二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

萩原朔太郎complex (その3)

2020年07月30日 | 俳句・短歌・詩集
   (現在の利根川と赤城山。大渡橋下の河原から撮影。ほぼ毎日ここを渡って仕事場へ通っていた)



くり返せば、前橋は萩原朔太郎の町である。
残念ながらほかに観光資源といえるものはない。
わたしは前橋で不動産取引、管理の仕事をしていたので、あちらこちら出歩く機会が多かった。
若いころから詩には関心があったので、何十年ものあいだ、朔太郎は“気になる存在”でありつづけた。
では「月に吠える」や「青猫」を、丁寧に、熱心に読んだかというと、そうではない。
いまでも同じだが、小説より詩の方が、はるかに読みにくい。それがなぜかはよくわからない(^^;) 
ウイスキーのストレートと、水割りの差のようなものが存在するのだ。
60歳を過ぎて詩なるものに復帰したわたしでさえ“読みにくい”、読むのに手間取るのだから、一般にはもっと読みにくいと思われていることだろう。


  (広瀬川夕照。カワヤナギが風をはらんでさわさわと靡いている)


  (旧才川町にある公園に建設された『郷土望景詩』の中の一編「才川町」の詩碑。)


これほどゆっくり、また、丁寧に萩原朔太郎の詩を読む日がくるとは、わたし自身思いがけない出来事に属する。
現役の“現代詩人”にはほとんど関心がない、ほんのわずかな例外はあるにしても。
令和というこの時の流れの中で、わたしにとって心底おもしろいと感じられるのは、宮沢賢治や中原中也あたり。そして大手拓次、萩原朔太郎ということになる。
この人たちは、拓次をのぞくと皆ビッグネームで、人気は衰える気配がない。観光資源にされてよろこんでいるのかどうかわからないが・・・。


「青猫」は大正12年(1923)1月に新潮社から刊行されている。この年は7月に同じく新潮社から「蝶を夢む」も出ている。朔太郎38歳である。

「青猫」は以下のような部立て(作品区分)から成り立っている。
幻の寝台 12編
憂鬱なる桜 6編
さびしい青猫 15編 
閑雅な食卓 7編
意志と無明 9編
艶めける霊魂 5編(これに「軍隊」を付す)
 以上54編(「軍隊」をのぞく)

挿画 4枚
付録 自由詩のリズムについて(評論)

袋とじ220ページ、付録49ページ

レモンイエローのハードカバー、分厚い詩集である。
告白すれば、詩集「青猫」全編に眼を通すのは、今回がはじめて。
わたしがよく世話になった「日本詩人全集14 萩原朔太郎」(新潮社)では36編を抄録してある。ふだんときどき持ち歩く新潮文庫版では27編しか収めていない。

この「青猫」時代が、彼の絶頂期であったのだろう。謙虚なことばの背景に、自信がみなぎっている。

《かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとって神秘でもなく、信仰もない。また況(いはん)や「生命がけの仕事」であったり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。
生活の沼地に鳴く青鷺の声であり、月夜の葦に暗くささやく風のおとである。

詩はいつも時流の先導に立って、来るべき世紀の感情を最も鋭敏に触知するものである。されば詩集の真の評価は、すくなくとも出版後五年十年を経て決せられるべきである。五年十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の現今に居る地位に追ひつくであろう。》(「青猫」序の一部)


「一般の俗衆は」と、つい口をすべらしている。被害妄想に悩まされているからこそ、自信満々なふりをしたいのである。
文学というものの価値が、一般に広く信じられていたし、世は大正教養主義全盛の時代。
この序文から、そういう時代の雰囲気がムンムンとにおってくるではないか。

「月に吠える」「青猫」以外ではつぎのような詩集がある。

蝶を夢む 大正12年(「青猫」と同年)
「萩原朔太郎詩集」(刊行年次不明)「青猫以後」を収録
純情小曲集 大正14年
氷島 昭和9年
宿命(散文詩) 昭和14年
  (このほか「定本青猫」があるから紛らわしい)

アフォリズム集「新しき欲情」、「虚妄の正義」、「絶望の逃走」、随想「港にて」そして評論「詩の原理」「恋愛名歌集」「郷愁の詩人与謝蕪村」、散文詩風小説「猫町」がある。その他エッセイ集、評論集を数冊刊行している。
このうち「郷愁の詩人与謝蕪村」「猫町」は読んでいる。しかし、アフォリズム集は多くが思想的には幼稚で、ショーペンハウエル、ニーチェをまねた哲学的断片のため、読書欲が起こらない。



  (ブロンズ像、顔のクローズアップ)


このあたりで「青猫」の冒頭に置かれた代表作のひとつを取り上げてみよう。


 薄暮の部屋 (前半部分)

つかれた心臓は夜をよく眠る
わたしはよく眠る
ふらんねるをきたさびしい心臓の所有者だ
なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ児
寒さにかじかまる蠅のなきごゑ
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ

私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を
私はさびしむ この力のない生命の韻動(ゐんどう)を

恋びとよ
お前はそこに坐ってゐる 私の寝台のまくらべに
恋びとよ お前はそこに坐ってゐる。
お前のほつそりした頚すぢ
お前のながくのばした髪の毛
ねえ やさしい恋びとよ
私のみじめな運命をさすつておくれ
私はかなしむ
わたしは眺める
そこに苦しげなるひとつの感情
病みてひろがる風景の憂鬱を
ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蠅の幽霊
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ
  ~以下略


恋びと、蠅、幽霊。
等価物というわけではないのだが、イメージはこれらのことばのまわりを回っている。
さらに「寝台」が、この時期のキーワードとなっている。
対人恐怖の心因反応のため、症状がひどくなると外を出歩くことができず、部屋にひきこもっていたのだ。

いまなら「うつ病」とか「ひきこもり」といわれている精神症状に、朔太郎は生涯にわたって苦しんでいる。
詩的には内向的、頽廃的な幻想世界に遊んでいるようにみえるが、それは彼にとって「もう一つの現実」であった。
詩的言語のインパクトは「月に吠える」時代の作品と比べ衰えてはいるが、ストーリー性が豊かになり、肉付きがよい作品となっている。
しかし、それだけかえって不気味さがあり“読者を選ぶ”詩といえないこともない。
一般人のような社会生活をいとなんだことのない人間であったことを考慮すべきである。

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