
人には人の苦しみなんてわからないのかもしれないね。
手をのばせば届く距離に立っている人間までの、遠いとおい旅程。
カメラはその像を一瞬でつかまえるけれど、意識は、あるいは認識は、はるか遅れてついてくる。
人は人を見ることによって、己を認識する。
外界とは窓であり、鏡である。
そこには他者がいるが、人間は「自己」という環境にしばりつけられている。
自己という、小さな節穴を通して世界を見ている、否応なしに、ね。
牛腸さんは、“SELF”と“OTHERS”をなぜANDでむすんだのだろう。
そのとき、ある意味で、割に合わない、不公平な自己の運命を肯定し、受容したのだろうか?
それとも、否定も肯定もできぬまま、「見る者」の判断にゆだねたのだろうか?
写真集は持ってはいないけれど、「SELF AND OTHERS」に収録された、牛腸さんが撮った牛腸さんの母の表情を、いまでも忘れることができない。穏やかな笑みをたたえた、母のあの顔。それはむろん、障害をかかえて生きねばならない息子茂雄に向けられた、ひとりの母の顔である。
昨日、伊勢崎市のカメラ散歩を終え、帰宅途中のクルマのなかで、しきりにそんなことを考えた。
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アルバム「季節風」はこちら。(mixi会員用)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000017750212&owner_id=4279073
※牛腸茂雄
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4RNWN_jaJP322JP334&q=%E7%89%9B%E8%85%B8%E8%8C%82%E9%9B%84&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi