本編も半藤一利さんの代表作の一つ。渾身の力作である。
あまりに稠密なので、しっかり活字につかまっていないと、途中で振り落とされる。半藤さんの仕事を知らず、いきなり本編を読みはじめたら、最後まで読み通せる人、半分いないかもねぇ(´?ω?)
《宣戦布告しなかったことで、戦後の国家分断を防ぐことができた。私はそう思っています。》(朝枝繁春「追憶」より。57ページ)
分断とは何か!
ソ連に宣戦布告していれば、朝鮮のように、国家分断の憂き目にあったろう・・・ということ。
じっさいに、スターリンは、釧路/留萌線から北を占領することを視野に入れていた。
そうしたら、樺太の南半分と、北方領土のみならず、北海道の北半分が、共産圏に組み込まれていたわけだ。
ソ連は日本に宣戦布告しなかったし、日本もソ連に宣戦布告しなかった。
そのことが、結果として朝鮮やドイツのように、分断されずにすんだのだ、という。
国際政治の酷烈なパワーゲーム。
世間知らずの日本は、何となんと、そのスターリンのソ連に、対米戦争終結の仲介を頼んでいたというのだから、あきれてしまう(。-ω-)
さてここらでBOOKデータベースの内容紹介を引用しておこう。
《日露戦争の復讐と版図拡大に野望をいだくスターリン、原爆を投下し戦後政略を早くも画策する米英、日ソ中立条約を頼り切ってソ満国境の危機に無策の日本軍首脳―三様の権謀が渦巻く中、突如ソ連軍戦車が八月の曠野に殺到した。百万邦人が見棄てられた昭和史の悲劇を、『ノモンハンの夏』の作家が痛烈に描く。》
日ソ中立条約を頼り切ってソ満国境の危機に無策の日本軍首脳。その結果、何十万人の人たちが右往左往し、突然侵攻したソ連極東軍に蹂躙される。
これほど凄惨な出来事が繰り広げられたことを、うかつにも知らなかったとは!!
目次をひろってみると、
第一章 突撃命令
第二章 八月九日
第三章 宿敵と条約と
第四章 独裁者の野望
第五章 天皇放送まで
第六章 降伏と停戦協定
第七章 一将功成りて
・・・こういった構成となる。
大雑把にいえば、第一章から第四章までは、峻烈なあさましい国際政治の表舞台・裏舞台のありさまを、多くの参考文献をもとにして、入念に検証していく。関心が途切れそうになって、読者としてのわたしは本の中で迷子になりかけた(^^;
しかし、ここをしのぎ切ってしまえば、最後のページまでたどり着けるだろう、との思いを胸にしながら。
わたしがほんとうに読みたかったのは、第五章以下。
満洲にソ連が侵攻し、日本兵と一般の日本人のすべてが追い出されるまで、そこで何が行われたのか(´?ω?)
兵隊さんだけでなく、多くの民衆が虐殺された。女子供・老人の区別もなく・・・。
戦線布告はないし、日ソ中立条約の期限はまだ切れていない。そこに、戦車、戦闘機、砲弾が襲いかかる。
半藤さんは冷静で理知的なので、読者は涙を流すことはない。
しかし、この惨状はだれもが目を覆いたくなる悲劇、いや劇ではなく事実である。
しかも、8月9日に侵攻開始し、8月の終わるころまでに、ソ連は日本から、多くの人命、資産、領土、金品を奪っていく。
天皇の詔勅、玉音放送など関係ないのだ。
スターリンの欲望は、真に恐るべきものがある。
東部戦線では2000万人の犠牲者が出ているので、日本人50万60万の死などとるに足らない。
かろうじて生き延び、捕虜となった兵士などは強制収容所に連行される。こういった驚くべき現実を、よくもまあ、これほど冷静・客観的筆致で書きあげたものだと、わたし的にはうなるしかなかった。
しかし、だれかが書かなければならなかったから、文献資料や生き残った人たちの談話を踏まえて半藤さんがその役目を負った・・・ということであろう。
戦争の語り部としての使命感すらただよってくる。語られた内容に、多くの読者はことばを失う。
《日本の厚生省調査では、将兵五十六万二千八百人、このほか官吏・警察官・技術者など一万一千七百三十人もシベリアに送られた、とされている。そして無事にソ連から引き揚げてきた人びとは四十七万二千九百四十二人である。これが正確とすると、十万人以上の日本人がシベリアの土の下に眠っていることになろう。》(353ページ)
半藤一利さんはあとがきでこうも述べている。
《長々しいノンフィクションとなったが、本書で書きたかったのは、結局、正義の戦争はない、という終章の一行につきるようである。》(359ページ)
《それぞれの国がかかげる「正義」の旗印は、つまるところ国益の思想的粉飾にすぎないのである。》(359ページ)
《「正義」の旗印は、つまるところ国益の思想的粉飾にすぎない》という現実は、現在もつづいている。ウクライナ危機がまさにそれである。
国家間の戦争、いのちを落とす兵士たち。
東大教授の加藤陽子さんの本のタイトルを借りれば、「それでも、日本人は“戦争”を選んだ」のである。
半藤さんが全力投球した「ソ連が満洲に侵攻した夏」。
ここに書かれているような事実があったという歴史から、われわれは多くのものを、じつに多くの真実を学ばねばならないだろう。
山崎豊子さんの「大地の子」がNHKで放送されたとき、大部分の日本人は「ああ、そんなこともあったのか」とはじめて気づいたのだ。
ウィキペディアには、こんな記事がある。
《本作執筆に際し、作者は1984年(昭和59年)から胡耀邦総書記に3度面会し、取材許可を取り当時外国人に開放されていない農村地区をまわり300人以上の戦争孤児から取材した(山崎は「残留」という言葉があたかも孤児達が自分の意思で中国に残ったかのような印象を与えるとの理由から、残留孤児という呼称を使わなかった)。》
「これまでいろいろな場面で作品の取材を重ねてきたけれど、終始泣きながら取材したのは、こときだけ」と山崎さんはのちに語っている。
さらに、わたしの手許にはこんな写文集がある。
(シャオハイとは、中国語で子どものこと)
山崎さんのはフィクションだけれど、こちらは真正のドキュメント写真。
1981年4月から3年がかり、5回の渡航で取材した、貴重な記録。これによって江成常夫は85年度土門拳賞を受けている。
何となんと、ここまでで、もうことばにはならない(。-ω-)
涙が枯れはててからも、一歩また一歩、人間はいのちあるかぎり生きていかねばならない。江成さんが必死の思いで検証したかったのは、この重い、厳粛な現実なのである。
評価:☆☆☆☆☆
このあとでひきつづき、半藤一利対談集「昭和史をどう生きたか」(文春文庫)も読んだ。
「栗林忠道と硫黄島」梯久美子
「東京の戦争」吉村昭
「戦争と艶笑の昭和史」丸谷才一
などはたいへん興味深く読ませていただいた。
しかし、まったく噛み合っていないと推測される対談も混じっている。わたし的には“余滴”として読んだので、評価はしないでおく。
なかでも「戦争と艶笑の昭和史」丸谷才一は爆笑ケッサク艶笑対談。
こうして憂さをはらしていた庶民のエネルギーよ(^^♪
あまりに稠密なので、しっかり活字につかまっていないと、途中で振り落とされる。半藤さんの仕事を知らず、いきなり本編を読みはじめたら、最後まで読み通せる人、半分いないかもねぇ(´?ω?)
《宣戦布告しなかったことで、戦後の国家分断を防ぐことができた。私はそう思っています。》(朝枝繁春「追憶」より。57ページ)
分断とは何か!
ソ連に宣戦布告していれば、朝鮮のように、国家分断の憂き目にあったろう・・・ということ。
じっさいに、スターリンは、釧路/留萌線から北を占領することを視野に入れていた。
そうしたら、樺太の南半分と、北方領土のみならず、北海道の北半分が、共産圏に組み込まれていたわけだ。
ソ連は日本に宣戦布告しなかったし、日本もソ連に宣戦布告しなかった。
そのことが、結果として朝鮮やドイツのように、分断されずにすんだのだ、という。
国際政治の酷烈なパワーゲーム。
世間知らずの日本は、何となんと、そのスターリンのソ連に、対米戦争終結の仲介を頼んでいたというのだから、あきれてしまう(。-ω-)
さてここらでBOOKデータベースの内容紹介を引用しておこう。
《日露戦争の復讐と版図拡大に野望をいだくスターリン、原爆を投下し戦後政略を早くも画策する米英、日ソ中立条約を頼り切ってソ満国境の危機に無策の日本軍首脳―三様の権謀が渦巻く中、突如ソ連軍戦車が八月の曠野に殺到した。百万邦人が見棄てられた昭和史の悲劇を、『ノモンハンの夏』の作家が痛烈に描く。》
日ソ中立条約を頼り切ってソ満国境の危機に無策の日本軍首脳。その結果、何十万人の人たちが右往左往し、突然侵攻したソ連極東軍に蹂躙される。
これほど凄惨な出来事が繰り広げられたことを、うかつにも知らなかったとは!!
目次をひろってみると、
第一章 突撃命令
第二章 八月九日
第三章 宿敵と条約と
第四章 独裁者の野望
第五章 天皇放送まで
第六章 降伏と停戦協定
第七章 一将功成りて
・・・こういった構成となる。
大雑把にいえば、第一章から第四章までは、峻烈なあさましい国際政治の表舞台・裏舞台のありさまを、多くの参考文献をもとにして、入念に検証していく。関心が途切れそうになって、読者としてのわたしは本の中で迷子になりかけた(^^;
しかし、ここをしのぎ切ってしまえば、最後のページまでたどり着けるだろう、との思いを胸にしながら。
わたしがほんとうに読みたかったのは、第五章以下。
満洲にソ連が侵攻し、日本兵と一般の日本人のすべてが追い出されるまで、そこで何が行われたのか(´?ω?)
