新刊書店の散歩をしているとき棚にあったのを見つけた。
その場で立ち読みし、即買い。
いや~、こんなガイドブックがあったのか・・・これはぜひ、はやめに読んでおこう、と。
というのも、レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ドゥルーズ等、フランス現代思想の本が、昨年秋あたりから身辺に集まってきているからだ(。・_・)
歴史と文学のジャンルに較べて、哲学・思想・宗教の分野はむずかしい。
若いころから読んでいれば、こんなに苦労しなくてすんだのかな!? 「読み方」を工夫しなければ、数十ページ、あるは真ん中あたりで、挫折する。そういう「挫折本」が、わたしには何冊もある。
レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ドゥルーズ・・・この人たちは二十世紀後半、世界をリードした“知の巨人”たちなのだから、一筋縄でいかないのももっともだろう。
・レヴィ=ストロース
・ラカン、バルト、アルチュセ-ル
・フーコー
・ドゥルーズ/ガタリ
・デリダ
これら人物の著作に一章をついやして紹介してくれる。彼らの「近代思想批判」(一口でいえばこのキーワードに集約される)を、その特徴をしっかりと把握したうえで横断的・同時代的に紹介しているが、こういう仕事は相当なことばの腕力の持ち主でないとできないはず。
アメリカやドイツ、イギリスではなく、なぜこの時期フランスに、世界的な思想家が集中して現れたのか?
日本では夏目漱石や小林秀雄、吉本隆明といった巨人がいるが、日本語という制約に阻まれ、残念ながら世界思想に影響をあたえることはないが。
翻訳大国ニッポン。だから日本語で読もうとかんがえれば、そのほとんどの著作を読むことはできる。だが・・・。そういった著作を解読し、理解するとなると、そう容易くはない。
本書「フランス現代思想史 構造主義からデリダ以後へ」は、そういう意味でビギナー向けのガイドブックとして、たいへんすぐれたものだ。
《一九六〇年代初め、サルトルの実存主義に代わり、西洋近代を自己批判的に解明する構造主義が世界を席捲した。レヴィ=ストロースをはじめ、ラカン、バルト、アルチュセールの活躍。六八年の五月革命と前後するフーコー、ドゥルーズ=ガタリ、デリダによるポスト構造主義への展開。さらには九〇年代の管理社会論と脱構築の政治化へ。構造主義の成立から巨匠たち亡き後の現在までを一望する、ダイナミックな思想史の試み。》(本書内容紹介)
なさけないといえばなさけないが、流行の思想には、わたしは以前は近づかないようにしていた。理解できないのがわかっていたからだ。だけど、そうはいっても、わたしの中のミーハー気質が、「嫌ってばかりいないでアプローチしてみたら、案外おもしろいかも知れないよ」とささやく。
どうもわたしには、一ページ、一ページ、あるいは一節一節、きちんと理解できないと先へすすめない悪癖がある。
「わからなくても、とりあえず全部読んでしまえ。字面だけでも」
うん、そうなのだ。そのときはわからなくても、数十ページすすんだところで、不意に目の前の靄が晴れて、くっきりした視界が開けてくるかも。
そうなのだ、そういう経験はしばしばある。
著者の岡本裕一朗さんは「ソーカル事件」から本書を説き起こしている。
ある種のブラック・ジョークで、フランスの現代思想が、いかにいい加減で出鱈目なものか、アメリカの物理学教授ソーカルが仕掛けたいたずらである。
この冒頭の数ページを読んで、わたしは本書を買うことに決めたのだ。
書いている当の思想家がいい加減に概念を操作し、読者を煙に巻いているんだぞ・・・ということがわかると、こわばっていた関節がやわらかくなる。
本書はわたしの眼には、まことにフレキシブルな、興味深いガイドブックに見えた。
「へええ、そうか?」「へええ、そうなのか!」
しばしばハタと膝を打ちたくなった(^o^) 書かれてある内容はレベルを落とし、読者に媚びているというか、サービス過剰なわけではない。
そのあたりの微妙な匙加減が見事。
ある観点に立って、こういった一群の思想家の言説を「フレンチ・セオリー」として括弧に入れてしまうことも可能なようである。またポスト構造主義はごく大ざっぱにいえば“言語論からメディア論へ”と動いているそうである。
岡本裕一朗さんは、本当に要約がうまいといっていいのではなかろうか。そうでなければ、同時代的な思想史など、こういう新書の一冊としてまとめられるわけがない。
最後に必読書リストが列挙してあり、それぞれコメントが付せられている。これらの糸をたぐって、谷へ下るなり、稜線を目指すなり、お好きにどうぞ・・・なのである(*゚ー゚)v
わたしのような読者にとってはじつにタイムリーな、貴重な一冊であった。
評価:☆☆☆☆☆
その場で立ち読みし、即買い。
いや~、こんなガイドブックがあったのか・・・これはぜひ、はやめに読んでおこう、と。
というのも、レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ドゥルーズ等、フランス現代思想の本が、昨年秋あたりから身辺に集まってきているからだ(。・_・)
歴史と文学のジャンルに較べて、哲学・思想・宗教の分野はむずかしい。
若いころから読んでいれば、こんなに苦労しなくてすんだのかな!? 「読み方」を工夫しなければ、数十ページ、あるは真ん中あたりで、挫折する。そういう「挫折本」が、わたしには何冊もある。
レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ドゥルーズ・・・この人たちは二十世紀後半、世界をリードした“知の巨人”たちなのだから、一筋縄でいかないのももっともだろう。
・レヴィ=ストロース
・ラカン、バルト、アルチュセ-ル
・フーコー
・ドゥルーズ/ガタリ
・デリダ
これら人物の著作に一章をついやして紹介してくれる。彼らの「近代思想批判」(一口でいえばこのキーワードに集約される)を、その特徴をしっかりと把握したうえで横断的・同時代的に紹介しているが、こういう仕事は相当なことばの腕力の持ち主でないとできないはず。
アメリカやドイツ、イギリスではなく、なぜこの時期フランスに、世界的な思想家が集中して現れたのか?
