昨年秋から、写真ばかり撮っていて、ろくすっぽ本を読まなかった。
とはいえ、まったく活字の世界からはなれていた・・・というのではない。
クルマの中にも、ベッドの枕辺にも、リビングにも、たくさんの本が置いてあり、書棚におさまりきらない書物が、あちこちに平積みになっている。
それらは「いつかは読もう」と思って、わたしが買いもとめた書物なのであるが、読んだのはおよそ1/10くらいだろう。いったい何冊の書物とともに同居しているのか(笑)。
われながらあきれて、とてもじゃないが、その数を数えてみる気など起こらない。
詩を書きはじめたころから、「そろそろ活字モードへ移行したいなあ」という漠然たる欲望を、こころの片隅に感じてはいた。
森山大道さんの写真集を“読む”ことも、広義の読書に入るのだから、そういう意味では、読書をあまり「厳密に」定義する必要はないだろう。
しかし、ことしになってどんな本を読んだの?
・・・などと友人に訊かれ、返答に窮するのだが、一昨日から、ヘミングウェイの「移動祝祭日」(高見浩訳・新潮文庫)をとてもおもしろく読んでいる。
いまふり返ってみると、ここ数年のあいだに、いろいろな曲がり角があった。
右へ曲がるか。左へ曲がるか。
あるいは、まっすぐにすすんでいこうか・・・と。
右へ曲がれば、わたしが左へ曲がったとき見えるはずの風景や運命や、そこにいる人びととは出会うことができない。
よく考えて、決断を下し、選択しなければ、人は前へすすむことはできない。
「いまおれはなにがほんとうはやりたいのだろうか」
「なにを見極めようとしているのか」
「あのとき、こころの中で、なにが起こったのだろう?」
・・・そんなとき、たぐり寄せてみたくなる、何冊かの本を思い浮かべる。
「カルメン」
「風車小屋だより」
この二つの作品は、そのディテールの印象が、断片的にずっと頭の中に存在しつづけている小説である。あとは、付け加えるなら「ぼく東綺譚」と中島敦の何編かとなるだろう。むろんドストエフスキーとカフカの作品も逸することはできないけれども。
(これらすべては、mixiのレビューにそのときの印象を2000字程度にまとめてアップしてある)。
このあいだ「死の家の記録」(新潮文庫)を、ふたたび買ってきた。
この本をわたしはすでに持っているのだけれど、そのほうには、傍線やら書き込みやらがたくさんしるされてある。そのときの「読書体験」というのは、「そのときのもの」なので、またあらたな気分で、この本を読み返したくなったので、新本を買って持ち歩いているわけである。
さきほど、一時間あまりかけて、10冊の書物を選びだした。
これらが、「活字モード」への復帰となるかどうか?
わたし自身のこころ――というか、気分のようなものは、だれの場合もそうであるように、たえず更新され、ゆれ動いているものなので、ほんとうのところは、よくはわからない。
ふだん持ち歩く「鞄の中身」をすっかり入れ替えて、そういった気分を一新する。
かつて通ったことのある、その道へ、もういっぺん歩みをすすめてみる。
「そうだ。あそこにはあんな花が咲いていたぞ。結局はあの路地へは入らなかった。あの大通りも、ろくすっぽ知りはしなかった。あそこには、白い煙をもくもくあげている工場があったじゃないか。いま訪れたら、どうなのだろう」
シフト・チェンジの時季が近づいている。
とはいえ、まったく活字の世界からはなれていた・・・というのではない。
クルマの中にも、ベッドの枕辺にも、リビングにも、たくさんの本が置いてあり、書棚におさまりきらない書物が、あちこちに平積みになっている。
それらは「いつかは読もう」と思って、わたしが買いもとめた書物なのであるが、読んだのはおよそ1/10くらいだろう。いったい何冊の書物とともに同居しているのか(笑)。
われながらあきれて、とてもじゃないが、その数を数えてみる気など起こらない。
詩を書きはじめたころから、「そろそろ活字モードへ移行したいなあ」という漠然たる欲望を、こころの片隅に感じてはいた。
森山大道さんの写真集を“読む”ことも、広義の読書に入るのだから、そういう意味では、読書をあまり「厳密に」定義する必要はないだろう。
しかし、ことしになってどんな本を読んだの?
・・・などと友人に訊かれ、返答に窮するのだが、一昨日から、ヘミングウェイの「移動祝祭日」(高見浩訳・新潮文庫)をとてもおもしろく読んでいる。
いまふり返ってみると、ここ数年のあいだに、いろいろな曲がり角があった。
右へ曲がるか。左へ曲がるか。
あるいは、まっすぐにすすんでいこうか・・・と。
右へ曲がれば、わたしが左へ曲がったとき見えるはずの風景や運命や、そこにいる人びととは出会うことができない。
よく考えて、決断を下し、選択しなければ、人は前へすすむことはできない。
「いまおれはなにがほんとうはやりたいのだろうか」
「なにを見極めようとしているのか」
「あのとき、こころの中で、なにが起こったのだろう?」
・・・そんなとき、たぐり寄せてみたくなる、何冊かの本を思い浮かべる。
「カルメン」
「風車小屋だより」
この二つの作品は、そのディテールの印象が、断片的にずっと頭の中に存在しつづけている小説である。あとは、付け加えるなら「ぼく東綺譚」と中島敦の何編かとなるだろう。むろんドストエフスキーとカフカの作品も逸することはできないけれども。
(これらすべては、mixiのレビューにそのときの印象を2000字程度にまとめてアップしてある)。
このあいだ「死の家の記録」(新潮文庫)を、ふたたび買ってきた。
この本をわたしはすでに持っているのだけれど、そのほうには、傍線やら書き込みやらがたくさんしるされてある。そのときの「読書体験」というのは、「そのときのもの」なので、またあらたな気分で、この本を読み返したくなったので、新本を買って持ち歩いているわけである。
さきほど、一時間あまりかけて、10冊の書物を選びだした。
これらが、「活字モード」への復帰となるかどうか?
わたし自身のこころ――というか、気分のようなものは、だれの場合もそうであるように、たえず更新され、ゆれ動いているものなので、ほんとうのところは、よくはわからない。
ふだん持ち歩く「鞄の中身」をすっかり入れ替えて、そういった気分を一新する。
かつて通ったことのある、その道へ、もういっぺん歩みをすすめてみる。
「そうだ。あそこにはあんな花が咲いていたぞ。結局はあの路地へは入らなかった。あの大通りも、ろくすっぽ知りはしなかった。あそこには、白い煙をもくもくあげている工場があったじゃないか。いま訪れたら、どうなのだろう」
シフト・チェンジの時季が近づいている。