兵隊さんだけでなく、多くの民衆が虐殺された。女子供・老人の区別もなく・・・。
戦線布告はないし、日ソ中立条約の期限はまだ切れていない。そこに、戦車、戦闘機、砲弾が襲いかかる。
半藤さんは冷静で理知的なので、読者は涙を流すことはない。
しかし、この惨状はだれもが目を覆いたくなる悲劇、いや劇ではなく事実である。
しかも、8月9日に侵攻開始し、8月の終わるころまでに、ソ連は日本から、多くの人命、資産、領土、金品を奪っていく。
天皇の詔勅、玉音放送など関係ないのだ。
スターリンの欲望は、真に恐るべきものがある。
東部戦線では2000万人の犠牲者が出ているので、日本人50万60万の死などとるに足らない。
かろうじて生き延び、捕虜となった兵士などは強制収容所に連行される。こういった驚くべき現実を、よくもまあ、これほど冷静・客観的筆致で書きあげたものだと、わたし的にはうなるしかなかった。
しかし、だれかが書かなければならなかったから、文献資料や生き残った人たちの談話を踏まえて半藤さんがその役目を負った・・・ということであろう。
戦争の語り部としての使命感すらただよってくる。語られた内容に、多くの読者はことばを失う。
《日本の厚生省調査では、将兵五十六万二千八百人、このほか官吏・警察官・技術者など一万一千七百三十人もシベリアに送られた、とされている。そして無事にソ連から引き揚げてきた人びとは四十七万二千九百四十二人である。これが正確とすると、十万人以上の日本人がシベリアの土の下に眠っていることになろう。》(353ページ)
半藤一利さんはあとがきでこうも述べている。
《長々しいノンフィクションとなったが、本書で書きたかったのは、結局、正義の戦争はない、という終章の一行につきるようである。》(359ページ)
《それぞれの国がかかげる「正義」の旗印は、つまるところ国益の思想的粉飾にすぎないのである。》(359ページ)
《「正義」の旗印は、つまるところ国益の思想的粉飾にすぎない》という現実は、現在もつづいている。ウクライナ危機がまさにそれである。
国家間の戦争、いのちを落とす兵士たち。
東大教授の加藤陽子さんの本のタイトルを借りれば、「それでも、日本人は“戦争”を選んだ」のである。
半藤さんが全力投球した「ソ連が満洲に侵攻した夏」。
ここに書かれているような事実があったという歴史から、われわれは多くのものを、じつに多くの真実を学ばねばならないだろう。
山崎豊子さんの「大地の子」がNHKで放送されたとき、大部分の日本人は「ああ、そんなこともあったのか」とはじめて気づいたのだ。
ウィキペディアには、こんな記事がある。
《本作執筆に際し、作者は1984年(昭和59年)から胡耀邦総書記に3度面会し、取材許可を取り当時外国人に開放されていない農村地区をまわり300人以上の戦争孤児から取材した(山崎は「残留」という言葉があたかも孤児達が自分の意思で中国に残ったかのような印象を与えるとの理由から、残留孤児という呼称を使わなかった)。》
「これまでいろいろな場面で作品の取材を重ねてきたけれど、終始泣きながら取材したのは、こときだけ」と山崎さんはのちに語っている。
さらに、わたしの手許にはこんな写文集がある。
(シャオハイとは、中国語で子どものこと)
山崎さんのはフィクションだけれど、こちらは真正のドキュメント写真。
1981年4月から3年がかり、5回の渡航で取材した、貴重な記録。これによって江成常夫は85年度土門拳賞を受けている。
何となんと、ここまでで、もうことばにはならない(。-ω-)
涙が枯れはててからも、一歩また一歩、人間はいのちあるかぎり生きていかねばならない。江成さんが必死の思いで検証したかったのは、この重い、厳粛な現実なのである。
評価:☆☆☆☆☆
このあとでひきつづき、半藤一利対談集「昭和史をどう生きたか」(文春文庫)も読んだ。
「栗林忠道と硫黄島」梯久美子
「東京の戦争」吉村昭
「戦争と艶笑の昭和史」丸谷才一
などはたいへん興味深く読ませていただいた。
しかし、まったく噛み合っていないと推測される対談も混じっている。わたし的には“余滴”として読んだので、評価はしないでおく。
なかでも「戦争と艶笑の昭和史」丸谷才一は爆笑ケッサク艶笑対談。
こうして憂さをはらしていた庶民のエネルギーよ(^^♪