二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

「昨日いらつしつて下さい」 ~室生犀星の三つの作品をめぐって

2019年06月25日 | 俳句・短歌・詩集
先日新藤兼人さんの「『断腸亭日乗』を読む」を読みおえ、表現しにくい、ある感動を味わった。終章の「墨東綺譚」について語ったところは委曲を尽くしていて、あますところがない。“お雪”は実在したのか・・・。新藤さんは荷風の日記を丁寧に読みこんでゆき、ついにその記事をさぐり当て、小説誕生の舞台裏に迫る。

モデルとされた女と、荷風は出会っていたのだ、じっさいの玉ノ井で。
この女が荷風に霊感を呼び覚ます。日記を読み込みながら「ああ、ここだ。ここだ!」という発見者の興奮がつたわってくる。
新藤さんのことばはしだいに少なくなる。そして「断腸亭日乗」からの抜き書き、引用が紙幅を覆い尽くしていく。

わたしはちょっと胸がふるえ、目頭が熱くなった・・・と正直に書いておこう(=_=)
読書のよろこびはこういうところにあるのですねぇ、まさに。
荷風の日常生活からどういうふうに「墨東綺譚」が文学作品として立ち上がってくるのか、わたしにとっても長いあいだの疑問であったものがすっきりと見えてきた。
ただし、新藤兼人さんの映画は一作も観ていないので、これ以上は立ち入るのは避けておこう。

――はてさて、ここまでは前フリで、今日は萩原朔太郎の僚友であった室生犀星について書くことにする。


きのふ いらつしつて下さい。
きのふの今ごろいらつしつてください。
そして昨日の顔にお逢ひください、
わたしくしは何時(いつ)も昨日の中にゐますから。
きのふのいまごろなら、
あなたは何でもお出来になった筈です。
けれども行停(ゆきどま)りになったけふも
あすもあさっても
あなたにはもう何も用意してはございません。
どうぞ きのふに逆戻りして下さい。
きのふいらつしつてください。
昨日へのみちはご存じの筈です。
昨日の中でどうどう廻りなさいませ。
その突き当たりに立つてゐらっしゃい。
突き当たりが開くまで立ってゐてください。
威張れるものなら威張って立つてください。
 (室生犀星「昨日いらつしつて下さい」全編。表記の不統一は原文のまま)

BOOK OFFを散歩していたら、新潮社の日本詩人全集(全34巻)のバラ本が108円の棚に20冊ほど置いてあった。立ち読みしていると、この作品にちょっと胸の端っこを射抜かれた。
室生犀星は、わたしにとっては萩原朔太郎の影に入ってしまって、これまでほとんど関心をもったことのない詩人。だから手にとって、パラパラ立ち読みしたようなもの。
「この詩は、昔むかし、読んだことがあるかもしれない」
ボンヤリとだが、既視感のようなものがある。
そして本を買って帰った。

とてもいい詩である。
ところでここでいう「あなた」とはだれのことだろう、そして「わたくし」とは?
《きのふ いらつしつて下さい。
きのうふの今ごろいらつしつてください。
そして昨日の顔にお逢ひください、
わたしくしは何時も昨日の中にゐますから。》

この四行が、暗喩として、すぐれた効果をあげている。
「わたくし」は人生の下り坂にさしかかっている。この「わたくし」を、犀星と読むか、かつて身近にいた“女性”(愛人)と読むかで、印象はことなってくる。最後の一行から判断すると、「わたくし」が女性で、あなたと呼びかけられているのが作者であろう。

ごく平凡で退屈な「愛と憧憬」をうたった詩人だと思っていたが、この抒情詩にはそういったものとは違った深い味が隠されている。
「昨日へのみち」を年中さがしているわたしのような人間にとっては、看過することのできない作品である。しかも、なかなかの逸品♪

年譜を参照すると、詩集「昨日いらつしつて下さい」は、犀星71歳の年に刊行されている。
昭和31年 短編集「舌を噛み切った女」
昭和32年 詩集「哈爾浜詩集」 新聞小説「杏っ子」を連載。読売文学賞。
昭和33年 エッセイ「我が愛する詩人の伝記」刊行。毎日出版文化賞。
昭和34年 詩集「昨日いらつしつて下さい」を刊行。 長編「蜜のあはれ」長編「かげろふの日記遺文」を刊行。野間文芸賞。

室生犀星は昭和37年(1962)に没している。
晩年にいたって、それまでのうっぷんを晴らすかのように大爆発(ブレイク)した作家であった。
そういったことを踏まえたうえで、この一編は読まれるべきだろう・・・とわたしはかんがえている。

この新潮社日本詩人全集第15巻「室生犀星」を拾い読みしながら、もう一つ、たいへんすぐれた詩と巡りあった。
それをそっくり引用しておこう。

「老いたるえびのうた」

けふはえびのように悲しい
角(つの)やらひげやら
とげやら一杯生やしてゐるが
どれが悲しがってゐのか判らない。

ひげにたづねて見れば
おれではないといふ。
尖ったとげに聞いて見たら
わしでもないといふ。
それでは一体誰が悲しがってゐるのか
誰に聞いてみても
さっぱり判らない。

生きてたたみを這うているえせえび一疋。
からだじうが悲しいのだ。
  (「老いたるえびのうた」全編)

但し書きに「遺作」と註がある。これが犀星の絶唱、幕引き(フィナーレ)であった。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこへかへらばや
遠きみやこへかへらばや
  (「小景異情」その二 より)

これがよく知られた犀星の青春のうた、出発のうたであった。
その詩人が、紆余曲折をへて、人生のとっぱずれまで歩いてきて、「老いたるえびのうた」を書いたのだ。
彼は明らかに、さいごが近いことを予感していた。
その悲しみは、老いたるえびに託された。「蜜のあはれ」では美しく若い女人のような金魚との対話に生のあわれを託したように。

表現者室生犀星が後世に残したものをかたわらに置いて、
今夜、だれかと一献傾けたくなったなあ(^^)/~~~

「あしたも降るかね」「ああ、あしたも降るだろう」
「梅雨どきだからね」「しばらくは降るね」
「ああ、降るだろう、梅雨は湿気っぽいけど、落ちつくね」「うん、落ちつくね」
・・・そんな他愛ない話をしながら。


※映画「蜜のあわれ」予告編
https://www.youtube.com/watch?v=Tfk6d3ZSfxA
扇情的だなあ、映画だとこうなるという見本のような作品(=_=)

//以上 おしまい
(たいへん長くなり、失礼いたしました)

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