日本では夏目漱石や小林秀雄、吉本隆明といった巨人がいるが、日本語という制約に阻まれ、残念ながら世界思想に影響をあたえることはないが。
翻訳大国ニッポン。だから日本語で読もうとかんがえれば、そのほとんどの著作を読むことはできる。だが・・・。そういった著作を解読し、理解するとなると、そう容易くはない。
本書「フランス現代思想史 構造主義からデリダ以後へ」は、そういう意味でビギナー向けのガイドブックとして、たいへんすぐれたものだ。
《一九六〇年代初め、サルトルの実存主義に代わり、西洋近代を自己批判的に解明する構造主義が世界を席捲した。レヴィ=ストロースをはじめ、ラカン、バルト、アルチュセールの活躍。六八年の五月革命と前後するフーコー、ドゥルーズ=ガタリ、デリダによるポスト構造主義への展開。さらには九〇年代の管理社会論と脱構築の政治化へ。構造主義の成立から巨匠たち亡き後の現在までを一望する、ダイナミックな思想史の試み。》(本書内容紹介)
なさけないといえばなさけないが、流行の思想には、わたしは以前は近づかないようにしていた。理解できないのがわかっていたからだ。だけど、そうはいっても、わたしの中のミーハー気質が、「嫌ってばかりいないでアプローチしてみたら、案外おもしろいかも知れないよ」とささやく。
どうもわたしには、一ページ、一ページ、あるいは一節一節、きちんと理解できないと先へすすめない悪癖がある。
「わからなくても、とりあえず全部読んでしまえ。字面だけでも」
うん、そうなのだ。そのときはわからなくても、数十ページすすんだところで、不意に目の前の靄が晴れて、くっきりした視界が開けてくるかも。
そうなのだ、そういう経験はしばしばある。
著者の岡本裕一朗さんは「ソーカル事件」から本書を説き起こしている。
ある種のブラック・ジョークで、フランスの現代思想が、いかにいい加減で出鱈目なものか、アメリカの物理学教授ソーカルが仕掛けたいたずらである。
この冒頭の数ページを読んで、わたしは本書を買うことに決めたのだ。
書いている当の思想家がいい加減に概念を操作し、読者を煙に巻いているんだぞ・・・ということがわかると、こわばっていた関節がやわらかくなる。
本書はわたしの眼には、まことにフレキシブルな、興味深いガイドブックに見えた。
「へええ、そうか?」「へええ、そうなのか!」
しばしばハタと膝を打ちたくなった(^o^) 書かれてある内容はレベルを落とし、読者に媚びているというか、サービス過剰なわけではない。
そのあたりの微妙な匙加減が見事。
ある観点に立って、こういった一群の思想家の言説を「フレンチ・セオリー」として括弧に入れてしまうことも可能なようである。またポスト構造主義はごく大ざっぱにいえば“言語論からメディア論へ”と動いているそうである。
岡本裕一朗さんは、本当に要約がうまいといっていいのではなかろうか。そうでなければ、同時代的な思想史など、こういう新書の一冊としてまとめられるわけがない。
最後に必読書リストが列挙してあり、それぞれコメントが付せられている。これらの糸をたぐって、谷へ下るなり、稜線を目指すなり、お好きにどうぞ・・・なのである(*゚ー゚)v
わたしのような読者にとってはじつにタイムリーな、貴重な一冊であった。
評価:☆☆☆☆☆