二草庵摘録

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半藤一利「山県有朋」(ちくま文庫)レビュー

2019年06月06日 | 歴史・民俗・人類学
   (さほど期待しないで読みはじめたが、紛れもなく評伝の秀作であった)


文学のジャンルに、伝記、評伝といわれるものがある。いままでそれほど読んできてはいなかったが、それでも10冊かそこいらは読んでいる。
本書、半藤一利さんの「山県有朋」はそういう経験に照らし、十分秀作の名に値すると確信する。

長ったらしくだらだらすすんでいくのではない。
簡にしてじつに要を得ている。うまいなあ半藤さん。
こういう手法を、文藝春秋の編集者として、その謦咳に接した松本清張さんや司馬遼太郎さんから学んだのだ。
清張さんには「昭和史発掘」「日本の黒い霧」などの昭和史シリーズ、司馬さんにはあまたの幕末・明治の歴史小説がある。

しかし、あの山県有朋ですぞ! 
山県はA級戦犯として処刑された東條とならぶ憎まれ役。
徴兵制、軍人勅諭の陰の演出家、悪名高き大日本帝国陸軍の育ての親である。

《枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵》

これが山県の墓誌にしるされた位階勲等だそうである。
“大日本帝国をつくった男”山県有朋とまで、半藤さんはいう。

《長州の奇兵隊を出発点に伊藤博文とともに、「偉大なる明治」の基盤を確立した山県有朋。彼は、統帥権の独立、帷幄上奏の慣例、軍部大臣現役武官制などで軍の政治的地位を高め、その武力を背景に短期間で大日本帝国を築き上げた。しかし、その仕組みゆえに、軍の独走を許し、大日本帝国は滅んだ…。「幕末史」と「昭和史」をつなぐ怪物の人生を、見事に描き切る。》(Amazonにおける本書データベースより引用)

戦争を、いやあの悲惨な敗戦をきっかけに、わが国は、手のひらを返すように、ガラリと変貌したのだ。
結果的に何十万人、何百万人という日本人を死の淵に追いやったのが、この山県有朋。
首魁・・・である。
高所大所から歴史的過去を裁くのは愚かな所行というべきだが、人間はそうせずにはいられない。

あとがきでもふれているように、半藤さんは稿を起こしてからも「おれにはこいつはとても書けん」と、執筆はとどこおりがちであったという。
にもかかわらず、こういう見事な評伝が姿をあらわしたのだ。そのことに拍手を送らずにはいられない。
人気役者なら、ファンは大勢いるし、資料は掃いて捨てるほど見つかるだろう。

ところが、同時代の伊藤博文と較べて、驚くほど資料が少なく、取り上げうるに足るエピソードもほとんどないそうである。陽の伊藤対陰の山県。
司馬さんはこの男の先を歩いた高杉晋作、大村益次郎のことは書いても、山県有朋は取り上げようとはしなかった。
本書を読んでみればわかるが、およそ歴史・時代小説向きの人間ではない。

《統帥権の独立とは、国家内にもう一つの国家ができる危険を内包したものであった。しかも、近代日本においては、憲法の制定のはるか以前にそれが完成していたところに大きな問題があったのである。》(本書126ページ)

《山県は自分の欧米体験や最近に視察を終えて帰国した参謀の話から、西欧では「国家」と「神」が首座であることが知らされた。日本において西欧のその「神」と等比されるものは何なのか。若き日の彼が、松下村塾や久坂玄瑞に学んだ「万世一系の天皇」が鮮明に浮かび上がってきた。その存在は既成の体制を超えて、いにしえからの歴史的事実、あるいはうるわしき伝統として、日本人の心のうちに潜在する“至高”のものなのではあるまいか。》(138ページ)

天皇を「神」の位置、現人神に据えたのもまた、山県であった。
国家のために死を恐れず戦う最強の兵士を育てるために、天皇=現人神は必要不可欠な装置であったのだ。そこに“統帥権の独立”を付け加えることで、政府の考えを無視して暴走した昭和の陸軍ができあがる。
戦争が“メシの種”である軍人にとって、戦争がなければ顎が干上がってしまうし、出世もない。

山県にとって日露戦争は業績の仕上げのようなものだが、それについてはこういう一節がある。
《まさに「惨勝」であった。
国家をつくってきた日本の指導者は、これ以上の戦闘能力はない国情を胸にひめながら、ともかくも日本の勝利を国際的に確定させた。そこに、明治の明るさがある。それだけに、日本の勝利が、欧米列強によって圧迫されつづけたアジア諸国に、信じられないほどの共感と讃嘆をうんだのである。
しかし、ポーツマス後に日本は、正しい国際的な対処を忘れはじめる。国民感情が、これを惨勝と理解せず、大勝利の国民戦争と夢想したところに、近代日本の悲劇があるのである。》(248ページ)

このあたりは司馬さんの「坂の上の雲」を意識しながらお書きになっただろう。勝つはずのない超大国ロシアに勝ったのだから。東郷は軍神に祀りあげられ、乃木神社がつくられて、この戦勝を頂点に日本は軍国主義へと坂道をころげ落ちていく。

元勲山県の死は1922年(大正11)。
自身が作り上げた西欧に比肩すべき“輝かしき”大日本帝国が、そのあとどういう帰趨をたどったか、知るよしもない。
玉音放送を聴取することもなく、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に、渋谷南平台町の陸相官邸で割腹した陸軍大臣阿南惟幾(あなみ・これちか)は、この山県が敷いたレールの上をまっすぐに走ってきた男であった。
半藤さんが書いた「日本のいちばん長い日」をご存じの方もおられるだろう。

半藤さんは「昭和から明治」を見てきた人である。したがって、結果がすべて出尽くした現在から、過去を裁いている。
しかし、その愚をよく知っている。半藤さんは半藤さんなりに、山県に寄り添いながら歩こうとしている。そのため、墓参までおこなっているのだ。
むろん小説ではなく、歴史的人物への深い洞察に裏付けられたノンフィクション。

小説仕立てにせず、よくここまで資料を調査し、山県の人間性をあぶり出したものだと、高く評価せずにはいられない。
う~ん、半藤一利さん、またしても大したものだ。
脱帽あるのみ(=_=)


  (肖像はウィキペディアよりお借りしました)



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